ザグレブ

クロアチアの首都ザグレブ
アドリア海と中欧を結ぶ街
瀟洒な建物が多い美しい街でした
2019年10月訪問

写真は街の中心イェラチッチ広場


クロアチアは九州の約1.5倍の面積の国。その首都ザグレブは人口80万、首都圏の人口は120万。アドリア海と中欧を結ぶ商業の街として栄えたザグレブはクロアチア第1の街であるだけでなく、クロアチア唯一の100万人都市です。クロアチアの全人口の約4分の1がザグレブ首都圏で暮らしており、政治だけでなくクロアチアの経済・文化・教育の中心となっています。

ザグレブの街角
   

クロアチアの国土は「く」の字型というか、「つ」の字の逆の型をしていて、アドリア海東岸部分と内陸部に分かれています。アドリア海東岸地方がベネツィアの影響が強かったのに対し、クロアチア内陸部は11世紀末からハンガリーの支配に入ったことからハンガリーの影響が強い地方です。

ザグレブの歴史も11世紀末にハンガリー国王がローマ・カトリックの司教座を置いたことに始まります。丘の上に建てられた宗教都市はカプトルという名でした。13世紀に入ると隣の丘に商工業の街グラデツが築かれます。当初2つの街の間に争いが絶えませんでしたが、次第に一つの街としてまとまっていき、17世紀には2つの街を合わせてザグレブと呼ばれるようになり、1850年に正式に合併しました。
下の写真はザグレブの街の立体模型。2つの街を分けていた小川は今は埋め立てられてトカルチチェヴァ通り。2つの丘の麓にイェラチッチ広場が作られ、丘の下にも街が広がりました。



2つの丘の間を流れる小川(現トカルチチェヴァ通り)の左側が宗教都市カプトル。@聖母被昇天大聖堂、A青果市場が見どころです。青果市場から階段を下りたところがBイェラチッチ広場。
小川の右側が商業都市グラデツ。Cグラデツの出入口であった石の門、そこから真っ直ぐ行ったところにD聖マルコ教会、マルコ教会の前の通りを真っ直ぐ進むとE世界一短いケーブルカー。
ケーブルカーで丘の麓に降りてイリツァ通りを左に進めばBイェラチッチ広場に出ます。


聖母被昇天大聖堂

大聖堂は11世紀末にハンガリー王がカプトルに司教座を置いた時にロマネスク様式で建てられたのがその始まりです。

しかし、13世紀にタタール人によって最初の大聖堂が破壊されてしまったため、その後、バラ窓を持つゴシック様式の建物として17世紀に再建されました。

更に1880年に大地震が襲い、大きな被害を受けたため、現在のネオゴシック様式で再建されました。ところが、再建時、予算不足から安い砂岩を使ってしまったため建物の痛みが早いことが判明し、現在は石灰岩で修復中です。

修復工事中なのは残念ですが、それでも美しい姿です。2つの尖塔は高さが105mあり、クロアチアで最も高い建物となっています。

市内のいたる場所から姿を見ることができて、ザグレブのシンボル的建物。

修復工事が終わったら再び見てみたいなと思って現地ガイドさんにいつ修復工事が終わるのか聞いたら、いつ終わるか全く分からないとのこと。早く修復が終わると良いのですが・・。

繊細で美しい正面入口のレリーフ
   

実に繊細で美しい



観光用の入口は横のようです。横に回ると城壁が見えました。
オスマン・トルコの攻撃に備えて16世紀に築かれた城壁だそうです。



聖堂の中に入ると
なんとも厳かな雰囲気



美しいステンドグラスは19世紀の作品



 聖母が天に上げられる場面(聖母被昇天)
こちらのステンドグラスも美しい


バロック様式の説教壇やルネッサンス様式の祭壇が置かれています



美しい説教壇
バロック様式ということでした。
 
 グラゴール文字の刻まれた壁
スラブ語圏最古の文字でキリル文字の原型です


聖堂内にはステナピッツ大司教の棺が置かれています。
民族主義を押さえようとする社会主義のユーゴスラビア時代に
カトリックを信仰するクロアチアの独立を訴えたため、第2次世界大戦後に戦犯扱いされ、
軟禁状態で残りの人生を過ごしたという大司教です。
クロアチア独立後に名誉回復され殉教者として大聖堂に祀られました。

