レプティス・マグナ

リビア北西部のレプティス・マグナ
北アフリカ最大のローマ都市の遺跡です。
2007年5月訪問

写真はセウェルス帝のフォーラムのレリーフ


リビア北西部に位置するレプティス・マグナはフェニキア人の海洋国家カルタゴの衛星国家として紀元前9世紀ころ建設されました。当時はレプティスという名で近くのサブラタ、オエア(現トリポリ)とともに「トリポリス(3つの都市)」と呼ばれ、繁栄したそうです。
カルタゴがローマ帝国に敗れた後は一時期アフリカ属州に貶められますが、豊かな穀倉地帯であることから次第に隆盛し、紀元前46年にローマの植民都市に昇格したころには既に本国ローマの都市にも劣らない大都市となっていました。その繁栄ぶりから、ハドリアヌス帝によってマグナ(偉大な)という形容詞がついたレプティス・マグナと名付けられます。
そして、紀元後2世紀後半にレプティス・マグナ出身のセプティミウス・セウェルスがローマ帝国の皇帝となるとセウェルス帝の庇護の下、街は黄金期を迎えることとなります。


セウェルス帝の凱旋門

遺跡に入ると最初に目に入るのがセウェルス帝の凱旋門です。
   

この凱旋門はセウェルス帝が東パルティアを破った記念に198年に建てられたもの。高さ20m、幅14m。四方に入口を持つ四面門で、市街地の大通り交差点に建てられました。皇帝が故郷に錦を飾ったという感じでしょうか。それぞれのアーチの左右に立つコリント式の円柱はエジプトの御影石、門の表面にはイタリア・ギリシャ・小アジアから運び込まれた大理石が貼られています。

アーチ上部には勝利の女神ニケのレリーフ
この写真では見えませんが、門の中にはローマの象徴である鷲のレリーフも残っています。



美しいローマ風のレリーフが並びます。
     

この凱旋門から南北に走る道をカルド通り、東西に走る道をデクマヌス通りと言います。


ローマ劇場

凱旋門からカルド通りを北に進み、ちょっと左に折れるとローマ劇場があります。
海が見える気持ちの良い劇場です。


このローマ劇場は1世紀ころにアウグストゥス帝によって建造されたもの。舞台背後に並ぶコリント式の列柱は、アウグストゥス帝が建てた神殿です。
劇場の収容人数は3000人から4000人。かっては多くの彫刻で飾られていました。発掘された彫刻は現在、博物館に展示されています。この神殿の地下にはフェニキア人の墓地があります。

観客席の最上部には、かって柱が並んでいたことが分かります(左)。

   



アウグストゥス神殿

劇場に隣接するアウグストゥスの神殿。


黒い柱が印象的ですが、この柱はエジプトから運ばれた花崗岩だそうです。



市場

カルド通りをローマ劇場より先に行ったところに市場があります。



この市場はふたつの丸い建物があって、ちょっと面白い造りです。この市場は紀元前8世紀からの歴史を持つ古い市場なのだそうです。
かって、アフリカ内地からサハラ砂漠を越えてやって来た隊商は、この街にに黄金や象牙、奴隷を運んできました。ここには肘の長さや足の大きさを測る度量衡らしきものなども残っています。
また、市場に残るレリーフにはフェニキアやローマの船も描かれていて、これも興味深い。





旧フォーラム

カルド通りをそのまま北に進むと旧フォーラムに出ます。

   

フォーラムというのは古代ローマで集会所として利用された公共の広場です。かって、ここにはヘラクレス・アウグストゥス・バッカスの3つの神殿があったということですが、現在では、ちょっと想像するのも困難です。並べられた柱や柱頭は修復を待っているのでしょうか・・・。



列柱道路

港から南北に幅20mを越える列柱道路が走っています。
これはセウェルス帝が造った道路。
この道路に沿ってセウェルス帝の造ったバシリカ・フォーラムが並びます。





セウェルス帝のバシリカ

セウェルス帝が203年に建造したバシリカ。


バシリカというのは一般に木造の屋根を持つ多目的ホールで、悪天候でも利用できるフォ-ラムとして利用されたものを言うそうです。セウェルス帝のバシリカは3世紀には商業活動の中心となるとともに裁判所としても利用されたそうです。6世紀には教会として利用されるようになったとか。

