スリーシティーズ

16世紀にマルタを支配するようになった聖ヨハネ騎士団
スリーシティーズは騎士団がマルタで最初に築いた街
オスマン帝国によるマルタ包囲戦に勝利した街でもあります。
2017年1月訪問

写真はセングレア側から見たヴィットリオーザの街


聖ヨハネ騎士団は元々は1113年にエルサレムで十字軍の負傷者・病人の看護と貧者救済を目的に創設された修道士の組織です。しかし、イスラムとの戦いの中で次第に軍事的色彩を強め、彼らは戦士でもある修道士に姿を変えていきました。
聖ヨハネ騎士団は1291年にエルサレムを撤退した後、キプロス・ロードスと本拠地を移しますが、1522年にロードス島がオスマン帝国に攻略されると本拠地を失うこととなります。

そんな聖ヨハネ騎士団にマルタ島の使用を許可したのが神聖ローマ帝国カール5世(スペイン王カルロス1世)でした。地代は1年に鷹1羽。当時のマルタは島の中央部にあるイムディーナが首都で、そこにはマルタの貴族や僧侶が暮らしていました。しかし、カール5世から「マルタの貴族や僧侶を侵すな」と条件を付けられていたため、聖ヨハネ騎士団は島北東部の入り江にビルグ(現ヴィットリオーザ)・セングレア・ボルミア(現コスピークワ)という3つの町・スリーシティーズを建設します。そこは複雑な海岸線と船を停泊させるに十分な深さを持つ天然の良港で、古代から要塞としても使用されている場所でした。オスマン帝国によるマルタ包囲戦はこの地で行われ、激戦に耐えたビルクの街にはヴィットリオーザ(勝利の街)、セングレアにはインヴィッタ(無敵の街)、ボルミアにはコスピークワ(顕著な街)という名前が与えられました。



上の写真は対岸のヴァレッタから見たスリーシティーズ。このあたりは非常に複雑に海が入り組んだ場所で、ヴァレッタのある半島に対し横から指を二本突き出したような小さな2つの半島にスリーシティーズは築かれています。ヴァレッタから見て左側にヴィットリオーザ、右側にセングレア、そして指の付け根部分と言うか両者をつなぐ部分がコスピークワです。ヴィットリオーザとセングレアの間の入り江は幅が狭いのに、ご覧のように大きな船が停泊できます。現地ガイドさんによると、この入り江は非常に深く、もっと大きな船も余裕で停泊できるということでした。

ヴィットリオーザ 先端にあるのは聖アンジェロ砦



セングレア 先端の城壁上にあるのが監視塔ヴェデッテ


ヴィットリオーザとセングレアの街を散策しました。

セングレア

コスピークワとセングレアの境にある聖マイケル砦


聖マイケル砦からセングレアのある半島の先端まで海沿いの道を歩きました。
ボートがたくさん停泊しています。対岸はヴィットリオーザの街




街は海に面した坂に築かれています。階段ばっかり。趣はあるけれど住むのは大変かも。
   


ボートにはねこさん
   


半島の先端まで来ました。
ここにあるのが監視塔ヴェデッテ
セングレアで最も有名な建造物です。

城壁から突き出す形の監視塔
 
 目と耳が彫られています。

目を凝らし、耳を澄まして監視する・・・ということの表れなのでしょう。

この監視塔のある公園・ガードヨーラ公園に上って監視塔を間近に見ることもできます。



監視塔には目と耳だけでなく、鳥も彫られています。この鳥が何なのかについては争いがあって、ペリカンとの説もあるそうですが、鶴というのが有力説。というのはこの鳥、足に何かを持っているのですが、鶴には石を敵に落とすという習性があるとのことで、この鳥は敵への攻撃をも意味しているのだとか。

この監視塔のある辺りは、対岸のヴァレッタやヴィットリオーザが非常に良く見えます。
対岸の半島にあるヴァレッタ。
ヴァレッタはマルタ包囲戦の勝利後、オスマンからの攻撃に備えて築かれた街。


半島が要塞化され、その中にヴァレッタの街があるのが良く分かります。
マルタ包囲戦の時には聖エルモ砦の攻防の後、オスマン帝国が占拠しました。
ヴァレッタの街はオスマン帝国が撤退後、築かれた街です。


ヴァレッタのアッパー・バラッカ・ガーデン 良く見るとアーチのところに大砲が置かれています。
左にあるのは港から昇ることができるエレベーター。このエレベーターまでがヴァレッタの街