ステナピッツ大司教の人形
枢機卿の赤い衣装で身を包んでいます
 
 キリストとステナピッツ大司教
イヴァン・メシュトロヴィッチ作


聖母被昇天大聖堂の前には生母マリアの像が置かれた柱があり
その先を進むとすぐに青果市場に出ます。

金色に輝くマリア像
 
 青果市場

ドラツ青果市場

ザグレブ市民の台所とかザグレブの胃袋と呼ばれる青果市場
食べ物だけでなく、色んな物を売っています。お花もたくさん売ってました。


南側にある階段を下りて行けばイェラチッチ広場ですが、西に進みます。


かって2つの丘の間を流れる小川だったトカルチチェヴァ通り
今ではお洒落なカフェが並んでいました。


川には流血事件が起きたことから「血の橋」と呼ばれる橋が架かっていました。
川が埋め立てられた今は通りの名前となっています。
ここからは坂を上って行きます。

お洒落な建物
 
竜を倒した聖ユライ(ゲオルギウス)像

坂を上ったところにあるのが石の門。

石の門

宗教都市カプトルと商工業の街グラデツは、かってはどちらも城壁で囲まれて、人々は城壁にある門から街に出入りしていました。

今では城壁は残っていませんが、グラデツ地区には6つの門があり、この石の門が現存する唯一の門となっています。

元々は木の門でしたが、18世紀に石造りの現在のような姿に変えられました。
1731年の大火で焼け落ちたという話なので、その後、石造で再建されたのでしょうか。

門といっても一見建物のように見えます。入口を入ると、直角に折れて出口に出るというL字型をしています。防御を考えた造りなのでしょう。

門に入ると内部には聖母マリアを祀る礼拝堂があり、多くの人が祈りを捧げていました。

礼拝堂に置かれているのが聖母子のイコン。

1731年の大火の時にも、このイコンだけは奇蹟的に焼けずに残ったのだそうです。聖母マリアはザグレブの守護聖人で、元々、人々の信仰を集めていたものが、火災後、より一層の篤い信仰を集めることになったということでした。

礼拝堂
 
 焼け残った聖母子のイコン

石の門から真っ直ぐ進むと可愛い教会

聖マルコ教会



グラデツ地区の中心である聖マルコ広場に建つ聖マルコ教会。13世紀に建てられた歴史ある教会でロマネスク様式とゴシック様式が混在しています。可愛らしい屋根で有名ですが、この屋根のモザイクは左上が1880年の改築時に施されたもの。右側のお城模様はザグレブの市章。左側はちょっと複雑で、左上がクロアチア王国の赤白チェック、右上はダルマチア地方(アドリア海東岸南部)の紋章である3匹の豹、そして下部がスロヴァニア地方(クロアチア東部内陸部)の紋章。

聖マルコ教会を背に真っ直ぐ進むとケーブルカー乗り場に出ます。
途中、美しい教会が幾つもありました。

 
 

この通りには人気の失恋博物館もあります。

写真を撮り損ないましたが、ケーブルカー乗り場の前のロトルシュチャク塔はビュー・ポイント
13世紀に建てられた見張りの塔で上ると街を見渡せるんだそうです。

ウスピニャチャ(ケーブルカー)

