フィリピ(ピリッポイ)遺跡

ギリシャ北東部のフィリピ遺跡
古代マケドニアからビザンティンまで
長い歴史を持つ遺跡です

写真はフォーラム


フィリピ(ピリッポイ)遺跡はギリシャ北東部、カヴァラという港町から内陸に12qほど入った場所にあります。

元々はタソス島の住民が植民してクレニデス(泉)という町を造ったのですが、住民が異民族の侵入からの助けをマケドニア王フィリッポス2世に求め、結果的にフィリッポス2世が町を手に入れることとなります。そして街の名も王の名にちなんで変えられました。

フィリッポス2世はアレクサンダー大王の父であり、弱小国であったマケドニアを一代にしてギリシャの盟主に押し上げた英傑です。フィリピは金鉱を有するパンゲオ山の東側に位置し、フィリッポス2世は同時期に山の西側のアンフィポリスも支配下に置いています。街の建設は金鉱山の富を独占するのが目的だったのでしょう。また、フィリッポス2世は現在のカヴァラも支配下に置き、フィリピの港としました。当時のカヴァラの名前はネアポリス。フィリピは交通の要衝としても重要な場所でした。

マケドニアの支配下で繁栄したフィリピの街は、アレクサンダー大王の死後、
ローマの支配に入った後も街の繁栄し続けました。

カエサルの死後、オクタヴィアヌスとマルクス・アウレリウスの連合軍と、カエサルの暗殺者プルートゥスとカッシウスの連合軍は前42年に街の西の平原で激突します。
このフィリピの戦いに勝利し、その後の後継者争いでマルクス・アントニウスを破ったオクタヴィアヌス(アウグストゥス)はフィリピの街を庇護しました。

そして、ローマ帝国下においてフィリピの街はバルカン半島を横断しビザンティウム(現イスタンブール)に至るエグナティア街道の要衝として、また金鉱山の富によって栄える商業都市として、更なる繁栄を迎えます。
この街のフォーラムは帝国下においてローマに次ぐ広さを誇ったそうです。

それだけではなくフィリピはパウロがヨーロッパで初めてキリスト教改宗者に洗礼を施した地でもあります。
「フィリピの信徒への手紙」はこの地のキリスト教徒にあてたもの。キリスト教が盛んになるといくつものバシリカ(聖堂)が建てられました。

このような街の歴史から、フィリピ遺跡ではギリシャ・マケドニア時、ローマ時代、ビザンティン時代の建造物が入り混じって残っています。


広大な遺跡ですが、見学ができるのは下の写真の範囲。



劇場



遺跡に入って最初に目に飛び込んでくるのが山の斜面に造られた劇場。フィリッポス2世が建てたギリシャ劇場をローマ時代に改築したものです。建設された当初は文字通り劇場でギリシャ悲劇・喜劇が上演されましたが、ローマ時代には剣闘士の興行などが行われるようになりました。

フィリッポス2世時代のレリーフが残っています。
マケドニアの盾と槍を持つ戦士
 
 勝利の女神ニケ
マケドニアの兵士が長槍を両手で持つために盾を左手にかけていたのが良く分かります。


 ギリシャ劇場なので音響効果が凄いんですって
博物館にあった ローマ時代のレリーフ

少し歩くと、立派な柱が見えて来ました。

バシリカA



劇場から少し歩くと立派な柱が残っている場所に出ます。ここはビザンティン時代のキリスト教会(バシリカ)の跡。遺跡からは幾つものバシリカが見つかっていて、ここはバシリカAと呼ばれます。
この場所は石器時代から神聖な場所だったそうです。博物館のローマ時代の復元模型では、この場所に3つの神殿がフォーラムを見下ろす形で建てられていました。神殿がキリスト教が広がるとバシリカに取って代わったのです。かって2階建てだったというバシリカは何本かの柱の他は基礎部分が残るだけですが、残された柱の太さ・豪華さに驚かされます。裏手には洗礼池の跡もあり、近くには緑の大理石を使った司教館の跡もありました。

見事な大理石の柱
 
洗礼池の跡 

バシリカAのあたりからは広大なフォーラムが見下ろせます。


フィリピの街はオルべロス山の麓にあって劇場やバシリカAなどは高台に位置します。バシリカAの近くから見下ろすと現代の道路を挟んで広大なフォーラムが広がっているのを見渡せます。ローマ帝国下でローマに次ぐ広さだったというフォーラムは広すぎて、とても私のカメラでは全景を収めきれません。フォーラムの先にある大きな柱はバシリカB。そして、その背後に霞んでいる山が金鉱を有するパンゲオ山です。パンゲオ山の金が街に富をもたらしました。

