マンダレーとアマラプラ
ミャンマー最後の王都だったマンダレー
かって都が置かれたアマラプラ
ミャンマー中部の古都を訪れました。
2015年12月訪問

マンダレーの旧王宮


ミャンマーのほぼ中央に位置するマンダレーは19世紀にイギリスに占領されるまでミャンマー最後の王朝コンバウン朝の都だった場所で、現在もミャンマー第2の都市です。
13世紀にバガン王朝が衰退すると、ミャンマーは北のシャン族と南のモン族に分かれ、内乱状態となってしまいます。15世紀にビルマ族のタウングー朝が再統一を果たしますが、タウングー朝もインドのムガル帝国によって衰退し、17世紀に滅んでしまい、再びミャンマーは内乱状態に。そんなミャンマーを1754年にコンバウン朝のアウランパヤー王が統一します。コンバウン朝はタイのアユタヤ朝も破り、ミャンマーの国土を最大にした王朝でもあります。
バガン王朝が滅んでから、シャン族やタウングー朝、そして最後の王朝コンバウン朝が都を築いたのはマンダレー周辺のインワ・ザガイン・アマラプタでした。王たちが遷都を繰り返したこともあって、これらの街には都だったことを偲ばせるものはほとんど残っていませんが、最後の都マンダレーには旧王宮をはじめとして、寺院や仏塔が残っています。

マンダレー空港から、まずはアマラプラに向かいました。

マハーガンダーヨン僧院

アマラプラは18世紀から19世紀の56年間、2度にわたり都とされた場所です。

今ではかって都であったことを偲ばせるものは残っていませんが、多くの観光客が訪れるのがマハーガンダーヨン僧院です。

マハーガンダーヨン僧院は1000人以上の僧が暮らすミャンマー最大級・最高位の僧院。

この僧院で毎朝10時半から始まる僧たちの朝食風景をみるために世界各国の観光客が集まります。私たちのツアーも、この食事風景を見るために、マンダレーの前にまずアマラプラに向かいました。

僧たちの朝食を見るのに、なぜ観光客が集まるかというと、10時半になると僧院各所から1000人を超える僧たちが集まり、2列に整列して食事を摂る姿が見事だからです。

観光客が凄いですが、僧たちは一言もしゃべることなく、静かに整列して前に進み、手に持った鉢に食事を入れてもらいます。列が進んでも、次々と集まる僧たちが静かに列に加わり、この行列はなかなか途切れません。

列の先では僧たちに朝食がふるまわれていました。
この食事、寄進によるものだそうで、1日の費用20万円だとか。


ミャンマーのお坊さんたちはお釈迦様のころの戒律を守っていて
お昼以降は食事を摂ることができません。

僧院は広く、僧たちの生活を垣間見ることもできます。

   


僧院の中には犬や猫がたくさんいました。お坊さんの残り物をもらっているのでしょう。
   

僧院の中には設立者である高僧ベンザナカビゥンタの居室跡や墓もあります。
立ったまま書を書いたということで机が随分高かった。



ウーべイン橋

延々1.2q続くウーべイン橋


アマラプラのもう一つの見どころが、アマラプラの東にあるタウンタマン湖を渡るためにかけられた全長1.2qのウーべイン橋。私が訪れた時期は乾季だったので湖の水位も低く、橋の下には緑が広がっていましたが、この緑も雨季には水で覆われるそうです。この橋は19世紀中ごろに、この地を治めていたべイン氏が造ったもので、その後もずっと人々に利用されているんだそうです。
チーク材でできていて、手すりはありませんが、途中には屋根付の休憩所もありました。

   


この後、マンダレーに向かいました。


マハムニ・パヤー

マンダレーで最初に観光したのは街の南にあるマハムニ・パヤー



外も中も、絢爛豪華というか、きんきんきらきら。
壁や天井は金色に塗られているだけでなく、柱の下の方は翡翠だそうです。


マハムニ・パヤーはコンバウン朝のボード―パヤー王がミャンマー南西部のヤカイン地方から奪ったマハムニ仏を祀るために1784年に創建されました。祀られているマハムニ仏とは、なんと生前のお釈迦様の姿を写したと言われる仏像です。仏像が造られるようになったのはお釈迦様の入滅後数百年たった1世紀ころですから、生前のお釈迦様の姿を写した仏像だなんて到底信じられない話ですが、かってマハムニ仏を有していたヤカイン地方はインドに近いので、かなり古くから仏教が入ってきていたのではないかと思われます。

