ヴェルギナ(アイガイ)

マケドニア王国最初の都
アレクサンダー大王の父と息子の眠る地
ヴェルギナの博物館を訪れました。
2018年10月、2019年12月訪問

写真はヴェルギナの太陽と呼ばれるフィリッポス2世の納骨箱


マケドニア王国の最初の都アイガイ。アイガイとは「山羊」という意味。ヘラクレスの末裔であるペルディッカス1世が「山羊の導くところを都にしろ」との神託を受け、山羊に導かれて辿り着いた地とされています。町が建設されたのは前7世紀ころ。アイガイはオリュンポス山の北麓に位置したと言われていましたが、具体的にどこなのかは長い間不明で、幻の都とされていました。

幻の都アイガイ発見のきっかけはヴェルギナの丘の上のビザンティン時代の教会を建て直そうとしたところ前5世紀の遺物が出てきたこと。19世紀から発掘が始まりますが中々進まず、ようやく1977年になってテッサロニキ大学のアンドロニコス教授による本格的調査が始まります。この調査で4つの墳墓が発見され、2つは既に盗掘を受けていたものの残る2つは未盗掘で墓の中から豪華絢爛な副葬品が多数発見されました。この未盗掘の2つの墳墓が大王の父フィリッポス2世と大王の子アレクサンダー4世の墓とされ、この地が幻の都アイガイであると確定したのです。

ヴェルギナ(アイガイ)はテッサロニキの南西約80q。高速で約1時間のところに位置します。
マケドニアの2番目の都であるペラの南。ペラからも車で約1時間。



4つの墳墓は埋め戻され、丸ごと地下博物館となっています。


地下博物館では4つの墓を発見当時の姿で保存し、墓からの副葬品等を別室で展示しています。
博物館の中は照明が暗く、なんとも厳かな雰囲気。2018年10月に訪れた時は写真撮影禁止でしたが、嬉しいことに2019年12月に訪れた時は写真撮影が可能となっていました。

博物館の案内図
 
 盗掘された墓@

盗掘された墓では副葬品などは失われていたのですが
そのうちの1つからは見事な壁画が発見され、実物大で写真展示されています。
ハデスがペルセポネを略奪するシーンです。


ハデスはゼウスの兄で冥界の支配者。女好きなゼウスと違って堅物だったハデスは穀物・豊穣の女神デメテルの娘ペルセポネに恋し、ゼウスの許可を得てペルセポネを略奪し、妻とします。しかし、娘の失踪を嘆いたデメテルの職務放棄で大地は枯れ果ててしまったため、困ったゼウスはペルセポネをデメテルの元に返すこととしますが、ペルセポネは既に冥界でザクロを食べてしまったため、1年のうち4カ月を冥界で過ごさないといけなくなりました。その間デメテルの嘆きにより大地が枯れる冬となったのだそうです。冥界の物を食べると戻れなくなるというのは東西共通。

壁画左には冥界への案内人でもあるヘルメス。その後をペルセポネを抱えたハデスが馬車を走らせています。前4世紀に、こんなに素晴らしい動きのある壁画が描かれていたとは驚き。他の壁面には娘の失踪を嘆くデメテル女神が描かれていて動と静の対比も見事。

ハデスとペルセポネ


ペルセポネ略奪に驚く侍女。全員の動きが凄い。
 
 ひとり悲しむデメテル

この壁画はマケドニア絵画の素晴らしさを示す大発見とされました。
ギリシャ彫刻は見事ですが、絵画というと壺や皿に絵付けされたものくらいしか見た記憶がありません。
この時代にこれだけの壁画が描かれていたとは・・・


それでも、博物館最大の見どころは
やっぱりアレクサンダー大王の父・フィリッポス2世の墓と副葬品。

右は王の墓から発見された象牙製の王の頭部。小さなものですが実に精密に彫られていて、王の精悍さを伝えています。絵葉書を拡大してみました。

フィリッポス2世が生まれたころのマケドニアは弱小国で、3男だった彼は若いころテーベで人質として過ごすことを余儀なくされました。しかし、彼の聡明さを見込んだテーベの人は、人質である彼にギリシャの戦法・陣形を教えたのだそうです。帰国後、兄たちが次々と亡くなり、前359年に23歳で即位。
王は常備軍を創設。テーベで学んだギリシャの重装歩兵を改良し、長さ5mの槍を装着した密集歩兵部隊を考案。この歩兵部隊と騎兵を組み合わせたマケドニア軍は当時最強を誇りました。
王は軍事力だけでなく外交力も駆使して領を拡大。金鉱や木材そしてギリシャ北部の豊かな土地の開墾で国を富ませます。
そして、即位後約20年でマケドニアを弱小国から全ギリシャの盟主へと成長させたのです。


