カハマルカ

ペルー北部、標高2750mのアンデスの街カハマルカ。
インカ最後の皇帝アタワルパがスペイン人ピサロに捕えられた地です。
事実上のインカ終焉の地はカハマルカ県の首都となっています。
2009年9月訪問

写真はアルマス広場周辺


スペイン人ピサロがインカに到着した時、インカ帝国は腹違いの兄弟である皇帝アタワルパとワスカルが王位継承の戦いを繰り広げている最中でした。1532年、カハマルカの温泉に滞在していた皇帝アタワルパはスペイン人の到来を知りますが、ピサロらスペイン人はわずか170人、アタワルパは2万から3万の軍を従えていました。

圧倒的な兵力差でアタワルパには油断があったのか、1532年11月のスペイン人の奇襲によってカハマルカの大広場でアタワルパは捕えられてしまいます。インカにとっては皇帝は絶対的ですから、皇帝が捕えられてしまえばインカ軍は手も足も出せません。こうして、スペイン人によるインカ侵略が始まります。

カハマルカの中央公園のすぐそばにアタワルパが幽閉されていた部屋が残っています。



現在のカハマルカの中央公園アルマス広場はインカ時代は大広場でした。
かっては周囲にはインカの公共建築物が建ち並んでいたといいます。

しかし、現在、インカ時代のものはアタワルパが捕えられていた部屋がぽつんと保存されているだけです。
ピサロは当初、この部屋にアタワルパを幽閉して、皇帝を人質とし、傀儡政治を行おうとしたようです。

捕えられたアタワルパは、この部屋で「ここまで黄金を積むから解放してくれ」と言ったとされ、アタワルパが「ここまで」と言った場所がプレートで示されていました。

決して狭くはない部屋です。プレートの位置まで積まれたアタワルパの身代金は金が5720s、銀が11000s以上だったと言われます。
インカ皇帝にとっては、それくらいの黄金は大したことはなかったのかもしれませんが、スペイン人はこれに目がくらんだことは間違いありません。

ピサロは身代金を受け取りながら、皇帝を解放せず、かえって、反逆罪にでっちあげます。

これは、いくら皇帝を幽閉しているといっても、周囲のインカの大軍にスペイン人は怯えていたからだともされていますが・・・。

でっちあげ裁判でアタワルパを反逆罪としたピサロは、皇帝を処刑することとします。

この時、ピサロはアタワルパを火あぶりにしようとしますが、それはインカにとっては恐ろしい処刑方法でした。

インカでは祖先崇拝が盛んで、死者はミイラとされ、美しい布で包まれ、宝石で飾られ、貴重な品々に囲まれて、壁龕に置かれ敬われるものでした。皇帝のミイラともなると、毎日食事を捧げられ、祭事においては金の輿で運ばれ、自分の領地を持ってさえいたといいます。

ミイラとされることは永遠の命を持つことであって、火あぶりになるということは、この永遠の命を断ち切られるということを意味したわけで、皇帝にとっては耐えられないものだったのでしょう。
皇帝は火あぶりの刑を避けるため、キリスト教に改宗までして、斬首されます。

アタワルパが処刑されたのは大広場、現在のアルマス広場。
1533年8月のアタワルパの処刑により、事実上、インカ帝国は滅亡します。


アタワルパを処刑した後、スペイン人はインカの宮殿の石を利用して2つの教会を建てました。
しかし、途中で石が足りなくなってしまったため、片方は未完成となっています。

   



ビュー・ポイントから見たカハマルカの街



街中にある小高い丘はルミティアナ(サンタ・アポローニャ)と呼ばれる場所。インカの言い伝えでは、処刑されたアタワルパの体をパチャママが再生・復活のため隠した場所とされます。火あぶりとなることを免れたアタワルパがここから復活するとされ、インカの聖地となっています。カハマルカのインディヘナの女性はソンブレロに黒いリボンを付けていることが多く、これはアタワルパの喪章なのだとか。現在も、アタワルパの復活はインディヘナに強く願われているようです。



オトゥスコ

カハマルカの近くにオトゥスコという村があります。



オトゥスコの村には奇妙な遺跡があります。ベンタニージャ、「小さい窓」と言われる遺跡で、岩肌に小さな窓のような穴がいくつも開いているというもの。
これは紀元前1500年ころから後1200年ころにかけての集合墓です。岩肌の穴は墓。全部で387あるということです。穴が小さいことから、かっては子供用の墓と考えられていましたが、今では大人もミイラにして骨をここに埋葬していたことが分かっています。インカより遙かに昔からアンデスでは祖先崇拝が盛んだったんですね。

   



クンべ・マヨ

カハマルカの郊外20キロほどのところに奇岩が並ぶクンべ・マヨはあります。
標高3500mの石の森です。



奇岩が連なるクンべ・マヨはハイキングをしても楽しい場所です。
インディヘナのお土産屋さんでは子犬が産まれていました(左)。
奇岩の中にはチャビン時代のレリーフと言われるものも残っています(中央)。
     


しかし、クンべ・マヨで見逃せないのが、古代の水路。余りにも立派なものなので、つい最近のもののように見えますが、紀元前1000年ころ、チャビン文化の水路なのだそうです。
この水路は山にある神聖な水を川に合流させるための水路で、皮の水を神聖なものにするという宗教上の意味を持つ水路なのだそうです。

   


水路にはチャビン期のレリーフも残っています。
左はよく分かりませんがジャガーと人間だそうです。右は十字のレリーフ。
   




カハマルカのホテルは豪華な温泉ホテルでした。
アタワルパが温泉を訪れていた時にピサロに囚われたことは既に書きましたが
ここにはインカ皇帝の使った温泉が今でも湧いています。
湯量は豊富で、日本人も満足できる温泉です。
ここに二泊したら四十肩が治ってしまいました。





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参考文献

黄金帝国の謎(文春文庫ビジュアル版)
インカ帝国(創元社)
世界の神話百科アメリカ編(原書房)


基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。