アク・べシム遺跡とブラナの塔

世界遺産に登録された長安〜天山回廊の交易路網
アク・べシム遺跡とブラナの塔もその一つ
かってのシルクロードの要衝だった場所です。
2016年GW訪問

写真はブラナの塔


アク・べシム遺跡とブラナの塔はキルギスの首都ビシュケクから東のイシク・クル湖に向かう途中に位置します。2つの遺跡は10qも離れておらず、ビシュケクからは約60q。遺跡の東に位置するイシク・クル湖の南には天山山脈が連なっており、この地は天山山脈の北側を通る天山北路と天山山脈の南側を通る天山南路の交わる要衝の地として栄えました。

アク・べシム遺跡

雨に霞む遺跡入口


アク・べシム遺跡は7世紀に玄奘三蔵が突厥の王と会ったとされる場所です。玄奘はこの地を「素葉城」と記し、旧唐書ではここに唐の西域支配のための「砕葉鎮」が置かれたとされます。「素葉」も「砕葉」も現地語スイアブ(水)の音訳。街の近くにはチュー川が流れています。5世紀ころにソグド人が街を造り、中国への交易の拠点としました。7世紀にインドに向かう玄奘三蔵が訪れた時も街はソグド人のものでしたが遊牧民の突厥に隷属しており、玄奘三蔵は突厥王に歓待されます。

・・・ということで凄い期待して訪れたものの、いざ遺跡に着いてみると朝からの雨は土砂降りとなるし、遺跡と言っても正直何が何やら・・・。雨の中、バスを降りるとユルタが見えました。このユルタのそばで日本の山内教授が現在、発掘調査を行っています。山内教授は2016年春から帝京大学文化財研究所、それ以前は東京文化財研究所の地域環境研究室長をされており、世界遺産の審査委員もされています。雨にはたたられましたが、雨宿りしたユルタの中で山内教授から遺跡の説明を詳しく聞くことができたのは非常にラッキーでした。

まず、なぜ、ここが玄奘三蔵が突厥の王に会った場所と言えるのか。
その証拠が下の碑文。ビシュケクのロシア・スラブ大学付属博物館に展示されています。
小さくて地味な碑文ですが、良く見ると右上に「砕葉鎮」の文字が・・・!
   

この碑文の発見で、アク・べシム遺跡がかっての「素葉城」「砕葉鎮」であることが確定しました。

山内教授によると遺跡は四角形の部分と五角形の部分が隣接する形をしているそうです。下の写真は山内教授が見せてくれたソ連時代の航空写真。四角形と五角形の遺跡の形、更に五角形の中の長方形の内城が明らかです。ソ連時代には、まだ遺跡が破壊されずに残っていたのだとか。

四角形の水色で囲った部分は戦時は要塞となり平時は城や監獄・財宝庫とされたクヘンティズと市民が暮らしたシャフリスタンからなっています。この構造はソグド人の町特有のもの。玄奘が訪れた時の素葉城は、この水色で囲った部分だったと考えられます。

   

玄奘は南大門から入ったとのことです。玄奘は素葉城について「都市の周囲は6〜7里(約2,5〜3q)。各国の商人が雑居している」と記しました。当時はまだ仏教寺院はなくソグド人の信仰するゾロアスター教寺院があっただけのようです。街の支配者はソグド人ですが、ソグド人は突厥に隷属していました。その後、突厥の王は暗殺され、「旧唐書」によれば、西進した唐が679年に砕葉鎮城を築き、西域支配の拠点の一つとしたということです。

山内教授は上の写真でピンク色に囲った五角形の部分の内側にある内城付近を発掘し、唐の時代の瓦などを発見しました。五角形の部分が唐の時代に築かれた街なのは間違いないようです。山内教授はこの地に則天武后が築いたと大雲寺が眠っているのではないかと考えているそうです。唐は719年にこの地を放棄するので、わずか40年程の支配でしたが、その後もこの地は交易の要衝として栄え10世紀にはカラ・ハン朝を築いたウイグル族が支配するようになります。山内教授が現在発掘しているのは10世紀のカラ・ハン朝時代の遺跡だそうです。

山内教授によると、この地からは仏教寺院やネストリウス派キリスト教寺院、ゾロアスター教の墓地も発見されているということで、多くの民族が行き交った多国籍都市だったことが偲ばれます。

雨の中、教授に遺跡の説明をしてもらうため、草むらをかき分けて進みました。
小高くなっている城壁部分から遺跡を眺めてみます。

玄奘が通ったという南大門
C型の窪みが分かるでしょうか。凄い大きい。
 
 城壁の先にある小高い場所がクヘンティズ
ソグド人の要塞(戦時)で城(平時)だった場所

遺跡は緑で覆われていますが、これは雨の時期だからこそ。普段はまっ茶色の世界だそうです。
雨の時期は土が柔らかく発掘に適しているのだとか。夏になると土が硬くて掘れないそうです。

山内教授の発掘現場、カラ・ハン朝時代の街
中央に横に大通りがあり、大通りに面して飲食店や鍛冶屋があったのだとか。



 飲食店ではないかと思われる場所。
丸く水たまりになっているのが窯のあと
 


ネストリウス派教会の跡。その後ろに城壁の跡が見えます。



アク・べシム遺跡の近くには巨大な涅槃仏が見つかったクラースナヤ・レーチカ遺跡もあります。
ロシア・スラブ大学付属博物館にはアク・べシムや周辺から発見されたものが展示されていました。