もっとも、ミャンマーの人たちはお釈迦様の生前の姿を写したと信じていますから、その賑わいたるや凄いものです。仏像には金箔を貼れますが、近くに行けるのは男性のみ。女性は遠くから参拝しなくてはなりません。仏像は金箔を貼りすぎて、元々の姿とは随分と変わっているようです。

近寄れない女性のため仏像の姿をテレビ放映中
 
 望遠で撮ってみました。仏像は約4m。


かっての仏像と現在の比較写真



ここにはアンコール・ワットから奪ったという像も置かれています。
タイが奪ったものが幾つかの争いの後、最終的にここに置かれるようになりました。
自分の悪い部分をなでると治ると言われています。

 
 
 


マンダレーの街の中心に向かうと、王宮を取り囲む広い堀。
向かって正面の丘はマンダレー・ヒル


王宮はほぼ正方形をしており、一辺が約3qという広さです。


旧王宮

最初にも書きましたが、マンダレーはミャンマー最後の王朝コンバウン朝の都だった場所。

ミンドン王がマンダレーへの遷都を決め、1857年から王宮の建設を始め、4年がかりで完成したということです。
しかし、その後、1885年に最後の王、ティーボー王がイギリスによりインドに追放され、ミャンマー最後の王朝が滅びます。
王宮として利用されたのは、わずか28年間でした。

現地ガイドさんによるとミンドン王は開明的だったけれど、次に19歳で即位したティーボ王は余り出来が良くなかったんですって。

コンバウン朝滅亡後はイギリス軍によって使用されますが、第二次世界大戦中に日本軍が占領。戦いの中で王宮も焼け落ちてしまいます。

現在の王宮は20世紀末に再建されたもの。
今は王宮の敷地のほとんどをミャンマー軍が使用しており、観光客は、ごく一部のみを見ることができます。右の写真は王宮の正面入口から撮ったもの。王が謁見をした建物です。七重の塔のような建物に獅子の玉座がありました。


元王宮にあった説明図。上の写真は右下の方向から撮ってます。


上の説明図で右下部分に立派な建物が並んでいるのが分かると思いますが、まず広い建物があり、ここは謁見する人々が集まった場所。その奥の七重の塔のような変わった建物に王の玉座・獅子の玉座が置かれていました。その奥は王の私室。円錐形の変わった建物は物見の塔です。
王が生活した場所の近くには宝物庫。そして奥に点在する建物は後宮。ミンドン王の時はなんと45人もの妻が居たのだとか。現在は一番左上・奥の建物が博物館になっています。私たちは博物館から謁見室へと、上の説明図だと左上から右下の順に見学しました。


後宮近辺
   

これらの建物は写真等を参考に再建されたのだそうです。
ただ、屋根がトタン葺だったりするのが、ちょっと残念。

謁見所と王の私室
 
 物見の塔

ユニークな形の建物が多いです。

美しい装飾
 
 白い傘蓋は王のシンボル


獅子の玉座。国王夫妻の人形が座っています。



この後、マンダレー・ヒルの麓にあるクドードォ・パヤーに向かいました。

クドードォ・パヤー



クドードォ・パヤーは19世紀にマンダレーに遷都したミンドン王が世界最大の経典を作るべく創建した不思議な場所です。2013年に富士山とともに世界遺産に登録されました。

ここでは中央の大ストゥーパを取り囲むように右回りに全部で729の小さな白いストゥーパが置かれ、その白いストゥーパ各々の中に大理石に刻まれた経典が置かれています。
刻まれた経典は三蔵。戒律を定めた律蔵、お釈迦様の説法をまとめた経蔵、そして、それらの解釈書である論蔵です。

ここは寺院と言うべきなのか、図書館というべきなのか。こんな場所は世界で他に例がないのではないでしょうか。

ジオラマが置かれていたので撮ってみたのが右の写真。全体は撮れませんでしたが、雰囲気は伝わるかと思います。


 中央ストゥーパ
 中央ストゥーパ前の仏像


この白い仏塔全ての中に
それぞれ経典が収められています。
 
 経典が刻まれた大理石
パーリ語で刻まれています。


 ミンドン王の像
 かわいい花売りの女の子


この後、夕日をみるために軽トラックに乗りかえてマンダレーヒルに向かいました。
大渋滞だったし、エレベーターも壊れてたけど、なんとか夕日に間に合いました。

最後にマンダレーヒルから見た夕日



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参考文献

地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ) ダイヤモンド社

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。