クスコ

インカ帝国の首都だったクスコ
アンデスの盆地で標高は約3400m。
クスコとはケチュア語で「へそ」の意味だそうです。
2004年5月に訪れました。

写真はサント・ドミンゴ教会に残るコリカンチャ(太陽の神殿)の石組み


インカは元々はチチカカ湖周辺の小さな部族国家(ケチュア族)で、12世紀ころに王朝が誕生したと言われています。15世紀、9代王パチャクティの時代から周辺国への征服事業が始まり、帝国としての基礎が築かれました。クスコを整備したのもパチャクティだったそうです。

パチャクティが亡くなったのは1471年、北のチムー帝国がインカによって征服されたのもそのころです。パチャクティと10代王トゥパック・ユパンキによって築かれたインカ帝国は11代王も領土の拡大を続けたことから、スペインが到達したころには現在のエクアドルからチリ北部まで及ぶ南北6000キロもの領土を支配した大帝国となっていました。

インカが北のチムー帝国を滅ぼしたのは1470年ころで、最後の皇帝アタワルパがピサロによって処刑されたのが1533年。意外とインカ帝国の歴史は短いものです。また、「インカ」とは「太陽(インティ)の子」という意味ですが、スペイン人によって命名されたというのも意外な事実です。彼ら自身は自分の国をタワンティンスーユ(4つの州)と呼んでいました。


サント・ドミンゴ教会(コリカンチャ)

インカ帝国の首都クスコには宮殿や多くの神殿が建ち並び、金銀で飾られていましたが、スペイン人はそれらの芸術性には目もくれず、略奪しては溶かして金の延べ棒に変え本国に送りました。そのため、インカ時代の工芸品はほとんど残っていません。そして、略奪の後は、スペイン人はインカの建造物を破壊し、スペイン風の教会などに建て替えていきました。ビラコチャ神殿はカテドラルに、11代ワイナ・カパック王の宮殿はラ・コンパニーア聖堂に、太陽の処女の館はサンタ・カタリナ修道院に、それぞれ姿を変えています。


しかし、インカの石組みが余りに強固だったため、破壊を諦め、新しい建物の土台として利用されたものもあり、その代表的なものがサント・ドミンゴ教会です。

外観からもクスコの石組(太陽神殿)の上に教会が建てられているのが一目瞭然。

「度重なる地震でスペインの築いた教会は壊れたがインカの石組はびくともしなかった」と紹介されることも多いようです(実際は、少しはずれてたりもしていますが)。

もともと、インカの時代には、ここには太陽神殿・コリカンチャがありました。

太陽・月・星・虹・稲妻などを祭る神殿が中庭を囲んで立ち並び、神殿内部は黄金の板で飾られ、黄金の神像が祀られ、中庭には黄金のリャマやトウモロコシの像が飾られ、しかも地面には砂金がまかれてあった・・・ということで太陽のように光り輝く場所だったそうです。

スペイン人大興奮の場所だったコリカンチャでは徹底的な略奪と破壊が行われ、現在、内部には堅固な石組みが残るだけになっています。



神殿内部の石組みはインカで最も優れていると言われる見事なもので、「剃刀の刃が入らない」どころではなく、紙も入らないところもあるほどです。
ただ、石組みだけではどうしても殺風景。何もないと往時の姿を想像するのも困難だからか、黄金の壁掛けが復元されていました(右下)。

   

黄金の壁掛けは、当時のスペイン人の記録にしたがって復元したもので、太陽とか星とか色んな模様が描かれています。
ただ、当時、ペルーに来ていたスペイン人にはインテリがいなかったので(ピサロ自身、自分の名前すら書けなかった)、記録の内容がいい加減らしいのです。実際、この神殿については、みんな黄金が凄いということは書いてあっても、どのような模様が刻まれていたかとかには興味がなかったらしく、書いてある内容もばらばらなんだとか。だから、この復元品もどこまで正確かは大いに疑問があるところ。ただ、ほんのちょっぴりですが当時の雰囲気は出ますね。うん。