チベット風の仏像
 
 十字架

チベットとも交易があったんですね。
また、詩仙と称えられた唐代の詩人・李白はこの地の出身だという説もあるようです。

アク・べシム(素葉城・砕葉鎮)は11世紀ころには衰退し
代わりに近くのバラサグンが栄えるようになります。
バラサグン遺跡に着いた頃、雨がようやく小降りになりました。



ブラナの塔とバラサグン遺跡

石人近くから見たブラナの塔


アク・べシム遺跡から近いところにブラナの塔があります。ここは10世紀から13世紀のカラ・ハン朝の都パラサグンだった場所とされています。ブラナの塔は11世紀ころに建設されたもので、近くにはかっての王の廟の基壇が丸く残り、近くの小高い丘は宮殿だったとされています。また、塔のそばにはキルギス各地から集められた突厥時代の石人が置かれていて野外博物館のようです。

カラ・ハン朝は現在は中国の新疆に位置するカシュガル地方でイスラム化したウイグル族の王朝です。彼らは10世紀中ごろに西進して、当時中央アジアを支配していたペルシャ系のサーマーン朝を倒します。その後、東西に分かれ、東カラ・ハンはこのバラサグンを都とし、西カラ・ハンはサマルカンドを都としました。

左の写真でも分かるように、この塔傾いています。どうやら基礎が弱かったらしく、それが原因で上の部分が壊れてしまったんだそうです。

現在の高さは27mですが、かっては倍近い高さがあったのだとか。今の姿もソ連時代に修復されたものだそうです。

この塔を築いた理由は、戦いが多かったことから敵を見張るためと言われていますが、この塔には18歳で死ぬと予言された娘のため王が築いたのだという伝説もあります。

王は塔の頂上の部屋に娘を住まわせ、娘を守ろうとします。そして、娘が18歳になったとき、安心した王が娘に果物を届けたところ、そこには毒虫が潜んでいて、結局、娘は命を落としてしまった・・・という悲しいお話。

このHPを訪れたイスタンブール在住の方から、ブラナの塔の伝説とそっくりの伝説がイスタンブールのボスフォラス海峡に建つ乙女の塔にあると教えてもらいました。乙女の塔では王女様は毒蛇で命を落としたということです。同じような伝説は古代ローマにもあるのだとか。まさに、シルクロード・・・・といった感じでしょうか。古代の人々の往来、人々の伝説が行き交った証ですね。


イスラム化したウイグル族が築いた都だけに、イスラム風のものが目に付きます。

塔の壁面の装飾はイスラム風
 
 アラブ語の石碑


晴れていれば塔からの眺めが素晴らしいということですが
お天気が今一つだったので、塔の近くの丘に登ってみました。
ここはカラ・ハン朝の宮殿の跡。アーチのようなものが見えます。



塔の近くに置かれた石人たちも見逃せません。



「石人」というのは突厥が武人の墓に置いたと考えられている石の人物像です。
ここにはキルギス各地から集められた石人が展示されています。

既に書いたように、玄奘がアク・べシム(素葉城)で突厥の王に会った7世紀、この地方の街は突厥に支配されていました。
もっとも、支配といっても突厥の王は街の外の天幕で暮らしていたようです。突厥はトルコ系の遊牧民。玄奘も狩りに出かける途中の突厥の王に会い、狩りから帰った王に豪華な天幕でもてなされています。山内教授は突厥の王は街の外の山の方にいたんじゃないかな、と言っていました。

遊牧民である突厥の支配は街に定住して支配するという形ではなかったわけです。ちょっと今では想像しずらい支配方式で面白い。

玄奘が出会った突厥の王は美しい王だったようですが、ここの石人たちはどこかユーモラス。

手に杯を持っていますが、これは馬乳酒の杯。
現地ガイドさんによると、馬乳酒を飲むとお嫁さんが欲しくなるのだそうです。精強剤?


色んな石人が並びます。
   


ユーモラスな表情。前衛芸術の様でもありますね。
   



騎馬ゲーム

ブラナの塔の近くでは伝統の騎馬ゲームを見ることもできます。

@馬で駆け抜けながら地面の物を取るゲーム



A馬上レスリング。馬から落とされた方が負け。これが本当の騎馬戦。



B山羊の死体を奪い合い、ゴールにいれるゲーム。山羊を使ったサッカー。


馬との一体感が凄い。こんなのが攻めてきたら勝てませんね。
山羊の重さは17s。山羊は後で美味しくいただきます。

最後に、C騎馬競争もあったんですが、早すぎて撮れませんでした。

キルギスでは世界中の遊牧民が集まる世界遊牧民大会というのが開かれています。

騎馬ゲームチャンピオンとお子さん
 
 小さい時から英才教育

キルギスでは今でも馬に乗れないと一人前の男と認められないそうです。



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参考文献

玄奘三蔵、シルクロードを行く 岩波新書 前田耕作著
中央アジアの歴史 講談社現代新書 間野英二著
文明の十字路=中央アジアの歴史 講談社学術文庫 岩村忍著

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。