丘の上のグラデツ地区と丘の麓を結ぶケーブルカーは世界一短い交通機関と言われています。

標高差30m
 
 青いケーブルカー

ケーブルカーに乗ると1分足らずで丘の麓に降りました。らくちん。

イリツァ通り

ケーブルカーを降りてイリツァ通りを左に進みます。
イリツァ通りはオフィスビルやショップが並ぶ街のメインストリート。
   

ザグレブのシンボルカラーは青なのだそうで、ケーブルカーもトラムも青で統一されています。
5分も歩けば広場が見えて来ます。

イェラチッチ広場



イェラチッチ広場はザグレブの街の中心広場
広場の名前の由来となっているイェラチッチ将軍の騎馬像が置かれています。

イェラチッチ広場はカプトル地区のある丘の麓にあり、階段で青果市場と繋がっています。
旧市街への入口にもなっている広場です。

中世、防御のため城壁を巡らした丘の上に暮らしていた人々は、治安が確保されるようになると次第に丘の下に暮らし始め、街は広がって行きました。
丘の麓には商いをするための広場が造られ、それがイェラチッチ広場の前身となっています。

ザグレブという名前の語源については説がいくつかあり、一つは「丘の向こう側」という意味だというもの。旧市街のある丘から広がった街の歴史を表わしているようですね。また「堀」とか「溝」という意味だとの説もあります。丘の上の旧市街から見て麓が堀や溝に見えたということなのでしょう。

もう一つは戦いから戻ったイェラチッチ将軍が美しい女性に「泉から水を汲んでください(ザグラビティ)」と頼んだから、というもの。実際、広場には泉が残っています。

広場には瀟洒な建物が並んでおり、なんともお洒落。

広場の名前の由来となったイェラチッチ将軍は19世紀のクロアチアの軍人で政治家。

11世紀末にハンガリー王によって築かれたザグレブは長らくハンガリー王国の支配下にありましたが、ハンガリー王国はオスマントルコの攻撃により次第に疲弊し、17世紀にオーストリア・ハプスブルグ家の支配下に入ります。

しかし、19世紀に入るとハプスブルグ家の力が弱まり、1848年には諸国民の春と呼ばれる民族主義的革命がヨーロッパ各地で起こり、ハンガリーでもオーストリアから独立しようとする革命運動が起こりました。他方、クロアチアの農民たちはハンガリーの地主に反発し、ハンガリーからの独立を求めるようになります。

オーストリア皇帝はこれを利用し、クロアチア人のイェラチッチ将軍にハンガリーの鎮圧を命じます。イェラチッチ将軍はハンガリー鎮圧に成功し、クロアチアの総督となりますが、ハンガリーからの独立はかないませんでした。

ある意味、オーストリアに利用された形になりますが、以後、クロアチアの独立を目指す動きは強くなっていき、将軍はクロアチアの国民的英雄となっています。

イェラチッチ広場周囲の旧市街をぐるりと観光して広場でお茶して約2時間でした。
半日あれば途中気になった教会や失恋博物館も見学できたかな。

広場から少し離れたところにあるミロゴイ墓地にも足を伸ばしています。

ミロゴイ墓地



墓地の観光・・・というと少し不謹慎な気もしますが、この墓地はヨーロッパで一番美しい墓地と言われ、ザグレブの観光名所の一つとなっています。ドイツ人建築家のヘルマン・ボレーが設計した公共墓地で1873年に開園しました。入口から両側に延びるアーケードと、その上のクーポラが実に美しい。現在32万人以上の人々が眠っているということですが、多くの著名人も眠るこの墓地は観光客が訪れるだけでなく公園として散策を楽しむ地元の人も多いのだそうです。

アーケードの中のお墓は1基1200万円。家族の墓が並んでいます。
   

アーケード外のお墓は1区画50〜300万だそうです。


初代クロアチア共和国大統領フラニョ・トゥジマンの墓



赤く色付いた蔦が美しかった。
古今東西、大事な人を弔う気持ちには変わりがないようです。



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参考文献

図説バルカンの歴史 芝宣弘著 ふくろうの本 河出書房新社
バルカンを知るための66章 芝宣弘著 明石書店
るるぶ クロアチア・スロヴェニア

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。