ギリシャを掌握したフィリッポス2世はペルシャ遠征を目指しました。しかし、ペルシャ遠征開始を目前にして、娘の結婚式の際に護衛の兵によって王は暗殺されてしまいます。暗殺の理由は同性愛のもつれ。偉大な王にしてはあっけない最後でした。

フィリッポス2世は鎧兜を着けた姿で火葬され、遺骨はヴェルギナの太陽と呼ばれる16光線の太陽のレリーフが施された黄金の納骨箱に納められました。

墓からは火葬の際に焼け残った鎧兜や、王が使用していた剣などの武具や防具、そして豊かな黄金製の品々が見つかっています。

左の写真は王が火葬された時に身に着けていた鎧兜と盾。焼かれているため保存状態は悪いですが、これを王が身に着けていたと考えると感動です。

当時最強を誇ったマケドニア軍を率いた王は戦で右目を失明し、左足を負傷したと言われます。マケドニアの王は自ら最前線で戦っていたのですね。


象牙で飾られた盾は儀礼用と考えられています
 
 中央にはトロイ戦争の英雄アキレウス


脛あて 左右で形が違うのがわかるでしょうか。
左足を負傷していた王が実戦に用いたもの
 
 当時最強の軍を率いた王の墓らしく
多数の武具・防具が見つかっています。


大量の馬具も副葬品とされていました。



黄金の矢入れ。レリーフが素晴らしい。



黄金の胸当て



王の遺骨が入れられた黄金の納骨箱と豪華な金の冠


納骨箱の中の骨から葬られた人物は45歳から49歳の男性で、右目を負傷したことが分かりました。この骨の特徴や副葬品の脛あてから墓の主が左足を負傷していたと考えられることから、アンドロニコス教授によって、その特徴に合致するフィリッポス2世の墓とされたのです。

納骨箱は8sもの金が使われている豪華なもの。ヴェルギナの太陽と呼ばれる16光線の星が描かれています。16光線を使えたのは王だけだったと考えられているそうです。このヴェルギナの太陽は北マケドニア(旧ユーゴ)が独立時に国旗として使用したため国際紛争になりました。

豪華な冠は樫の葉を模したもの。樫の実(どんぐり)が見えます。
樫の木はゼウスのシンボルなので王者の象徴とされたのでしょう。



納骨箱は棺に入れられ、棺は装飾された寝台の上に置かれました。
棺を置く寝台にはマケドニア独特の装飾が施されています。
フィリッポス2世やアレクサンダー3世の象牙の浮彫も施されていました。



象牙のレリーフは非常に小さいものですが、精緻な彫りが見事です。
左がフィリッポス2世。中央がアレクサンダー3世とされています。


小さいうえに象牙の彫刻は大変時間がかかるものであるため、
これらのレリーフは王の生前に作られていたのだろうとのことでした。


王の墓は前室と後室に分かれていて王は後室に葬られていました。
前室からは20代の女性の骨を収めた納骨箱も見つかっています。


王の豪華な納骨箱に比べると見劣りがしますが、それでも金を5,5s使った立派な納骨箱です。
ヴェルギナの太陽に似た模様が描かれていますが、王の太陽は16光線だったのに対し、こちらは12光線。この数の違いは立場・身分の違いによるもので、彼女は王妃の一人ではないかと考えられています。マケドニア王国ではギリシャと違い、王には複数の妻がいました。フィリッポス2世には7人の妻がいたといいます。そのうちの若い妃が殉死したのでしょうか・・・。

