アグリジェント

シチリア南部のアグリジェント
古代ギリシャ時代の神殿が数多く残っています。
保存状態の良いコンコルディア神殿は必見
2017年8月訪問

写真はコンコルディア神殿


シチリア南部、地中海に近い場所に位置するアグリジェントは古代ギリシャ人が築いた植民都市。
古代名は「アクラガス」。シチリアにギリシャ人が入植を始めたのは紀元前8世紀ころのことで、クレタ人とロードス人がゲラを築いた後、その副次都市として紀元前581年にアクラガスを建設しました。当時のシチリアではフェニキアの植民都市カルタゴとギリシャ陣営が覇権を争っていましたが、紀元前480年のヒメラの戦いで、アクラガスはシラークサと同盟してカルタゴ軍を破り、絶頂期を迎えます。アグリジェントの「神殿の谷」と呼ばれる地域にはアクラガス絶頂期に築かれた多くの神殿が残っており、特にコンコルディア神殿は、その保存状態の良さで知られています。

もっとも、「神殿の谷」というのは誤訳といってもよいかもしれません。実際にアグリジェントに近づくと、車窓から小高い丘の上に神殿群が見え始めます。下の写真は一番高いところにあるジュノーネ・ラチニア(ヘラ)神殿。「谷」とは真逆の「丘」の上の神殿です。



更に丘の上に神殿が続きます。
下の写真右端がコンコルディア神殿。左端がエルコレ(ヘラクレス)神殿の柱


「神殿の谷」というのはイタリア語のValle del Templi を訳したものなのですが、Valle には谷という意味の他に川の流域や洲という意味もあり、実際ここは2つの川に挟まれているのだそうです。2つの川のうち東側の崖下を流れる川がアクラガス川といい、それが都市の名となったのだとか。

下の写真は遺跡にあった周辺地図
丘の上に多くの神殿が横にほぼ一列に並んでいるのが分かります。


見学ルートは色々あるようですが、一番高い場所にあるジュノーネ・ラチニア(ヘラ)神殿から
坂を下りながらコンコルディア神殿等を見学するルートをとりました。
上の地図だと右下から左に向けて見学したことになります。


ジュノーネ・ラチニア(ヘラ)神殿

近くの駐車場でバスを降りて、少し坂を上ります。神殿が見えて来ました。


神殿全景


ギリシャ神話の最高神ゼウスの妻ヘラはイタリアでは「ジュノ」となります。ここはヘラを祀る神殿で、ヘラは結婚生活を守護するとともに船乗りの守り神でもあったそうです。かってのアグリジェントは今より海に近く、海に注ぐ川を船が行き交って貿易をしていたということですから、きっと多くの住民の信仰を集めたのでしょう。
神殿が築かれたのは紀元前460~440年頃。
ヒメラの戦いに勝利した後の建設です。
神殿は凝灰岩で造られていて、かっては漆喰が塗られていました。今でもよく見ると、ところどころ白い漆喰が残っています。大理石のようにみえるように塗られたのでしょう。
大理石で造られたアテネのアクロポリスには豪華さは及びませんが、なかなかに立派な建物。
柱が前面6本、側面13本並ぶドーリア(ドリス)式神殿。前面17m、側面38m。
円柱は床から直接立てられていて台座はありません。この柱の台座がないのがドーリア(ドリス)式の特徴。柱頭もシンプル。

繁栄を謳歌していたアクラガスですが、紀元前406年、再来襲したカルタゴに敗れます。ヘラ神殿は破壊され、火を放たれました。

 かっての神殿正面
ギリシャ神殿は東を向いて建てられました。
神殿正面に向かい合う形に生贄を捧げる祭壇
ヘラには羊を捧げていたそうです。
 


ヘラ神殿が建つ丘は標高120m。見晴らしが素晴らしい。
実は私が訪れた2017年8月、イタリアは異常高温が続いていて山火事も多発してました。
暑さのせいか、少しもやっていますが地中海が見えます。



