敦煌

シルクロードの要衝、敦煌
甘粛省の北西、タクラマカン砂漠の東端に位置します。
中国から西域への入口とも言うべき場所です。
2006年5月訪問

写真は鳴沙山・月牙泉


シルクロードの要衝である敦煌は中国甘粛省北西部にあります。紀元前111年に前漢の武帝が設置した河西四郡の最西端にあって、いわば、中国から西域への玄関口ともいえる場所です。
地図を見ると、甘粛省というのは、内蒙古自治区とチベットへの入口とも言われる青海省に挟まれた細長い形をしていて(河西回廊とはよくいったものです)、西隣は広大な新疆ウイグル自治区。
昔から様々な民族が入れ替わり立ち代り敦煌の支配者になったと言いますが、現在も、敦煌周辺には様々な民族が周囲に暮らしているわけです。

敦煌へは北京から飛行機で約3時間。

飛行機は、乾いた北京の街を離れると、後はな〜〜んにもない不毛の大地を飛び続けます。ゴビ砂漠でしょうか。

ひたすら茶色いな〜〜んにもない大地の上を飛び続けて2時間半ほど経ったころ、窓から白いものが見えてきました。

始めは雲かと思いましたが、近づけば雪を抱く山脈です。

後で教えてもらったところでは、これが敦煌などのオアシスの水源となっているキレン山脈ということでした。

敦煌はゴビ砂漠のオアシス都市ですが、そもそも、なんで砂漠の中のオアシスに水があるかというと、このキレン山脈の雪解け水が地下水となって流れているからなんだそうです。
ですから、この万年雪がオアシスの水源ということになるんですね。

この山脈が見えて、まもなく、飛行機は敦煌の空港に着陸しました。


鳴沙山・月牙泉

鳴沙山は敦煌市街から南に5キロほどのところにある東西約40km、南北20kmにわたる広大な砂の峰です。5色の砂(赤・黄・緑・白・黒)で出来ていて、天気によって表情を変えると言われる敦煌の名所のひとつ。「鳴沙山」という名前の由来は、現地ガイドさんによると、風で山が鳴るような音がするからとも、この山を滑ると音がするから、とも言われているそうです。
そして、その鳴沙山の谷あいにある泉が月牙泉。砂漠の中のオアシスで昔から水が枯れないことで有名とか。

敦煌市内のホテルからバスに乗ったら、あっという間に駐車場に着きました。
20年前に訪れた人の話では当時は砂山があるだけだったということですが今の入口はこんな感じ。
写真の手前はお土産屋が並んでいます。



入口の門を抜けると、そこは砂漠でした。



砂山の稜線に黒い点々が見えますが、これは砂山を登っている人。

入口の門付近には客待ちのラクダたちがいっぱい。
中東のラクダと違って毛が長く、ふたこぶです。
   

足元の砂はサラサラしていて歩きにくいし、なんといっても「ふたこぶらくだ」には乗ったことがなかったんで、らくださんを利用することにしました。往復で30元。券に番号が書いてあって、どうやら帰りも同じらくださんに乗るシステムになっているらしい。

ふたこぶらくだは、よく調教されているみたいで、大人しいし、乗り心地もなかなか。ふたつのこぶの間に座るので中東のひとこぶらくだより乗り心地はいい気がします。安定感があるんですよね。
でも、オアシスみたいなのが見えたと思ったら、あっという間に下ろされてしまいました。池みたいのもあるし、ここが月牙泉かと思いきや、ここは最近作られた地下水をくみ上げているところで、目指す月牙泉は、更に10分ほど歩いたところにありました。

砂の中に三日月形の泉があって、これが月牙泉。
その横に造られた楼閣は文革の際に壊されたものをケ小平時代に再建したもの。



ここで1時間の自由時間。砂山に登ることにしましたが、これが地獄の苦しみでありました。登りやすいように階段ができていて利用料は30元。それでも登るたびに靴に砂が入るし、登っても登っても頂上につかないんです。砂山を登るコツってあるんでしょうか。しかし、上からの見晴らしはかなりのもの。月牙泉が三日月形をしているのもよく分かりますし、遠く敦煌市街も見えます。帰りは中腹からそりで降りてきました。左下の写真で中腹に人が並んでますが、そり待ちの人たちです。

   

枯れることのないと言われていた月牙泉ですが、実は枯れ始めていて、地下水を汲み上げているのだそうです。中国ならではの環境問題なのか、それとも世界的な異常気象などの影響なのか。ちょっと心配な話です。



白馬塔

白馬塔は敦煌の街に近いところにあります。

ここは4世紀の高僧鳩摩羅什(クマラジーヴァ)が経典を白馬に積んで敦煌まで来たとき、白馬が死んでしまったことから、白馬を葬った場所。

高僧の愛馬で経典を運んだ偉い馬ということからでしょうか、その後も何回も改修されながら、現在も、このように立派に保存されています。

鳩摩羅什というのは、法華経を始めとする多くの経典を漢文に翻訳した偉いお坊さんで、中国はもとより日本の仏教に大きな影響を与えた人物です。

父はインドの貴族、母は亀慈(キジル)の王族という生まれで、古代インド語と中国語の双方に堪能だったため、彼によって、初めて正しい仏教の教えが中国に広まり、それが日本に伝わりました。

