アッピア街道と水道橋

ローマの土木技術の素晴らしさを示す街道と水道橋
ローマ郊外にある街道の女王・アッピア街道と
水道橋公園を訪ねました。
2017年10月訪問

写真はクラウディア水道橋


ギリシャ・ヘレニズムを継承したローマは芸術性ではギリシャを越えることはできませんでしたが、実用的文化、特に建設と土木に優れていたと言われます。建設ではコロッセオやパンテオンなどが有名ですが、土木を代表するのが街道と水道橋でしょう。街道は軍隊の移動を容易にするだけでなく物流などの経済面を支えるものでしたし、水道橋は人が暮らすために不可欠な水を安定的に供給するものとしてローマの発展に貢献しました。ローマ郊外では最初に造られた街道で街道の女王と呼ばれるアッピア街道や水道橋を見ることができます。

アッピア街道

アッピア街道の起点サン・セバスティアーノ門


アッピア街道は紀元前312年に執政官アッピウス・クラウディウスにより着工され、前264年にイタリアの東・アドリア海に面した港ブリンディシに到達しました。アッピウスという人物は非常に優れた人物だったようで、最初の街道を建設しただけでなく最初に水道を引いた人物でもあります。
アッピア街道の起点サン・セバスティアーノ門は3世紀後半、アウレリウス城壁に設けられた城門で5世紀に拡幅されたもの。ローマでは紀元前4世紀にセルウイウス城壁が築かれましたが、その後城壁外にも街が広がったため、蛮族の侵入に備えてアウレリウス城壁が築かれました。
城門内にはローマに巡礼に訪れた人々を出迎えるかのように天使のレリーフ。また、城門を入ってすぐの所にあるドゥルーゾの門はカラカラ浴場に水を運んだ水道の高架の遺構です。

天使のレリーフ
 
 ドゥルーゾの門

アウレリウス城壁とサン・セバスティアーノ門


サン・セバスティアーノ門から120mくらいのところに第一マイル標石があります。アッピア街道では1ローママイルごとに里標識が置かれました。これはレプリカで本物はカンピドーリオ広場に置かれています。それにしても門からこんなに近くで1マイル?と疑問になりますが、アッピア街道ができた前4世紀にローマを囲んでいたセルウィウス城壁は現在のアウレリウス城壁より市内寄りにあったわけで、その当初の起点から1マイルなんだそうです。当初の起点はカラカラ浴場付近のセルウィウス城壁のカペーナ門でした。ちなみに1ローママイルというのは1000歩とのこと。

見落としがちな第一マイル標石
 
 レプリカですが風情があります


第一マイル標石から800mほどで三叉路


アッピア街道は三叉路の左手。三叉路の右手の緩やかな丘のあたりは古代にはお墓に供える花として好まれた薔薇の薔薇園があったそうです。古代には墓地は市内には造れず郊外に造ることになっていたことから、アッピア街道のこのあたりには墓地・骨壺棚が数多く残されています。
この三叉路に沿って左手にドミネ・クォ・ヴァディス教会があります。ローマを逃れようとしたペテロはここでキリストに出会い、「主よ。何処へ行かれたもう?(クォ・ヴァディス?)」と尋ね、「もう一度十字架に架かりに」というキリストの言葉に恥じ入り、殉教を覚悟してローマに戻り、逆さ磔にかかったとされています。ペテロとキリストが出会ったという場所に建てられたドミネ・クォ・ヴァディス教会は小さな教会ですが、教会内にキリストの足跡という大理石が置かれています。