今のアグリジェントの街も見渡せます。現在のアグリジェントは人口6万弱
ギリシャ時代はその5倍以上の30万人が暮らす大都市でした。



コンコルディア神殿も見えます。
神殿までの道に沿って、かっての城壁も写っているのですが分かるでしょうか・・・



コンコルディア神殿までの道は古代の道を修復したもの。川の石を使っているそうです。
両側はアーモンドの木。春はアーモンドの花が咲き誇り、とても美しいということでした。



道に沿って変なものがあるのに気が付きました。半円状の穴が開いた壁


実はこれは紀元前500年頃に築かれた城壁が、ビザンティン時代にキリスト教徒の墓に転用されたもの。前480年のヒメラの戦いでカルタゴを破り繁栄を謳歌していたアクラガスが、前406年に再来襲したカルタゴに敗れたことは既に書きましたが、前3世紀になるとローマが南下し、第1次ポエニ戦争中、この都市をめぐって紀元前262年から前261年にかけてローマとカルタゴの激しい戦いが行われました。そして、戦いに勝利したローマ帝国がこの街の新たな支配者となります。ローマ帝国の支配下では再び平和が戻り、街の名はアグリゲントゥムと替えられました。
その後、ローマ帝国が東西に分かれると、6世紀にはビザンティン帝国の支配に入ります。この穴は、そのころ、キリスト教徒たちが城壁を削って墓にしたもの。半円状なのは太陽が沈み、昇ることを象徴するもの。現地ガイドさんは再生を意味するっていってましたけど、キリスト教徒は生まれ変わりとか信じてないですよね?だったら復活の意味かなあ。キリスト教徒はあの世での生活を考えないから、お墓からは何も出てこなかった・・・とも言っていました。


更に進むと、こんなものも。ローマ時代の邸宅の庭から出てきた彫像だそうです。
頭が取れてますが、元々頭は取り外して用途ごとに付け替えていたんだとか。



更に道を進むと、いよいよコンコルディア神殿。



コンコルディア神殿



ご覧のとおり見事な保存状態です。かっての神殿は凝灰岩で柱等を造り、漆喰を塗り、北アフリカから運んだ黒檀の木で屋根を造って瓦を載せていたということです。木と瓦は歳月によって失われ、漆喰も落ちてしまいましたが、それでも内陣や柱などの神殿の基本的部分が、ほぼ完全な形で残っています。前面の柱は6本、側面は13本。前面19,7m、側面42mでアテネのパルテノン神殿(31m×70m)のほぼ3分の2の大きさ。柱の台座がないドーリア(ドリス)式神殿です。

内陣の四周に列柱を置くのがギリシャ神殿の基本的な形
神殿を飾っていた彫刻等は失われていますが、内陣がほぼ完全な形で残っています。


東を向くこちらが、かっての神殿正面。神殿の名前となっているコンコルディアとは付近から発見された石碑に刻まれていた「調和」とか「和解」を意味するローマの女神の名前。元々、この神殿が建てられたのは紀元前450~440年ころ(アテネのパルテノン神殿が前447~431年ですから、ほぼ同時期となります)のことで、神殿に祀られていたのはディオスクロイ神とされています。
ディオスクロイ神とはゼウス神の息子たちという意味で、ゼウスが白鳥に化けてスパルタ王妃レダに産ませたカストールとポルックスのこと。二人は双子で同時に生まれた双子の姉妹がヘレネとクリュタイムネストラ。ヘレネは絶世の美女としてトロイ戦争の発端となりますが、カストールとポルックスは武勇で知られる英雄で、航海の守り神ともされています。

横から見ても立派。前面の柱の数×2+1がギリシャ神殿の基本なんだとか。6×2+1=13本
よく見ると、内陣の壁にいくつもアーチが造られているのが分かります。


内陣に開けられたアーチは6世紀末のビザンティン時代に神殿を聖ペテロ・パウロ教会に転用したときに造られたもの。凝灰岩は日本の大谷石みたいに柔らかく加工しやすいということで、内陣の壁を削ることも容易だったのでしょう。コンコルディア神殿の保存状態が良いのは教会に転用した時、柱と柱の間を漆喰の壁で塞いだことが結果的に建物を補強することとなったから。その後、この地を襲った地震にも耐え、崩壊を免れました。漆喰がなくなった現在では、どのように神殿を保護していくかが課題になっているそうです。