12角の石

クスコ市内には他にも建物の基礎部分としてインカの石組みが残っています。有名な12角の石も市内の通りにあります。私が行った時、なぜか12角の石はご覧の状態。触るなとのメモもあり、これは何だと現地ガイドも驚いていたのですが、どうやら悪質ないたずらだったようです。ひどいなあ。
   

それにしても、このような複雑な形の石を隙間なく積み上げていく技術が失われてしまったのは残念です。接着剤も使わず、地震でも崩れない石組みの工法は現在でも復元できていません。鉄を知らずに、どうやって石を複雑に削り、組み合わせたのか。本当に謎です。



サクサイワマン

巨石を使った要塞、サクサイワマン。


サクサイワマンはクスコの北西にあります。クスコはピューマの形をしていると言われ、サクサイワマンはピューマの頭の位置にあたるそうです。クスコを守るために造られた最大規模の要塞で、遺跡の端からはクスコの町がすぐ近くに見えます。

サクサイワマンの建設は9代王パチャクティの時代に始まり、10代王トゥパック・ユパンキが完成させたとのことですが、他方でスペイン人が来た時には、まだ建築中だったという話もあります。
サクサイワマンの特徴は何よりも、その巨大さでしょう。

人間の何倍もの巨石が贅沢に使われ、「剃刀の刃も入らない」という石組みが見事です。
要塞の一番下の層は、上の写真のようにじぐざぐになっていますが、その出っ張り部分には、特に巨石が使われています。高さ6m、重さ120トンの石もあるとか。

石組みは3層になされていますが、かっては20mと今の倍の高さがあったそうです。
長さは360mにも及びます。

インカには車輪もコロもなく、馬もいませんでしたから、これらの巨石は人力で運ばれたことになります。

これだけ立派な要塞だったにも関わらず、人数で劣るスペイン人に敗れたのは、インカには夜戦うという風習がなかったからだそうで、なんともやるせない話。



サクサイワマンは現在では毎年6月に行われる太陽の祭りインティ・ライミの会場になっています。



ケンコー

ケンコー遺跡はクスコ市街からちょっと離れたところにあるインカの祭礼場。巨大な岩でできていて、岩をくり抜いて迷路のようになっており、ミイラを置く場所もあります。インカ皇帝が、ここでお祭りをしたとのこと。この巨大な岩の上には、いけにえの血を流した溝もあるそうな。




ミイラを置いたとかいわれる場所を写したのが左の写真。

インカではミイラは非常に大事にされました。
ミイラとなった死者は永遠の命と神託の能力を持つと考えられ、豪華な衣装や装飾品で飾られていたのだそうです。

驚くのは、この台座みたいのも何も、全て岩をくり抜いたものであって、石を組み合わせたものではないこと。外から運ばれた石は全くないのだそうです。
たぶん、この巨大な岩そのものに、何かの意味があったんでしょうね。

そもそも、スペイン征服以前のペルーの人々の信仰は、もともとは多神教で、太陽・月・大地・星等々が拝まれていました。
そして、神聖なものを「ワカ」といい、山とか石とか、色んなものが「ワカ」として拝まれていたのだそうです。

クスコのコリカンチャを中心に放射状に線が引かれ、その線上に多数のワカが配置されたと言われており、ケンコーの遺跡もその一つなのでしょう。 


 

ケンコーの遺跡には、巨大な石が飾ってあり、これも「ワカ」。

左の写真の石がそれです。
背後にはより巨大な岩が横たわっています。

この石には昔は何かレリーフが彫られていたとのこと。
しかし、スペイン人は邪教だとか悪魔が彫ってあるという理由でレリーフを削ってしまったのだそうです。

本当にスペイン人は破壊しまくっています。


今のペルーの人たちは、ほとんどの人がカソリックですが、実際は、未だに、大地の神に豊作を祈ったりして、伝統的な宗教が形を変えて生き残っているとのこと。地母神信仰がマリア信仰に形を変えたりしているわけですね。