小さなドミネ・クォ・ヴァディス教会
現在の建物は17世紀に建てられたもの
 
 教会内に置かれたキリストの足跡
指の形が薄っすら分かるでしょうか

しばらく進むと広々とした場所が見えて来ます。

ロムルスの墓廟


マクセンティウスは4世紀、巨大化したローマ帝国が4分割されて統治されるようになっていた時代に近衛兵に擁立されローマを拠点に皇帝を僭称した人物。フォロ・ロマーノのバジリカなど多くの建造物を建てましたが、皇位を巡る争いでコンスタンティヌス帝に敗れ亡くなります。
この広々とした場所には、マクセンティウスの息子で14歳で亡くなったロムレスの墓廟やマクセンティウスの離宮や競技場がありました。ロムレスの墓廟は丸い建物。競技場は520m×92mの長い戦車競技場だったそうですが、現在ではかっての姿を想像するのは難しくなっています。

マクセンティウスの競技場


更に進むと街道沿いに丸い建物
チェチーリア・メッテラの墓
   

前1世紀の執政官の娘で名門のルキニウス・クラッススの妻であったチェチリーア・メッテラの墓。方形の基壇の上に円筒形が乗った形で、上部には懸花装飾や牛頭装飾が残っています。
霊廟の隣には14世紀の城が建てられていて、街道の見張り塔・旅籠として利用されました。

霊廟上部に残る装飾
   


チェチリーア・メッテラの墓の先に古代の敷石が残っています。


敷石は頑丈な玄武岩。歩道と車道に分かれ、車道は馬車がすれ違える広さ。街道を建設したアッピウス・クラウディウスは晩年には視力が衰え「盲目」という二つ名が付けられましたが、ローマの覇権を唱え、半島南部のギリシャ系都市との徹底抗戦を主張したと言います。ローマが半島を統一したのは彼が没した紀元前270年のことでした。彼の死後も街道は造られ続け、イタリア半島更には広大なローマ帝国内に街道は張り巡らされ、「全ての道はローマに通ず」となります。

アッピア街道の近くに水道橋公園があります。

水道橋公園



駐車場で車を降り、松並木の道を歩くと巨大な水道橋が目の前に迫ってきます。1世紀にカリグラ帝が着工し、14年間の工事の後次代皇帝クラウディウスが完成させたクラウディア水道橋です。



この水道橋にはアニエネ川から引かれたクラウディア水道とアニエネ渓谷から引かれた新アニア水道が通っているそうです。高架の上の方に2つの水道が通っているんですね。最も高い部分は高さ28mで、ローマから水源までは約20q。長い距離に渡って水を運ぶための勾配の工夫や水が痛まないための工夫など、様々な高度な技術が用いられているそうです。導水管の平均勾配は300分の1だそうで、計算するのも凄いけど、そんな勾配で水道橋を造るのも凄いですよね。
この水道橋公園の水道は、このクラウディア水道橋を流れている2本だけではありません。この公園には古代に造られた11の水道のうち6本が通っていて、更に16世紀に修復・再利用されたフェリクス水道も通っているのだそうです。

クラウディア水道橋の下を通って先に進むと犬が遊ぶ公園の先に何やら見えて来ました。



アグリッパの水道橋



前1世紀にアウグストゥスの腹心アグリッパによって築かれたアグリッパの水道橋。クラウディア水道橋より古いものです。クラウディアの水道橋みたいに高くないんですねって言ったら、高い水源から引かれている水道は高くて、水源が低い場合は低いんですって。なるほど。
戦争が起こると水道橋は破壊されるのが常でしたが、この水道は地下に潜っていたため破壊を免れたのだそうです。この水道橋は3段になっていたとのことでした。水道管の中は防水処理が施されていてイスラエルから出るアスファルトが使われているそうです。

今も水が流れています。
さすがに飲めないそうですが。
 
 巨大な水道管
市民の憩いの場になってました。


アグリッパの水道橋からクラウディア水道橋が小さく見えました。
延々続いているのが分かるでしょうか。



破壊された水道橋の高架らしきものも点在しています。



のどかな公園ですが、飛行機の航路にあたってるみたいです。
何度か上空を飛行機が通り過ぎました。


ローマ市内からちょっと郊外に出るだけで
なんとも、のどかでした。


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参考文献

ローマ古代散歩 小森谷慶子・小森谷賢二著 新潮社 トンボの本

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。