右手に見えるのがヴィットリオーザの聖アンジェロ砦


1656年にオスマン帝国の大軍が攻めてきた時、聖ヨハネ騎士団の騎士団長が暮らしていたのが聖アンジェロ砦。今のヴァレッタにあった聖エルモ砦は1カ月の攻防戦の末、オスマン軍の手に落ち、聖ヨハネ騎士団は、この聖アンジェロ砦に立て籠もって戦いを続けます。オスマン帝国軍4万に対し、騎士団は貴族の出身という条件から人数が限られていたため、わずか600人。騎士団の他に傭兵や当時のヴィットリオーザやセングレアの市民も戦いに加わったものの、それでも総数9000人。圧倒的に不利だったにもかかわらず、聖ヨハネ騎士団は戦いに勝利します。


ヴィットリオーザ

ヴィットリオーザは聖アンジェロ砦から散策をスタート



砦の第一の門



第一の門と次の門の間は堀になっています。大砲の飛距離を考えた造り。



聖ヨハネ騎士団がマルタに入った時、ヴィットリオーザの街はビルグという漁村でした。騎士団はオスマン帝国との戦いに備えるため、村にあった砦を要塞化し、騎士団長の住居とします。それが聖アンジェロ砦。

騎士団の時代の戦いは銃器・大砲の時代なので、砦は大砲の飛距離を考えた堀を持ち、また壁も大砲の攻撃に備えた分厚いものとなっています。この砦に騎士団や住民が立て籠もって戦ったわけです。

勝利後、街は勝利の街ヴィットリオーザと名前を替えました。首都がヴァレッタに移ると騎士団長の宮殿もヴァレッタに移りますが、第二次世界大戦時にはこの砦にイギリス海軍の本部が置かれました。
実はマルタ包囲戦はオスマン帝国による1565年のものだけでなく、第二次世界大戦時にも行われています。当時のマルタはイギリス領でしたが、地中海の要衝であるマルタは枢軸国から激しい空爆を受け、物資の補給路を断たれたのです。その時、人々が利用した防空壕が城門の下に残っています。つまり、この砦は二度にわたりマルタの人々が立て籠もった場所で、しかもマルタの人たちは二度とも激戦に耐え勝利したわけです。そう思うと感慨深いですね。


砦の中には大砲が置かれていました。


ちょっと分かりにくいですが、ここには「POST OF FRANCE]というプレートが貼ってあります。これは「フランス兵が守る場所」という意味。聖ヨハネ騎士団は様々なキリスト教国の騎士からなる多国籍軍だったため、話す言語ごとにグループ分けされていました。言葉が通じなかったら、戦闘の時に大変なことになりますものね。ここはフランス語を話す騎士団の持ち場だったわけです。

ヴィットリオーザの街には騎士たちの宿泊所(オーベルジュ)などが残っています。
宿泊所も言語ごとに分かれていました。

フランス語を話す騎士たちのオーベルジュ
 
 ベランダのある建物はイギリスのオーベルジュ


古い街の路地は趣がありますね。
バルコニー・出窓が印象的
   


街の中心の広場だそうです。



広場には勝利の女神像
オスマン帝国への勝利を記念して建てられたもの
   


聖ローレンス教会


教会の前は海です。海沿いの道から撮りました。

海沿いの道にある門の向こうは海事博物館
第二次世界大戦中はイギリス軍のパン工場
 
 ビルグマリーナ
ボートがずらりと並びます


午前中にスリーシティーズを観光した後
近くのスリーマーの街からヴァレッタとスリーシティーズを周遊するクルーズに参加しました。
スリーマーからヴァレッタを見て、一度外洋に出て、スリーシティーズを目指します。

近づくセングレアの街



監視塔ヴェデッテが近づきます。




そして見えてくる聖アンジェロ砦



海から見る要塞は迫力。



逆光の監視塔ヴェデッテも美しかった。



16世紀のマルタ包囲戦は無敵を誇ったオスマン帝国にキリスト教徒が最初に勝利した戦いでした。
ヨーロッパのキリスト教徒にとっては忘れらない戦いのようです。
穏やかな海からは、かっての激戦を想像するのも難しいのですが。


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参考文献

日本語版マルタ諸島 Miller Distributours Limited

基本的には現地ガイドさんの説明に基づいてまとめています。