フマユーン廟

デリー中心部から南東約6キロ
ムガール帝国2代皇帝の霊廟・フマユーン廟は
タージ・マハルの原型とも言われる美しい建物です。

2001年4月、2005年12月訪問



フマユーン廟はムガール帝国第2代皇帝フマユーンの霊廟です。妃の一人が皇帝の死を悼んでデリー南西のヤムナー川沿いに建てたもので、フマユーンが亡くなった1556年から9年後に完成したとも、9年後に建築が始まり3代アクバルの治世14年目に完成したとも言われています。
インドで最初のペルシャ風の建築で、タージ・マハルの祖型となったものと言われていて、確かに、タージ・マハルのような4つのミナレットこそありませんが、良く似た形をしています。

ムガール帝国のムガールとはモンゴルの意味。
中央アジアのティムール帝国の末裔であるバーブルがインドに進出して築いた帝国です。

バーブルは1526年に北インドを支配していたローディ朝を倒し、ムガール帝国を興します。
しかし、2代皇帝フマユーンは広大な領土を失い、アフガニスタンやペルシャを放浪。15年後にペルシャ王の支援を得て、、ようやくデリーを取り戻したものの間もなく事故死。
書庫の階段から転落し亡くなるというあっけない死でした。デリーに戻ってから、わずか半年後のことだったといいます。

フマユーンがデリーを取り戻すに当たってはペルシャの力が大きかったのですが、彼の正妃もペルシャ人。そして、フマユーン廟の建築を指揮したのもペルシャ人建築家ミーラーク・ミールザー・ギヤース。

彼はそれまでインドでは見られなかったイスラム建築の尖塔型のアーチを繰り返し使い、白大理石の巨大な大ドーム屋根を架けました。

廟に通じる道の中央には水路があり、完全な左右対称。この様式も後のタージ・マハルに引き継がれています。


廟の周囲は広大な庭園となっています。庭園は正方形で田の字型をしており、その中央に廟が置かれています。そして田の字の各□が更に小さな□に分割されるという幾何学的な造り。これをペルシャ風の四分庭園と言うそうで、フマユーン廟の庭園はインド最初の四分庭園でもあります。





ペルシャは石材に恵まれず、煉瓦を用いて建築がされましたが、フマユーン廟では白大理石と赤砂岩が贅沢に使われています。中央の白い大ドーム屋根の周囲に小さな小塔が並んでいますがこの傘を柱で支えるような形の小塔はインド風。ペルシャとインドの融合といったところでしょうか。

   

廟に近づくと基壇の上にアーチが続く回廊のような場所に出ますが、実はこれは大基壇の下の部分。
正面階段を登ると広い基壇の上に出ます。

登って来た基壇は高さが7m。1辺が80mの正方形。

そして、その上に建つ祠堂は高さが21m。幅は48m。この祠堂は四方のどこから見ても同じ形をしています。
これもタージ・マハルと同じですね。
中道の白いドーム型屋根の高さは38m。

基壇上を進んで祠堂に近づくと、だんだん白いドーム型屋根が見えなくなってきます。
左の写真は入口から入って正面の場所。

巨大なアーチを壁が四角く枠取っています。
イラン・ペルシャでよく見るモスクの入口のようですが、アラベスク模様で飾られるペルシャのモスクと違って赤砂岩と白大理石を組み合わせていて、比較的シンプルな印象。その奥には3連のアーチ窓が2段に並んでいてます。

上を見上げると巨大な白いドーム型屋根の手前に小塔と小さな尖塔が並びます。

中央の大アーチの両側には中小のアーチ型の門と窓が左右対称に並ぶ、という構造。


祠堂の中に入ると、薄暗くて、ひんやりしていました。
透かし彫りの窓から入る外光が幻想的。

祠堂の中央に白大理石の棺が置かれていて、これがフマユーンの棺かと思ったら、実際は、これは仮の棺で、この真下に遺体は安置されているのだそうです。

本人のお墓での話題としては不謹慎かもしれませんが、実はフマユーンは悲劇の皇帝ではあるものの、元々、勇猛果敢というか政治力があるとか、そういったタイプではなかったようです。

詩歌と葡萄酒を愛したといい・・・文人気質だったんでしょうね。

フマユーンの突然の死で、3代皇帝アクバルはわずか13歳で即位することとなります。アクバルはムガールを「帝国」と呼ぶにふさわしいものとしますが、いったい誰に似たのやら。

そういえば、このフマユーン廟を築いた妃はアクバルの母ではありません。アクバルの母はペルシャ人でフマユーンが放浪中に見初めた時は、わずか14歳だったそうです。

アクバルの母は正妃とされましたが、フマユーン廟を建設させたのはハージ・ベグムという別の妃でした。
どういう人間模様だったのでしょうか。

フマユーン廟にはフマユーンだけでなく、なんと150人もの人たちが埋葬されているのだそうです。
フマユーン廟を建てたハージ・ベグムも、その中の一人。
廟の中には幾つも棺が置かれていました。




フマユーン廟の内部は案外簡素。華美に走らなかったのは3代アクバル帝の考えだったようです。
目を引く装飾は美しい透かし彫りの窓くらい。この窓、インドの職人さんの技術力を物語る素晴らしいものです。繊細に見えますが、実は3pから5pくらいの厚さがあり、結構頑丈なのだとか。

   


フマユーン廟は、実はムガール帝国終焉の場でもあります。1857年、セポイの反乱の際、ムガール帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は2人の息子とともにフマユーン廟に避難します。
そして、フマユーンの棺のそばでイギリス軍に囚われ、ミャンマーに追放されてしまったのだとか。

ちょっとしんみりしますね。



イーサーハーン廟

フマユーン廟のすぐそばに気になる建物がありました。
聞いてみたら、宰相イーサーハーンの廟だということ。
せっかくなので、寄ってみました。




イーサーハーンは元々は床屋だったものの頭が良くて出世した人物なんだそうです。
この廟は、とても綺麗な廟だったらしく、素敵な雰囲気が漂っていました。

   


観光にも便利なフマユーン廟
タージ・マハルとの比較も面白いし
ムガール帝国の歴史に思いを馳せるのにもお勧め。


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参考文献

ユネスコ世界遺産D(講談社)
世界遺産を旅する8(近畿日本ツーリスト)
地球の歩き方インド(ダイヤモンド社)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。