アンコール・トム

ジャヤヴァルマン7世によって12世紀末に築かれた都城アンコール・トム。
中央のバイヨン寺院や象のテラス・ライ王のテラスで有名です。
アンコール・トム内の遺跡を紹介します。
2002年1月、2006年12月訪問。

写真はバイヨン寺院


アンコールトムは12世紀後半にジャヤヴァルマン7世によって築かれました。アンコール・ワットを築いたスールヤヴァルマン2世(1113〜1145年ころ)が亡くなった後の1177年、アンコール朝はチャンパ王国の攻撃を受け、王都も一時的に占領されるといった混乱期を迎えます。

このチャンパ軍を撃破したのがジャヤヴァルマン7世です。チャンパ軍を撃破したジャヤヴァルマン7世は1181年に即位し、以後アンコール朝に空前の繁栄をもたらしました。ジャヤヴァルマン7世はアンコール朝の最盛期の王であり、その王が築いた都城がアンコール・トムです。



南大門

アンコール・トムの入口である南大門
観光客の少なかった2002年の写真です。当時はのどかでした。


アンコール・トムは一辺3キロの正方形をしています。高さ約8m・周囲12キロの城壁で囲まれ、中に入るには5つの門を通るしかありませんでした。東西南北の門(うち東門は死者の門と言います)と王宮のテラスに続く勝利の門です。

アンコール・トムを囲む環濠の上の橋には巨大なナーガで綱引きをする神々(左側)とアスラ(右側)が欄干代わりに並んでいます。不老不死の霊液アムリタを得るために神々とアスラがナーガで綱引きをして海を撹拌したという乳海撹拌を描くものです。

左下の写真はナーガを引く神々。右下は南大門。南大門の上は巨大な顔が彫られた四面塔となっており、また、入り口は象が通れる広さです。ちょうど象が入っていくところが撮れました。

   



バイヨン




南大門をまっすぐ進むとバイヨン寺院に出ます。バイヨンはアンコール・トムの中心に位置する仏教寺院で、多くの顔が彫られていることで有名です。この顔は観世音菩薩の顔とされていますが、創建者であるジャヤヴァルマン7世の顔という説もあります。

バイヨンは仏教の須弥山を模したものと言われています。三層構造になっていて、第2層と第3層に49塔の祠堂があります。この祠堂には四方に巨大な顔が彫られており、四面塔と呼ばれます。

これを取り囲むように第一回廊があり、そこにはチャンパとの戦いの様子や人々の日常生活など様々なレリーフが彫られています。

クメール軍の行軍風景
クメール人は髪が短く、耳が長いのが特徴です。




中国人の部隊が続きます。髪を結っていますし、衣装も全く違います。




船を使った戦闘風景。船から落ちた兵士がワニに食べられています(左下)。
右下はチャンパ軍。チャンパの兵士はヘルメットをかぶっています。

   


こちらは平和な市場の様子。闘犬をしているところです。闘鳥のレリーフもありました。





第2層に登ると、周囲に四面塔が次々と現れます。バイヨンの構造は結構複雑で、気が付くと自分がどこにいるのか分からなくなってしまいます。

   


見学していると、どこからともなく視線を感じます。
この微笑は、なんともいえません。

   


いたる所に、様々なデバターが彫られています。

     




バプーオン

バイヨンの北西、バイヨンと王宮跡の中間にバプーオンはあります。

バプーオンというのは「隠し子」という意味。

11世紀後半にウダヤディディヴァルマン2世によって築かれました。
バイヨンより100年以上古い寺院です。

ヒンズー教の寺院で、5層のピラミッド構造になっています。
右の写真で建物の後ろに山のようなものが見えますが、それが寺院です。元々はバイヨンより高かったと言われています。

上部にはシヴァ神の祠堂があり、かっては黄金製のリンガが頂上に飾られていたのだそうです。

残念ながら、2002年も2006年も本堂は修復中でした。

この寺院で特徴的なのは空中参道と呼ばれる参道です。

右の写真でも分かると思いますが、参道部分が長い橋のようになっています。

これは円柱を4列に並べ、その上に敷石を載せているもの。こちらの修復は終わっていて、通ることができるようになっていました。





ピミアナカス



ピミアナカスは11世紀初頭に建てられたヒンズー教寺院です。かっては、この寺院の横に木造の王宮の建物があったと言われています。

13世紀末にアンコールを訪れた中国僧はこの寺院について「9つの頭を持つ女の龍神がいて、王が毎晩交わらないといけない」と書き残しています。おそらく王家の礼拝所のような役割を果たしていたのでしょう。
元々は小さな礼拝所だったのが、徐々に王たちによって増築され、現在の姿になったと考えられているようです。