午前中に訪れたので、思いっきり逆光になっていますが
西を向くこちらが教会時代の正面


現地ガイドさんは「最も保存状態の良いギリシャ神殿」「ギリシャに行く必要がない」とまで言います。確かに素晴らしい保存状態ですが、保存状態の良さだけなら、アテネの古代アゴラにあるヘパイストス(テセウス)神殿の方がレリーフも残っているし、凄いかもしれません。ただ、ヘパイストス神殿は約14m弱×約32m弱とコンコルディア神殿より一回り小ぶりな神殿ですから、見た目の迫力という意味で負けるかも。いずれにせよ保存状態の良いギリシャ神殿という意味で、この神殿が屈指の存在なのは間違いないでしょう。シチリア観光で絶対に外せない場所と言えます。

アグリジェント遺跡見学のハイライトだからか、
実はコンコルディア神殿の近くには「おまけ」的なものが幾つかあります。

まずは右の写真。神殿のそばに何かでっかいものが置かれていると思ったら、これは現代彫刻でイカルス像なんだそうです。今の大統領の好みで遺跡に現代彫刻が置かれるようになっているのだとか。う~~ん。

イカルスはクレタ島の迷宮を建てた名匠ダイダロスの息子。迷宮の牛頭の怪物ミノタウロスがアテネ王子テセウスに退治されると、迷宮を建てたダイダロスはミノス王の不興を買い息子とともに幽閉されます。ダイダロスは蝋で鳥の羽根を固めて翼を造り脱出しますが、その際、太陽の近くを飛ぶと蠟が溶けると忠告されたにもかかわらず、イカロスは慢心を起こし、太陽に近づきすぎて墜落して死んだと言われています。
ダイダロスが逃げた先がシチリアのカミコス。カミコスはアグリジェントではないかとも言われているそうなので、ここに置かれているんでしょうか。現地ガイドさんはダイダロスの墓はアグリジェントにあると言っていましたが・・・。
ダイダロスを追って来たミノス王はカミコスで殺害され、その後クレタ軍がカミコスを攻めたという神話もあります。アグリジェントを築いたのがクレタ出身者なのと何か関係があるのか・・・

大統領の趣味は今一つな気がしますが、記念写真撮るにはいい場所になってます。

おまけその2 カシミア山羊。なぜ、ここにいるのかわからない・・・
角が凄い立派
   

カシミア山羊を見てから、道を進むと、綺麗な建物が現れます。

アウレア邸(博物館)



ここはアグリジェントに惚れ込み、自費で遺跡の修復にあたったイギリス人、アレクサンドル・ハードカッスル卿の邸宅だった場所。ハードカッスル卿は地震で倒壊していたエルコレ(ヘラクレス)神殿を修復し、円柱を8本建てています。現在は邸宅は博物館になってます。ここを過ぎると、すぐにエルコレ(ヘラクレス)神殿。神殿入口を入って行くと、面白いものが見られます。

 古代の轍の跡
 巨大なドーナツみたいなのは円柱の一部

エルコレ(ヘラクレス)神殿



エルコレ(ヘラクレス)神殿は、現在は8本の柱が立つだけの瓦礫の山。紀元前520年に建てられた神殿で、アグリジェントに現存する最古の神殿です。ドーリア(ドリス)式神殿で、かっては前に6本、側面に15本の柱が並ぶ構造でしたが、地震で倒壊し、瓦礫の山と化しました。1924年にイギリス人のハードカッセル卿が自費で立てた8本の円柱が残るだけです。周囲の柱の残骸には中央に穴が開いてますが、かっては柱の中央に鉛を流し込み、それを芯棒にしていたのだとか。

   

現地ガイドさんがハードカッセル卿がもう少し修復してくれてたらなあ・・って言ってました。
世界遺産になってしまったため、今ではこれ以上の修復ができないんだそうです。


