クトゥブ・ミナール
デリー郊外にあるクトゥブ・ミナール
クトゥブ・ミナールは高いだけではなく、美しさも見事。
周囲にはインド最初のイスラム教寺院の建造物が残っています。
2005年12月・2014年8月訪問

写真は入口から見たクトゥブ・ミナール。2014年8月撮影。



ニューデリー中心部から南約16キロにあるクトゥブ・ミナール。ミナールとはイスラム寺院に欠かせないミナレット・・・信者にモスクでの礼拝を呼びかけるための尖塔のことです。この塔は、1206年にインド最初のイスラム王朝を興したクトゥブ・アッディーン・アイバクによって建てられました。

冬のインドは霧が濃い日が多く、私が最初にクトゥブ・ミナールに行った2005年12月は大阪から別便で合流予定だったツアー仲間の飛行機が飛ばず、インド到着が3日も遅れたほどでした。そんな霧の中でも巨大なクトゥブ・ミナールは、ひときわ目を引く存在でした。

2005年12月の霧に霞むクトゥブ・ミナール


とはいえ、やっぱり霧のない姿も見たい。
2014年8月に再び訪れる機会があり、念願がかないました。

アイバクはアフガニスタンのゴール朝で奴隷軍人の出身ながら将軍にまで出世し、北インドの総督になります。そして、ゴール朝の王ムハンマドが暗殺されると独立して北インドで最初のイスラム王朝を興します。かなり野心的な人物。

北インドを支配するようになったアイバクはデリーに王宮を構えるとともに、インド古来のヒンズー寺院やジャイナ教寺院を破壊し、イスラムの栄光を称えるための大モスクを建築しました。

クトゥブ・ミナールとその周辺の建築群は、インド最初のイスラム王朝が建てたインド最古のイスラム建築群なのです。

クトゥブ・ミナールの高さは72,5m。
今でもインドで最も高い塔だそうです。

右の写真でも分かるように、5層からなっていて
上に行くにしたがって細くなる形。
基部の直径は14,3m。頂部は2,7m。
下の3層は赤砂岩、上の2層は大理石と砂岩。

アイバクが王朝を興す前の1192年に建築が始まりましたが、1層目が完成した時点でアイバクが亡くなったため、後継者が完成させました。


 当初は4層だったのが雷が落ちたので1368年に4層目が変更され5層になったのだとか、かっては頂上にドーム屋根の小塔が載っていたということですが、地震で壊れてしまったのだとか、更にその後、イギリス人がムガル様式のドーム型屋根を付けたけど、調和していないから取られちゃったとか・・・・色々と歴史のある塔みたいです。

それにしても立派な塔です。アイバクの狙いは北インドの人たちにイスラムの威光を見せつけるというところにあったんでしょうね。塔の模様のように見えるのはコーランの語句。
最も下の層は円柱と三角中が組み合わされ、その上の層は円柱のみ、更にその上は三角柱のみで構成されたという独特のフォルム。

   


今は登頂禁止となっていますが、内部に階段があって登ることができます。
入口付近の装飾も見事。



クトゥブ・ミナールの周囲にはアイバクが建てた大モスクの遺構が残っています。アイバクは象を使って、この地にあったヒンズー教寺院やジャイナ教寺院を27も破壊し、その建材を使って、大モスクを建てたのだそうです。大モスクがあった地には、かってヴィシュヌ神を祀る寺院があったとか。




かっての大モスクは礼拝堂の入口のアーチのみが残っています。イスラムのモスクで見慣れたアーチですが、このモスクの建築を担ったインドの工匠たちにとってはイスラムのアーチというのは初めての経験。そのため、このアーチも真のアーチではなく、水平に石を組んで、上に行くに従って、少しづつ持ち出すという疑似アーチなんだそうです。ドームも伝統的な工法で作ったので、大きなイスラム寺院のドームとしては耐えられず、結局崩れてしまって、今は残っていないのだとか。




崩れてしまったモスクですが、残された巨大な壁の装飾は見事。
   


ここには見落とせない観光スポットがあります。
アーチの前に立つ鉄柱・・・「アショカ王の鉄柱」と呼ばれてる鉄柱です。
鉄柱は直径44p、高さ約6、9m。地中に2mほど埋もれていて、推定重量は6トン。
この鉄柱、「錆びない鉄柱」としてオカルト好きにはかなり有名なもの。