彼女の副葬品として豪華な金の冠と100枚の金のメダルが見つかっています。



こちらも素晴らしい。細かい花の細工が見事です。
写真だと分かりにくいですが、実物は黄金の輝きがまぶしいばかりです。



王の墓は階段を下りたところにあります。


発掘の時、墓が崩れることを恐れて天井から掘り進められました。
そのため、この扉は王の葬儀の際に閉められたままとなっています。

保存状態はあまりよくありませんが、霊廟の上部には壁画が描かれています。
フィリッポス2世とアレクサンダー3世の狩りの場面です。


仲の良い父子のエピソードを描いたものに見えますが、現地ガイドさんによると、これは大変変わった壁画なのだそうです。墓に葬られているのはフィリッポス2世なのに壁画の中央に位置するのは何故か王ではなく息子であるアレクサンダー3世。これは普通ならあり得ないことだそうで、おそらく突然の王の死により、急遽、若きアレクサンダー3世が後継者であることを示す必要があり、そのための工夫だったのだろうとのこと。王の葬儀も後継者であるアレクサンダー3世が執り行ったはずです。王の納骨箱や盾を置いたのも、若きアレクサンダー3世だったのでしょうか。

左が父フィリッポス2世。右が若き日のアレクサンダー3世(後の大王)


若干20歳で即位したアレクサンダー3世は父の遺志を継いでペルシャ遠征を開始しますが、それを可能にしたのは、父フィリッポス2世が遠征のための基礎を築いていたからのようです。フィリッポス2世なくして大王の大遠征は不可能だったでしょう。
もちろんアレクサンダー3世自身の偉大さを否定することはできませんが、もし苦労人で政治力にも優れた父王が暗殺されず自らペルシャ遠征を開始していたら、そしてアレクサンダーがもっと長生きしていたら、世界史はどう変わっていたのでしょうね・・・。。


もう1つの未盗掘の霊廟からは10代の少年の遺骨が見つかりました。
アレキサンダー大王の息子であるアレクサンダー4世と考えられています。

アレクサンダー4世の 霊廟
 遺骨を入れた銀の壺と金の冠

アレクサンダー大王と正妃ロクサネの間に生まれたアレクサンダー4世は、大王が亡くなった時、まだ生まれていませんでした。誕生後、母子は権力争いに巻き込まれ、アレクサンダー4世は成人後は王になると決められながらも、母とともに軟禁生活を余儀なくされ、結局はカッサンドロスによって母とともに毒殺(暗殺)されてしまいます。亡くなった時は14歳くらいでした。
大王の子にしては寂しい墓のような気はしますが、副葬品を見る限り、軟禁生活といっても、豊かな暮らしをしていたのだろうと思えるのが救いです。

棺を置くベンチを飾っていた象牙製のレリーフ



マケドニアの都は前5世紀にペラに移ります。
実際、フィリッポス2世もアレクサンダー3世もペラで生まれています。
しかし、これらの墓の発見から、ペラ遷都後もアイガイは祭儀の中心地だったと考えられています。
見学はできませんでしたが、博物館の近くには王宮や劇場跡などの遺跡も残っているそうです。
フィリッポス2世の暗殺現場と言われる劇場や王宮跡には行ってみたいなあ

2018年に最初に訪れた時に遺跡が写っているので購入した絵葉書


絵葉書の左下は象牙のフィリッポス2世像。右下は象牙のアレクサンダー3世像。
この2人、父子だけあって顔が似てると思いませんか。どっちもちょっとたれ目。

2018年に訪れた時は博物館内写真撮影禁止だったので土産物屋で本も2冊買いました。

7ユーロで購入(他の店は5ユーロだった)
博物館だけでなく遺跡も紹介
 
 19ユーロで購入
博物館については素晴らしい充実度

本当に素晴らしい、見ごたえのある博物館でした。

実は今でもフィリッポス2世の墓とすることに異議を唱える説もあるのだそうです。
展示品を見る限り間違いないように思えるんですが・・・
いずれにせよマケドニア王家の墓であることは間違いがないようです。

王家の霊廟は元々は人々が参拝できるようになっていたものを
ローマ侵攻時に、略奪を避けるため、埋めて隠したということでした。
アイガイは地震によって1世紀以降衰退し、街も王墓も人々から忘れ去られました.



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参考文献

古代ギリシャ・時空を超えた旅(2016年東博展覧会図録)
アレクサンドロス大王の父 原随園著 新潮選書
図説ギリシャ・エーゲ海文明の歴史を訪ねて 周藤芳幸著 ふくろうの本
図説アレクサンドロス大王 森谷公俊著 ふくろうの本
古代ギリシャがんちく図鑑 柴崎みゆき著 バジリコ株式会社

基本的には現地ガイドさんと添乗員さんの説明を元にまとめています。