エルコレ(ヘラクレス)神殿のすぐ近くにも入口(出口)がありますが
車道の上にかけられた小さな橋を渡ってジョーヴェ・オリンピコ(ジュピター)神殿へ

ジョーヴェ・オリンピコ(ジュピター)神殿

神殿正面



橋を渡ってオリンピアのジュピター神殿(ジョーヴェ・オリンピコ)の神域に入ると、正直、瓦礫の山といった印象を受けます。

ジュピターはゼウスのローマでの呼名。ここは紀元前480年のヒメラの戦いでカルタゴに勝利した記念に建設が始まりました。
現在残る神殿の基壇は56,3m×112,6mあるといいます。当時、この規模の神殿はギリシャにはありません。ギリシャで建設が計画され、ローマ時代にようやく完成したアテネのゼウス神殿でさえ、43m×110mですから、いかに巨大な神殿だったか分かります。この神殿は当時、世界最大と言われたエフェソスのアルテミス神殿に次ぐ規模でした。当時のアグリジェントの繁栄や意気込みが伝わるようです。
もっとも、余りに巨大だったため、建設に時間がかかり、前406年にアグリジェントがカルタゴに敗れた時も神殿は未完のままでした。神殿はカルタゴによって破壊され、更に、その後の地震で廃墟となります。その後も、近くの港の建設に石材は利用されてしまいました。
巨大な石に残るU字型の窪みは運搬のためロープをかけたもの。


瓦礫の中に、かって神殿の軒を支えていたテラモーネ(巨人柱)が横たわっています。


近くの人物からも巨大さが分かると思います。テラモーネは約8m。
もっとも、上の写真はレプリカ。オリジナルは博物館にあります。

こちらのテラモーネはオリジナルですが、保存状態は余り良くありません。



ここでツアーでの見学終了
でも、集合時間まで僅かな時間があったので、もう少し行ってみることにしました。
ジュピター神殿から降りていくと、4本の柱が見えて来ます。
ディオスクロイ(カストール・ポルックス)神殿の柱です。


ディオスクロイ(カストール・ポルックス)神殿

ディオスクロイ神殿周辺。多くの建物の跡が残っています。


時間がないので、まずはディオスクロイ神殿に近づいてみました。


ディオスクロイ(カストール・ポルックス)神殿は、紀元前5世紀末に建てられたもので、前406年のカルタゴ再来襲の際に破壊されました。その後、ヘレニズム期に再建されたものの、地震で崩壊。現在建っている4本の柱は19世紀に修復されたものだそうです。

4本の柱頭の上の水平になった部分エンタブラチュアが残るだけですが、かっては前面16m、側面34mのドーリア(ドリス)式神殿でした。
コンコルディア神殿も、かってはディオスクロイ神殿だったといいますし、この地方ではディオスクロイ信仰が盛んだったのでしょうか。

それにしても、この周辺には建物の基礎と思われる石組みが無数に残っています。ヘレニズム期の祭壇も多いそうですが、このディオスクロイ神殿周辺はアクラガスでも最古の地域なんだそうです。
紀元前581年に建設されたアクラガスは僭主ファラリスにより勢力を伸ばしたとされています。ファラリスについては青銅の牛の拷問・処刑器具を造らせたことで有名なんですが、そのころのものも残っているのでしょうか・・・。


神殿近くに残る無数の基壇・祭壇跡


ディオスクロイ神殿の側には古い時代のデメテルとコレの至聖所もあるとのことですが
残念ながら時間切れ。
アグリジェント、もっとゆっくりしたかった。博物館も行きたかったし。
いつか、また、来れるかなあ。


アグリジェントから地中海は、本当に近い。
スカーラ・ディ・トゥルキ(トルコ人の階段)という景勝地もあります。



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参考文献

芸術と歴史の島シチリア(日本語版) BONECHI シチリアで購入
シチリアへ行きたい 小森谷慶子・小森谷賢二著 とんぼの本 新潮社

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。