ちなみに、インカでは皇帝は太陽の子とされ、太陽信仰が盛んでしたが、実は太陽信仰は人気がないのだそうです。

どうも、太陽信仰はインカによって政治利用されていただけらしいとのこと。

これも意外ですね。




プカ・プカラ

砦、見張り場の役目を果たしたというプカ・プカラ
タンボ・マチャイのすぐそばにあります。




タンボ・マチャイ

インカ皇帝の沐浴場もしくは水の神殿とされるタンボ・マチャイ


タンボ・マチャイの遺跡は見た目は普通のインカの石組み神殿ですが、水が出ています。そのため水の神殿と言われるわけですが、この水については謎がいくつもあります。
まず、雨季も乾季も水の量が同じで、もちろん枯れることがない。どこから来た水なのかも分からない。付近の水源になりそうなところとかを調べたものの、未だに不明。

サイフォンの原理でどこか遠くから運んでるんだろうというのが、一応、今の有力説らしいですが、よくわかりません、というのが真相とのこと。
インカには、この「未だに分からない謎」っていうのが実に多いです。だから面白いんでしょうけれど・・・。



チンチェーロ遺跡

クスコから32キロほど離れたチンチェーロ村の教会。


チンチェーロ遺跡は、インカ帝国10代王トゥパック・ユパンキの城もしくは要塞だったと言われるもの。上の写真はインカの石組みの上に建てられた教会。基礎の赤茶色の部分がインカの石組みです。
教会の裏手に回ると、広い段々畑のような場所に出て、要塞として機能していたことが分かる(左下)。サクサイワマンやオリャンタイタンボに比べて規模は小さいけれど、広々として気持ちがいい場所。遺跡の周辺の村は収穫の真っ最中で、畑が見事でした(右下)。

   

南半球のペルーは日本とは季節が逆。日本のGWは、ペルーでは夏が終わり冬に向かう時期であり、しかも、ちょうど雨季から乾季への移行時でもあります。そのため、GWにペルーを訪れると、ちょうど収穫期の景色を見ることができます。
山の斜面を見事なほど耕しています。畑の色が違うのは斜面の高さによって違う作物を育てているからとのこと。
南米原産の食べ物といえばジャガイモとトウモロコシ(これは中米説もあるけど)ですが、ジャガイモは4000m以上の高地でも育ちますが、トウモロコシは育たないので4000mより低いところ、更に低いところでは綿というように、高度によって作る作物を分けているのだそうです。
それにトウモロコシにも色々な種類がり、インカでは一つの作物だけを作るといういことはしなかったとのこと。なぜかというと、飢饉対策。一つの作物が凶作で全滅しても、他の作物が取れるように考えたんですね。
インカのジャガイモはヨーロッパに渡り、アイルランドのような痩せた土地の人口を爆発的に増やすことに貢献したけれど、ヨーロッパ人は一つの作物だけを作っていたため、凶作のとき大飢饉になった・・・のだそうです。



モライ

インカ時代の実験農場ではないかと言われるモライ


クスコから60キロほど離れたところにあるモライ遺跡。オリャンタイタンボに向かう途中にあります。「モライ」とはケチュア語で「丸くへこんだところ」という意味。

これはとても巨大です。写真で小さく点のように写っているのは人です。全部で4つありますが、最も大きいものは直径約50m、深さ30m以上もあります。

祭壇だとの説もありますが、有力なのが「実験農場」説。既に触れたようにインカでは高低差を農業に利用して高度に応じた作物を育てていました。ここでは人工的に段差を造って色々な植物の品種改良などをしていたのではないかと言われています。



マラスの塩田



クスコから60キロほどのところにある「マラス」の塩田。プレ・インカのころから重要な塩田で、現在も質の良さで世界的に評価が高いらしいです。
でも、なぜこんな高地に塩田が・・・というと、大昔アンデスが海の底にあったときの塩が地下水を通って集められているんだという、わかるようなわかならいような説明でした。


見どころ満載です。
クスコは標高が高いので、観光は高度順応をしてからの方が安心です。



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参考文献

古代アンデス 神殿から始まる文明(朝日新聞出版 大貫良夫/加藤泰建/関雄二 編)
沈黙の古代遺跡 マヤ・インカ文明の謎(講談社+α文庫 増田義郎監修、クオーク編集部編)
黄金帝国の謎(文春文庫ビジュアル版 森本哲郎編)
略奪された文明(NEWTONアーキオ 監修主幹吉村作治)
埋もれた古代文明の謎(東京書籍 吉村作治監修)