カラコル

イシク・クル湖の東端から山に入った場所
天山山脈を目指す人々の基地となるカラコル
山々が美しい町です。

ホテル近くの眺め


カラコルはイシク・クル湖の東端から約9qのところにある高原の町です。前日は雨でしたが、カラコルでは良く晴れました。朝起きたら雪を抱いた山々が非常にくっきりと綺麗に見えて感激。

山が見たくて、ちょっと散策。湖畔の町より標高が高いので、少し寒いくらいです。

我々の泊まったホテルが町の中心から外れたところにあったからか、ホテルを出て数分歩くと外はのどかな右の写真のような景色。

カラコルの町は歴史が新しく、まず19世紀にロシア人たちが入ってきて町を築きました。
その後、20世紀初頭に、中国人のイスラム教徒たち(回族・ドゥンガン人)が弾圧から逃れて移住して来ます。今ではカラコルというとドゥンガン人が多い町、といったイメージだそうです。

遊牧民だったキルギス人は余り農耕が得意ではなかったけれど、ドゥンガン人が農業を広めてくれて助かったんだと現地ガイドさんが言っていました。多民族国家キルギスでは多くの民族が平和に共存しているようです。

カラコルの町は今では天山山脈への登山基地にもなっています。天山山脈の最高峰ポヘダ峰(勝利峰)7439mへの入口でもありますが、残念ながら勝利峰は山々に隠され、町から見ることはできません。


町から湖方面を見ると、ウンゲイ・アラ・トーが延々と続きます。



今日はカラコル周辺の見どころを周ります。

町を出ると黄色いタンポポが可愛い。
湖側のウンゲイ・アラ・トー。頂上付近に雲がかかっているのが残念。



道の反対側からは雲の合間に雪を抱いた天山山脈が見えました。



まずは、山に入っていきます。
車で30分くらいのところの見事な草原で車が停まりました。



ここが鷹狩り会場だそうです。

鷹狩り

鷹のバイサル君。19歳。オス。


鷹匠のペティさんは82歳。おじいさんとバイサル君はキルギスの鷹狩のチャンピオンです。

バイサル君が優勝した時、彼は狼を狩ったということでした。凄い。

おじいさんの腕にとまっていますが、バイサル君は7sあります。日本にも鷹匠ってありますけど日本の鷹より大きい気がします。

上の写真はちょっとカメラ目線になってくれた時に撮ったものですが、ガン飛ばされると非常に怖いし、一度捕まえると獲物を離さないという足と爪もコワイ。

しかも、この日のバイサル君はちょっと機嫌が悪いということで、結構、威嚇されました。

ウサギを狩るというショーみたいなのも見せてくれるんだけれど、バイサル君、弱ったウサギには興味がないらしく失敗。

鷹の寿命は30歳くらいで、19歳にもなるとプライドが高くなって言うことを聞かず大変なんだそうです。

鷹は24・25歳になると自然に返すとのこと。ただ、中には鷹匠のところに帰ってくる鷹もいて、そんな鷹は死ぬまで飼うのだとのことでした。


鷹狩り会場から車に戻るとき、はるかかなたに見えたイシク・クル湖。




ジェティ・オクズ



鷹狩り会場から更に車で30分ほど。赤砂岩の奇岩が見えて来ました。ここはジェティ・オクズという場所で「7匹の雄牛」という意味。奇岩が7匹の雄牛に見える・・・とのことですが、どう見ても牡牛には見えないし、7匹より多い気がする。この奇岩の下をジェティ・オクズ川が流れていて、川に一番近い岩は心臓が壊れたような形をしているから「ブロークン・ハート」と呼ばれてもいるそうです。

ここから車は渓谷に入って行きます。私たちは車で向かいましたが、若い白人の男女が歩いている姿を何回も見ました。ヨーロッパからトレッキングに来ているんでしょうか。

山間には気持ちのいい草原



ドリーナ・スベトフ(花の盆地)

