ファテープル・シークリー

アグラ郊外のファテープル・シークリー
わずか14年間都だった場所
アクバル大帝の遊び心で満ちている気がします。
2005年12月訪問


池から眺めた宮殿区域

ファテープル・シークリーはアーグラ市の郊外、車で1時間ほどのところにあります。元々、小さな村だったこの地をアクバル大帝が都としたのは、世継ぎに恵まれなかった大帝がこの地に住む聖者に5年以内に3人の男子に恵まれるとの予言を受け、その予言どおりに3人の男子を授かったからだと言われています。聖者へのお礼の意味を込めて都にしたわけですね。5年をかけて都を築き、ちょうどそのころ、アクバル大帝が西インドを制圧したことから、この地を「ファテープル(勝利の都)」と命名します。しかし、この地が都だったのは1571年から1585年の僅か14年間でした。アクバル大帝はラホールに都を移し、この地は放棄されます。水不足が原因とも言われます。

ファテープル・シークリーは宮殿区域とモスク区域からなりますが、時間に追われるツアーで宮殿区域しか見れませんでした。でも余りに面白かったので、中途半端ながらまとめてみます。

宮殿区域の建物は全て赤い色。
これは赤砂岩によって造られているからだそうです。
まずは4つのドーム屋根が載る建物から観光。



ディワーニ・ハース(特別謁見の間)というのだそうです。

ディワーニ・ハースは宮殿区域の北側にあります。

この建物、2階建てなのですが、中に入ると吹き抜けになっていて、中央に左の写真のようなものがあります。

中央の柱の上に丸い独楽(こま)型のものが載っていて、そこから四方に水平に橋がかかっているという変わった造り。

実はこの独楽のような形をした部分は玉座であって、アクバル大帝がここに座り、下(1階)の人々と謁見したと考えられているのだそうです。

また、謁見ではなく、下で議論や裁判が行われて、アクバル大帝が上から議論に加わったり、審判をしたのだ、という説もあるとか。

つまり、この円形の部分にアクバル大帝が座ったらしいということだけが分かっていて、他はよく分からない建物なのですが、こんな建物、他では見たことがありません。面白いなあ。装飾も豪華だし。

それにしても、どっちを向いて座ったんだろう。


ディワーニ・ハースのすぐ隣の建物



ファテープル・シークリーの見どころの一つは美しい石彫りです。
赤砂岩で出来ている建物は、どれも美しい彫りで飾られています。透かし彫りの技術も凄い。

   



ファテープル・シークリーで最も変わった形の建物はこの五層の建物でしょう。
宮殿区域に入った時から気になっていた建物です。



パンチ・マハルというのだそうです。

パンチ・マハルはご覧のとおり柱と床と屋根だけの建物です。なぜ壁がないのか・・・。

ムガール帝国は元々は中央アジアのティムール帝国の末裔であるバーブルがインドに進出して築いた帝国です。ムガールとはモンゴル。
この建物はモンゴルの移動式住居を石で作ったものなのだそうです。

モンゴルの移動式住居は布の幔幕や、すだれを壁代わりに用い、内部は絨毯やクッションで飾ります。
アクバル大帝は遠征の時にはテント類で移動する宮殿を造ったと言われているそうで、この宮殿もかっては多くの幔幕やすだれ、絨毯などで飾られていたのでしょう。

アクバル大帝は最初の都をアーグラに定め、要塞的色彩の強いアーグラ城を建てますが、その暑さ・住みにくさに悩んでいたとも言います。

新しい都を築くにあたって、涼しさ・住み易さを重視したんではないでしょうか。

近くには池を設け、また、前の広場では人間を駒にしてチェスを楽しんだとも言われています。


違う角度から見たパンチ・マハル
上の層で月見をしたとも言われています。いい気持だったでしょうねえ。




池から見たパンチ・マハルとディワーニ・ハース(特別謁見の間)

池の中にも踊り場のようなものが設けられていて透かし彫り等の繊細な装飾が綺麗


ちょっと違う方向から撮ってみました。



こちらはパンチ・マハル側から池方向を撮ったもの
ファテープル・シークリーは宮殿にしては小さめの多くの建造物で構成されています。




パンチ・マハルから池を挟んで南側の建物に皇帝の寝所があります(左下)。
ここも面白い。夏は床に水を引いて、その上にベッドを置いたのだそうです。
涼しさの追求がここにも見られます。アクバル大帝は絶対暑がりですよね。
右下は台所のレリーフ。耳飾りのレリーフです。

   



自由時間に散策してみました。下の写真左側の建物はミリアムの館だと思います。アクバル大帝の母が暮らした建物で、かって内部は金細工と壁画で飾られ、スナフラー・マカン(金御殿)と呼ばれていたそうです。




皇帝の妃たちの住んだ建物も幾つも残っています。それにしても、妻妾がたくさんいたのに世継ぎになかなか恵まれなかったというのも皮肉な話。下の写真、自信はないのですが、後宮だったジョド・バーイ殿ではないかと思います。大きな建物でした。




透かし彫りの窓、バルコニー。実に美しい。

   


美しいレリーフ。元々は上に漆喰を塗っていたそうです。

   


美しい建物が幾つも幾つも並んでいます。
今は赤砂岩の建物が残るだけですが、
絨毯や布で飾られていた時はどんな美しさだったんでしょう。
豪華な家具なども置かれていたんでしょうね。




他にも広い回廊で囲まれた一般謁見室や厩舎なども残っていました。

この遺跡、私は大好きです。
いつか機会があったらモスク区域も行ってみたい。



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参考文献

ユネスコ世界遺産D(講談社)
世界遺産を旅する8(近畿日本ツーリスト)
21世紀世界遺産の旅(小学館)


基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。