象のテラス



ピミアナカスの東、またはバイヨンからまっすぐ北上したところに広々とした王宮前広場とそれに面した象のテラス・ライ王のテラスがあります。どちらもジャヤヴァルマン7世が建造したものです。

かっての王宮の前に位置し、王族たちが閲兵を行った場所と考えられています。上の写真は象のテラスの一部。象が鼻で蓮の花をとっているレリーフが彫られています。

象のテラスは長さが350mもあります。左下の写真は横に伸びる象のテラスを撮ったもの。非常に長いテラスだということがお分かりになると思います。
右下は象のテラスの基壇部分です。象の鼻が柱のようになっているのが面白いですね。

   

左下の写真は象のテラスのうち象のレリーフが残る部分。ちょっと保存状態が悪いですが象です。
象のテラスには、象使いが象に乗ったレリーフもありました。
右下は象のテラスのうち、王のテラスと呼ばれている部分のガルーダのレリーフ。ここから、まっすぐ東に行くと勝利の門です。凱旋した兵は勝利の門から入り、真っ直ぐこのテラスへ進み、王に戦勝報告をしたのだそうです。

   

象のテラスの象と蓮の花の彫刻がある場所には下に小さな部屋があって階段で降りることができます。そこでは保存状態の良い不思議な彫刻を見ることができます。下の写真は5つの頭を持つ馬。観世音菩薩の化身なのだそうです。






ライ王のテラス



象のテラスのすぐ横にライ王のテラスがあります。このテラスにある像がライ病に罹った王であるとしてライ王のテラスと呼ばれていますが、実際には王ではなく閻魔大王だという説もありますし、ライ病とされるのも像の苔むした状態から、そのように言われたのだ等々、色々な説があります。

このテラス、現在の状態にしたのはジャヤヴァルマン7世ですが、元々古いテラスがあり、それを修復したものということが分かっています。古いテラス部分も見ることができます。

左下はライ王像。右下は古いテラスの彫刻。ナーガが見事です。

   


古いテラスの彫刻です。神々や王宮の様子でしょうか。

   



プラサット・スゥル・プラット



王宮前広場には象のテラスに向かい合うように、上の写真のような塔堂のような建物が幾つも並んでいます。
これはプラサット・スゥル・プラット、「綱渡りの塔」と呼ばれています。塔から塔に綱を渡して踊り子につたわせて、それを王が象のテラスから見学したと言われていますが、裁判所という説もあるそうで、どうやら詳しいことは分かっていないようです。

後ろに写っているのはクリアン。勝利の門に通ずる道の左右にあります。倉庫という意味らしいですが、13世紀にアンコールを訪れた中国僧は外国からの賓客の宿泊所と記録しています。



プリア・ピトゥ
(2002年1月)



王宮前広場を、象のテラスから北に進み、東に折れるとプリア・ピトゥがあります。2002年に訪れた時は観光客はほとんどいませんでした。
プリア・ピトゥは12世紀初頭に造られたと言われる仏教寺院です。ジャヤヴァルマン7世後に建立された寺院で5基の建物と数多くの基壇によって構成される遺跡群ですが、残念ながら、ほとんど修復されていません。



テップ・プラナムとプリア・パリライ
(2002年1月)

   

象のテラスの前の道を進み、プリア・ピトゥの反対側に進むとテップ・プラナム寺院と、その奥のプリア・パリライに出ます。

2002年当時、観光客は全くおりませんでした。雰囲気のいい場所です。テット・プラナム寺院(写真左上)は後に置かれた仏像が地元の人達の信仰の対象になっています。ところどころに基壇や獅子・ナーガが残っていました。
その奥にあるプリア・パリライ(写真右上)はジャングルに埋もれつつある印象を受ける寺院です。樹木が寺院を破壊しつつあるように思えましたが、修復の手は入っていませんでした。
この寺院は13世紀から14世紀に建立されたもので、アンコールでは珍しい上座部仏教寺院なのだそうです。壁面にうっすらと仏像のレリーフが残っていました(下)。






アンコール・トムは見どころいっぱい。
しかも、これ以外にも周囲に多くの寺院が残っているのだから驚きです。



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参考文献

アンコール 遺跡を訪ねる旅 日本語版(ARCHIPELAGO PRESS ディエリー・ゼフィー箸)

基本的に現地ガイドさんの説明に基づいてまとめています。