標高2200mの花の盆地

 羊の群れがやってきました。
 羊は山の方へ。


ジェティ・オクズ川 イシク・クル湖に流れ込んでいるそうです。



花の盆地と呼ばれ、季節ごとに野生の花々が咲き乱れるという場所ですが、残念ながら花は少し早かったようです。現地ガイドさんによると、今年は冬が短かったものの春になってから雨が続き、気温が余り上がっていない、とのことでした。昨日も雨でしたが、山は雪だっただろうとのこと。
山には雲がかかっていますが、雲が流れると雪を抱いた山肌が見えます。天山山脈だそうです。



ちょっと雲が出てきてしまったのが残念。
この後、町に戻り、町の見どころを廻りました。


ロシア正教の聖三位一体教会



この教会は19世紀初めにカラコルに移住してきたロシア人達が煉瓦で造ったのが始まり。当時は町の人口4万人の内3万人がロシア人だったそうです。

しかし、その後、中国のイスラム教徒達が迫害を逃れて移り住んでくると次第にロシア人は少数派に。教会は市役所別館に利用され、更にその後はミニ・サッカー場となってしまいます。

これに怒ったロシア人がある日、酔っぱらって教会を壊してしまったそうで、1960年代に木造で再建されたのが現在の教会。どんぐりの木でできています。

町ではもっと教会を立派に直したいと考えていて、エリツィン大統領が町に来たとき修復費を出して欲しいと頼んだら、エリツィンは酔っぱらっていたのか「モスクワに帰ったら金を振り込む」と快諾。ところがモスクワに帰ったら音沙汰なし。催促したら、もう少し待ってとのことだったので、待っていたらプーチンに大統領は代わってしまい、プーチンにお願いしたら「チェチェンで忙しい」と無視され、結局、修復費は出ないまま。

そこで、この教会は「大統領に振り込まれなかった教会」と呼ばれているのだそうです。


ドゥンガン・モスク

中国風の建物があり、道教寺院かと思ったら、なんとモスクだそうです。

中国風の屋根
 
 モスク内部

20世紀初頭、カラコルには中国での迫害から逃れるため、イスラム教徒の中国人がやって来ました。いわゆる回族。彼らはドゥンガン族と呼ばれます。この地に逃れてきた彼らはイスラム教寺院を建てたのですが、ご覧のとおり、中国風の造り。でも、礼拝を呼びかけるミナレットも小さいながらあるし、内部には礼拝のための絨毯が敷かれ、メッカの方角を示す壁龕(ミフラーブ)もあるし、右上の写真だと柱の陰になってしまいましたが、階段のついた説教壇もあります。



プルジェワルスキー博物館と墓

豊かな緑の中に博物館はあります。


プルジェワルスキーはロシアの探検家。日本では知名度が高くありませんが、中央アジアの地図を最初に作った人物で、ソ連時代のカラコルの町の名は彼の名前が付けられていました。

プルジェワルスキーは1839年、帝政ロシアに生まれ、帝政ロシアの将軍となります。身長198cmと非常に大柄な人物だったそうです。

極東ロシアの探検で名を上げ、中央アジアを4回も訪れました。
彼が目指したのはラサ。当時のチベットは鎖国中でしたが、彼はカラコルを通ってラサに行こうとします。

しかし、ビシュケク近くの川に釣りに行った際、川の水を飲んで腸チフスとなり、カラコルに着いた時は既に手遅れ。カラコルで亡くなりました。

彼は自分が死んだらカラコルの町のイシク・クル湖に近いところに葬ってくれと遺言します。

彼の遺言に従い、彼の墓はカラコル郊外の湖に近いところにあります。
墓のそばには彼の業績を示す博物館が1958年に建てられ、周囲は緑豊かな公園のようになっています。


モニュメント
 
 お墓


お墓の近くから見たイシク・クル湖



ホテルに戻って、夕方、空が美しい色に変わりました。
天候不順に泣かされた今回の旅で見た一番きれいな夕空


翌日は素晴らしい天気となりました。


シルクロードの遺跡に戻る


キルギスの遺跡に戻る






基本的に現地ガイドさんの説明を元にまとめています。