フォーラムを横目に進むと別の建物跡。道を挟んでちょうどフォーラムの西端あたり。

ヘロン


ヘロン(HEROON)とは英雄を祀る記念碑というか小神殿のようなもの。おそらく当初はフィリッポス2世を讃えるためのものだったのだろう、とのこと。その後、ローマ時代にローマの神殿に変えられました。この神殿、現在は道で分断されていますが、元々はフォーラムまで階段でつながっていたようです。更に道まで降りてみたら、すぐ横に「パウロの牢獄」という標示がありました。パウロはフィリピで占い師の女の子から悪霊を追い出し、占いをできなくさせたことで住民の怒りをかい、牢獄に入れられます。しかし、牢獄の周辺でだけ地震が起き牢から出られた・・という話があり、おぉ!と盛り上がったんですけど・・・現地ガイドさんは「たぶん違うと思うよ」とそっけなかった。

下から見たヘロン(小神殿)
 
 パウロの牢獄

道の向こうに下りて行けばフォーラムですが、その前に坂道を上ってバシリカCと博物館を見学。

バシリカC



ヘロンと博物館の間に残るバシリカC。瓦礫の山にしか見えませんが出土品は見事です。
特に色ガラスの窓は現地ガイドさん曰く「この時代にあるはずのないもの」
もっと時代が下った遺跡からは出てくることがあるそうですが・・・オーパーツ?

遺跡にあった説明写真
 
 博物館で展示されている色ガラス

バシリカCを横目に進むと博物館です。

博物館

博物館には先史時代からビィザンティン時代にかけての様々な出土品が展示されています
マケドニア時代の見どころは、なんといっても墓から見つかった黄金の副葬品


パンゲオ山の金鉱山がもたらした金製品なんでしょうね。細工も見事です。
     


ローマ帝国時代の展示品としては遺跡の出土品が見どころですが、フィリピの戦いのオクタヴィアヌスとマルクス・アウレリウスの連合軍とカエサルの暗殺者プルートゥスとカッシウスの布陣図が面白かった。
また、ビザンティン時代の展示物として面白かったのが柱頭の変化。ギリシャ時代の柱頭としては、素朴なドーリア(ドリス)式、渦巻き装飾を持つイオニア式、アーカンサスの葉で飾ったコリント式がありますが、その後の柱頭は、渦巻き模様のイオニア式とコリントス式の複合、更には動物を飾る・・・というように様式が変遷していったのだそうです。ギリシャ建築で知識が止まっていたので、そうだったのか、と妙に感動。羊やら鷲の柱頭って結構、目にしますよね。

渦巻き模様のイオニア式とコリントス式の複合
 
動物が飾る柱頭

博物館を見た後は、フォーラムへ。

フォーラム



上の写真は広大なフォーラムの中央付近と、その先にあるバシリカB。

フォーラムの四角い形や、フォーラムを取り囲むように円柱が並んでいるのは分かりますが、正直、往時の姿を偲ぶのは難しい。

右は博物館にローマ時代の復元模型。
バシリカAがあった場所に、かっては3つの神殿が並んでおり、フォーラムを見下ろす形となっていたのが分かります。

そして、フォーラムの東西にも神殿があり、東の神殿の並びには図書館が、西の神殿の並びには事務所のようなものがあったそうです。

東の図書館は世界で初めて本を分類した図書館だそうで、歴史的意義があるのだとか。
西の神殿は後にクーリエ(評議場)となり、その時、屋根を飾っていた三女神が博物館には展示されています。

また、現在、巨大なバシリカBがある場所は、ローマ時代は大浴場でした。

博物館で展示されていた美しい三女神。クーリエの屋根を飾っていたもの。

損なわれてはいますが、美しい女神たちです。
   

とはいえ、クーリエがあったあたりは、今はこんな感じ



フォーラム、四角くて、広くて、周囲に柱があったことは分かりますが、瓦礫の山です。

 西側に残る彫刻
 東側をみたところ

フォーラムをうろうろしましたが、今一つ良く分からないので隣接するバシリカBを目指します。
逆光になってしまいましたが非常に大きな建物。




博物館の復元模型によるとフォーラムとバシリカBの間には店が並んでいたはずです。
 フォーラムの周囲は数段分高くなっていました
 バシリカB側から見たフォーラム側


バシリカB側から見ると小さく区切られています。ここに店が並んでいたのだとか。



バシリカB

碑文が彫られた石台
 
 美しい柱

奥に回り込んだら、バシリカの全体像がなんとなく分かりました。


ローマ時代の大浴場の跡に建設されたバシリカB。実は未完成の建物です。6世紀に教会を建てようとしたものの、何故か未完で終わりました。おそらく地震により街が破壊されたのではないかと考えられているそうです。
フィリピは戦略上重要な地であったため、その後も軍が駐屯したり、要塞が築かれたことはあったようです。しかし、かっての繁栄を取り戻すことはなく、16世紀には廃墟と記録されました。