現在はホール内の列柱が残り、かっての巨大さは分かるものの、倒れた柱などがごろごろしていて、ちょっと乱雑な印象。それでも壁には美しいレリーフが残り、ガイドさんによるとヘラクレスの12偉業やバッカス、それに胎児などが描かれているのだそうです。左下のレリーフがヘラクレス。

   



セウェルス帝のフォーラム

セウェルス帝のバシリカのすぐ隣がセウェルス帝のフォーラムなのですが・・・
瓦礫の山・・というのが第一印象です。



想像するのは困難ですが、ガイドさんによると、かってここにはセウェルス神殿とそれに続く階段があったのだそうです。写真の小高い部分がその跡なんでしょうか。
帰国後調べたら、セウェルス神殿は基壇の高さが6m近くあり、それに続く階段は27段もあったとのこと。神殿の円柱はエジプト産のピンク色の花崗岩を使っていたというのですから豪華です。

一見すると瓦礫の山のフォーラムですが、ここには美しいメドゥーサのレリーフが数多く残っています。かっては、柱をつなぐアーチの飾りとして利用されていたようですね。





よく見ると、メドゥーサは微妙に表情が違います。




ちょっと不思議な雰囲気。
   



ニンファエウム

列柱道路に戻り、南に進むとニンファエウムに出ます。


ニンファエウムというのは水の妖精ニンフを祀る泉です。
かっては噴水になっていて、ここで人々が涼しさを求めていたはずです。
よく見ると2階建てだったことが分かります。



ギムナジウムとハドリアヌス帝の浴場

ニンファエウムの先はギムナジウムとハドリアヌス帝の浴場です。

   

ギムナジウムというのは運動場のこと。ガイドさんの見せてくれた図面の右側に上下が半円状の長い広場がありますが、これがギムナジウム(運動場)。そして、その左側に建つのがハドリアヌス帝が2世紀前半に建造した公共浴場です。公共浴場は随分と立派な建造物だったようです。

ハドリアヌス帝の公共浴場はレプティス・マグナで初めて大理石が用いられた建造物で、温水・冷水の浴場に、更衣室、公衆トイレなどがあったとのこと。市民の憩いの場として利用されていたんですね。隣のギムナジウムで運動して汗をかいてから、お風呂を楽しんだのでしょうか。

それにしても立派な浴場です。



50人が用をたせたという公衆トイレ。かっては立派な柱もあったようです。
ローマの人はトイレをしながら会話を楽しんだそうですが・・・。



巨大なプールのような浴場も残っていました。





円形闘技場

少し離れたところに巨大な円形闘技場が残っています。
ここからも海が綺麗に見えます。



この闘技場は1万5000人を収容できたもので、高さは18,5m。かっては隣接して海側に2万3000人を収容できる競馬場もあったのだそうです。ガイドさんが復元図を見せてくれました。丸い円形競技場の横にある細長いのが競馬場です(左)。

また、かっての港の様子の復元図が右。港の突端には灯台があり、港にはセウェルス帝が建てた貿易で扱う品々を保管するための貯蔵庫が並んでいたのだそうです。

   

セウェルス帝の下、繁栄を極めたレプティス・マグナですが、帝の死後、ローマ帝国の衰退とともに衰退し、5世紀にはゲルマン系のヴァルダン人によって破壊されます。その後、ビザンチン帝国が一部を再建したものの、7世紀にはアラブ軍によって破壊され、その後は砂に埋もれていくこととなりました。


灯台はどこになったんでしょう・・・。



実に巨大な遺跡です。
ともかく広くて見ごたえがあります。
それにしても劇場に闘技場に浴場に運動場・・・
ローマ人って楽しみが多かったんですね。


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参考文献

世界遺産を旅する12(近畿日本ツーリスト)
21世紀世界遺産の旅(小学館)
ユネスコ世界遺産(講談社)

私が訪れたのは、いわゆるアラブの春の前。
カダフィ大佐が健在だった時です。
現地ガイドさんやドライバーさん、ツーリングポリスの人たちは元気でいるのでしょうか。
遺跡は破壊されていないのでしょうか。

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。