鳩摩羅什は幼いころに出家したものの、亀慈が後涼に攻略された際、強制的に妻帯させられ、還俗したという悲劇の人でもあります。
ただ、還俗後、彼が経典の翻訳に取り掛かったおかげで、現在の法華経などがあるわけですが・・・。



玉門関

玉門関というのは漢の時代の関所跡。敦煌は漢の領土の西の端にあたり、関所の先は「西域」となります。西域に通じる道として「西域北道」と「西域南道」があり、西域北道にある関所が「玉門関」、西域南道にある関所が「陽関」なのだそうです。まずは玉門関から観光しました。

敦煌市内のホテルから車で1時間半ほど。玉門関に到着です。
入口には最近造られたらしい門やら、博物館だかお土産屋だか分からない建物があります。
肝心の玉門関はどこ?と思いますよね。写真右下の端に小さく写っているのが玉門関です。




近づいてみても、こんな感じ。
四角い建物でレンガでできているのはわかりますけど、なんか小さいなあ。
中に入ることもできるんですが。う〜〜ん。なんかなあ。



玉門関という名前は、西域の玉がそこから入ってきたことから付けられたのだそうです。しかし、本当に、ここが、その玉門関なのか? 
ガイドさんによると、実は、中国内でもここが玉門関かどうかについては争いがあるそうです。このあたりに関所があって、匈奴の侵入に備えるための兵が駐屯していたというのは間違いないものの、玉門関の建物跡にしては、これはちょっと小さすぎるのではないか、と批判する説もあるとのこと。

難しい説はともかく、砂漠の中にぽつんと関所だけあるというのは納得いかない。関所というからには万里の長城がないと意味ないよねえ。砂漠の中に、ぽつんとある関所に、誰がわざわざ立ち寄って通行料を払うだろうか。長城があって、そこを通らないと通行できないから、仕方なく通らざるを得ないのが関所っていうものではないか・・とツアー参加者みんなでぶ〜ぶ〜と言っていたら、現地ガイドさんが「近くにあります。寄りましょう」ということになりました。言ってみるものです(笑)。



漢の長城

ということで、バスで5分ほど。
これが漢の時代の万里の長城です。


砂漠の中を、ず〜っと続いているのは、なかなか感激。当時の国境線というわけですよね。保存状態の良い部分だけ柵で囲ってあって、柵のないところは登ることもできます。
漢の時代の万里の長城は後の長城に比べてるともろいということですが、2000年もの間、形をとどめているというのは立派なんじゃないでしょうか。



陽関

さて、陽関。着いてびっくり。何ですか、これは。お城みたいのができていて、昔の武器とかが飾ってあって(復元?)、しかも、お隣には古代の兵舎とかも復元されていて、まるで「敦煌歴史村」といった雰囲気です。
なんでも、中国では、こういうものを建てると金を中央から持って来られるというので、すぐに建てちゃうんだそうです。利権とかも絡んでるそうで・・・。
右は現地ガイドさん曰く「ここで見る価値のある唯一のもの」である張騫像。張騫は匈奴に10年以上囚われながら、脱出して西域の情報を漢の武帝に伝えた将軍です。

   

見る価値ないのに、なんでここに入ってきたかというと、実は、陽関に向かうには、この建物からのカートに乗るしかないからなんです。あこぎな商売です。
カート乗り場は復元された兵舎の入口付近にあって、そこには杯を持った王維の大きな像なども立っています(あまり趣味はよくない)。
なぜ王維かというと、陽関といえば、王維の「君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 西のかた陽関を出ずれば故人無からん」という詩で有名だから。陽関を出れば、知っている人は居ないんだから、もう一杯酒を飲もうぜ、という詩ですよね。こういう詩がすらすらと出ると、かっこいいんですが・・・。中国来る前に唐詩選とか読み返しておけばよかった・・。


カートに乗ってむかったのが、こののろし台。
陽関で残っているのは、この漢の時代の「のろし台」だけだそうです。


玉門関と違って、陽関の位置については争いがないそうです。というのも、こののろし台は小高い丘の上にあるのですが、中国では山の南を「陽」と言い、色々と資料と合致するのだそうです。

ガイドさんの話では、ここ陽関からは晴れていればキレン山脈がよく見えるとか。GWのころは黄砂の影響でうす曇のような天気になってしまうので、景色としてはいまいちとのこと。景色が一番きれいなのは夏だそうです。とてつもなく暑いらしいですが・・・。

のろし台の周囲には展望台やら、陽関の碑などが立っていて、ここでは馬を引いた客引きが結構うるさい。観光地観光地しています。


とはいえ、ここから先はタクラマカン砂漠。荒涼とした風景は、なかなかのもの。



車がある現代でさえ、砂漠を通るというのは不安なものです。古代の人たちにとっては、ここから旅立つということは、どんなに不安だったことか。王維の歌の背景が少し見えた気がしました。


西域の入口、敦煌。
莫高窟だけでなくシルクロードへの思いをはせることができる場所が数多く残っています。
中国人が、どんどん趣味の悪い物を造っちゃっているのが心配ですが・・・。



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参考文献

週刊シルクロードbP・敦煌1(朝日出版社)
週刊シルクロードbQ・敦煌2(朝日出版社)
敦煌石窟(中国旅游出版社)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。