遺跡に残る柱の見事さが、街の栄華盛衰を語っている気もします。



バシリカBからフォーラムに戻り、東に進みます。
かってフォーラムの入口には泉やら演説台があったとのことですが・・・



東側から見たフォーラム全景
東側には図書館があったそうですが、正直、良く分かりません。



バシリカAの近くの高台から撮ったフォーラム東側を確認してみました
近くからだと分かりにくかったけど、壁で幾つも分けられている場所があるのが分かります。
あのあたりが図書館だったんだろうか・・・


上の写真の左側、屋根のあるあたりを目指します。


エグナティア街道

フォーラムを出ると、かってのエグナティア街道が残っていました。

エグナティア街道はローマ帝国時代に整備された街道です。
ローマから東を目指す街道としては有名なアッピア街道があり、ローマからアドリア海に面するプリンディジを繋いでいましたが、そこからアドリア海に面するバルカン半島のドゥラキウム(現アルバニア・ドゥラス)を起点にバルカン半島を横断する形で、ビザンティウム(現イスタンブール)までを繋ぐのが、エグナティア街道でした。

エグナティア街道は古代マケドニア王国のフィリッポス2世が築いたリュクニドス(現オフリド)、ヘラクレア・リンケスティア(現ビトラ)、マケドニアの首都ペラ、そしてやはりフィリッポス2世が築いたアンフィポリス、そして、このフィリピを経てビザンティウムに至ります。ですから、ローマ帝国時代の街道といっても、その大半はマケドニア王国時代の道を整備したものと言っても良いと思います。

エグナティア街道は山中に残っている場所もあるものの、なかなか行くのは困難な場所が多いということで、遺跡に隣接して残り、実際に歩くことができるのは実に嬉しい。


八角形の聖堂

エグナティア街道から折れて、八角形の聖堂へ向かいます。円柱の並ぶ場所に出ました。
写真奥の人々が歩いているのがエグナティア街道



並ぶ円柱から見るフォーラム
 
 足元を見ると見事な大理石の床


丸く円柱が並ぶ場所が見えて来ました。八角形の聖堂があった場所です。



遺跡にあった説明図
大きな建物です。さっきの大理石の床も聖堂の一部だったようです。


説明図に書かれているOCTAGONとは「八角形」という意味。元々「パウロ聖堂」と呼ばれるバシリカがあった場所に、5世紀ころ八角形の聖堂が建てられました。八角形の聖堂はコンスタンティノポリスの大聖堂にも劣らぬ大きさと美しさだったと言います。遺跡にはモザイクが残りますが面白いのは地下からマケドニア時代の神殿が見つかっていること。バシリカAと同様に、ここも古代からの聖地で神殿・バシリカと時代ごとの宗教的建築物が建てられてきたのでしょう。

博物館で展示されていたポルピュリオス主教の碑文(4世紀)
この碑文の発見からパウロ聖堂と名付けられました。


遺跡にもモザイクが残っています。
肉眼より写真の方が良く分かるモザイク
5世紀
 
 この地下がマケドニア時代の神殿
4世紀のモザイク、上のモザイクと同じ?


八角形の聖堂の近くには現在の養老院のような建物もあります。教会が身寄りのない人たちを保護していたとのことで、ローマ式浴場があったり、高齢者のことを考えた建物だったようです。

美しい床の一角。何だったのでしょう。
 
 ローマ式浴場の跡


様々な時代の建築物が残る、見どころの多い遺跡でした。
キリスト教徒にとってはパウロ所縁の遺跡として人気があるようですが
テッサロニキから離れているせいか、10月はオフシーズンなのか
世界遺産にしては観光客も少なくて、ゆっくり楽しめました。




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参考文献

古代ギリシャ・時空を超えた旅(2016年東博展覧会図録)
図説ギリシャ・エーゲ海文明の歴史を訪ねて 周藤芳幸著 ふくろうの本
図説アレクサンドロス大王 森谷公俊著 ふくろうの本
古代ギリシャがんちく図鑑 柴崎みゆき著 バジリコ株式会社

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。