普通の鉄ならば、外気にさらされていれば簡単に錆びてしまう。しかし、この鉄柱は全く錆びない。アショカ王の鉄柱は純度97、2%という非常に純度の高く、だからこそ錆びないのだ。しかし、しかし、人類は19世紀まで純鉄を作ることができなかったのだ・・・・

というわけで、謎だ謎だというのが、私が持っている、とんでも本にも書いてあります。

アショカ王といえば紀元前3世紀後半にインド最初の統一王朝を開き、仏教を保護したことで有名ですが、実際はこの鉄柱は紀元後4世紀ころのグプタ朝のチャンドラグプタ2世を記念したものということが分かっています。

そうだとしても1600年前ということで、確かに、錆びないというのは凄いし不思議ではあります。

この鉄柱、かっては鉄柱に背中を付け、後ろに手を回して両手がつながれば幸せになれるということで、みんながトライして大人気だったそうです。

そのせいなのか、実はちょっぴり錆びていて、今は残念ながら柵が付けられています。


鉄柱に刻まれたサンスクリット文字
偉大なるチャンドラを記念する柱と書かれているとか。


チャンドラグプタ2世の時代は仏教が衰退し、ヒンズー教が台頭した時代
そもそも、なぜ、この鉄柱がここにあるのか、それも結構謎みたいです。
アイバクが破壊したヒンズー教寺院にあったものなのでしょうか。
アイバクに破壊されなくて良かった・・・



アーチ門の近くには、かっての大ドームの回廊部分だったと思われる柱が残っています。

この柱、実に美しいですが、良く見ると伝統的なインド様式。

アイバクが破壊したヒンズー教寺院かジャイナ教寺院から持ってきたものなのでしょう。

イスラム教では偶像が禁止されているので、人物や動物が刻まれている柱などは使用されなかったとも言われますが、良く見ると残っているような気も・・・。

なんというか、アイバク、かなり横暴というか乱暴と言うか。

でも、考えようによっては、アイバクの横暴さをきっかけにして、インド伝統的な技術を持っていた工匠たちが、イスラム建築を吸収することとなり、やがてはタージ・マハルのような素晴らしい建造物を造っていくわけです。

そう思えば世界遺産になるのも、当然なのかもしれません。


かなり巨大な回廊です。2014年には回廊からクトゥブ・ミナールが良く見えました。
   


インド様式の美しい柱の数々を眺めて廻るのも楽しい。
   



大回廊の西側に霊廟があります。
イレトゥミシュ廟です。



イレトゥミシュはアイバクの後を継いだ人物で、やはり奴隷軍人の出身でした。アイバクが1206年に興した王朝はアイバク自身が奴隷軍人出身だったこと、その後継者も同様の出身だったことから奴隷王朝と呼ばれています。イレトゥミシュは奴隷王朝2代目のスルタンとなり、王朝の北インド支配を確立させました。
この霊廟は北インドを支配したスルタンの霊廟としては小さいような気もしますが、赤砂岩と白大理石で造られていてレリーフが見事です。ここのアーチも真のアーチではなく、石を水平に積んで造られています。

棺は白大理石
 
 白大理石はメッカの方角



奴隷王朝の寿命は短く、1290年には滅んでしまいました。しかし、その後も北インドにはイスラム系の王朝が続き、イスラム教徒の数も増え続けたのか大モスクは拡張工事が繰り返されます。


クトゥブ・ミナールの近くにある不思議な建造物
これも後のイスラム系王朝の遺物です。
14世紀のスルタンがクトゥブ・ミナールより巨大なミナレットを建てようとした名残です。
直径25m。完成していれば100mを越える高さになったと考えられています。





周囲には14世紀に造られた寺院の門や
聖者の霊廟、神学校(マドラサ)もあるそうです。
かわいいリスもたくさんいます。




南アジアの遺跡を見る




参考文献

ユネスコ世界遺産D(講談社)
世界遺産を旅する8(近畿日本ツーリスト)
地球の歩き方インド(ダイヤモンド社)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。