ハラッパー

パキスタン中部に位置するハラッパー
モヘンジョダロと並ぶインダス文明の都市遺跡です。
破壊が進んだ遺跡は不思議に満ちています。
2015年1月訪問

写真は城砦部


ハラッパーはモヘンジョダロと並ぶインダス文明を代表する都市遺跡です。インダス文明は紀元前2600年ころから紀元前1700年ころまで続いた文明で、エジプト・メソポタミア・黄河と並ぶ四大文明の一つ。紀元前2350年ころから紀元前1800年ころが最盛期と言われます。

ハラッパーとは「食べられちゃった」との意味。近くを流れるインダス川の支流ラヴィー川の氾濫を受けたことに由来する名です。パキスタンの東部パンジャーブ州に属し、ムルターンの北東約140q、ラホールの南西約200qのところに位置します。パキスタン南部のモヘンジョダロからは約600q離れていますが、かってはインダス川を利用した水上交通路があったと考えられています。600qというのは東京・大阪間の距離とほぼ同じ。インダス文明圏は凄い広範囲ですね。

ムルターンの町から車で3時間ほど。ラホール・カラチ間を結ぶ線路を越えます。
実は、この線路の下にハラッパー遺跡の焼煉瓦が使われています。


 ハラッパー遺跡の存在は古くから知られていて、既に19世紀には発掘も行われました。しかし、当時の西洋人はインド亜大陸にメソポタミアやエジプトのような古代文明があったと想像することもできなかったようで、その重要性は認識されず、ラホール・カラチ間を結ぶ鉄道工事に遺跡から掘り出された焼煉瓦が使用されてしまったのです。その結果、遺跡の大半は修復不可能なほどに破壊されてしまいました。このため、「ハラッパーは原っぱ」と皮肉を言う人もいるようです。それでもインダス文明第二の都市。最近も発掘は続いているそうですし、やはり見てみたい。

線路を横切ると、間もなく遺跡入口。


遺跡入口には小さな博物館。


パキスタンの博物館は撮影禁止のところがほとんどで、ここも内部を撮影することはできませんでした。この博物館にはハラッパー遺跡からの出土品が展示されていますが、その中でも見逃せないのが、遺跡から発見された男女の人骨。モヘンジョダロからは墓地は発見されていませんが、ハラッパーでは墓地が見つかっていて、そこから発見された男女が一体づつ展示されています。男女ともに生前利用していた土器等と一緒に葬られていて、女性は腕輪をしていました。どちらも若く、女性は全身の骨折状況から自然災害で亡くなったと考えられているそうです。

博物館を出て、いよいよ遺跡に向います。
遺跡の地図がありました。


ハラッパーの遺跡で発掘されているのは全体の約10%。見学できるのは上の地図の左側部分。

地図の左部分の平行四辺形の形で太く囲まれた場所が城砦部。政治・宗教の中枢だったと考えられています。かっては、城砦部は城壁で囲まれていました。
平行四辺形という形は面白いですね。インダス文明の都市は何故かこの平行四辺形をしているものが多いのだそうです。そして、城砦部以外の広大な場所が市街地です。

遺跡入口から入ってすぐのところに今は何もない場所があります。
ここは墓地。城壁の外側に位置します。



墓地から坂道を登って行くと城砦部に出ます。

城砦部

坂を登ってすぐのところに公開された遺跡がありました。
曲線を帯びた壁と井戸、排水溝が残る地区。
煉瓦の上に泥が塗ってあるのは保存のため。



この方角から見ると曲線を帯びた壁の形がよく分かります。変わった壁です。



反対側に廻って撮ってみました。


こちからだと丸い井戸や、その周囲に張り巡らされた排水溝がよく分かります。
煉瓦が四角く積まれているのは柱の跡。
井戸の近くに幾つも煉瓦が敷かれているのは「浴室」だそうです。


「浴室」と井戸、柱、排水溝。



井戸や排水溝が近くにあることを考えると、水を使った場所なのは間違いないのでしょうけれど浴室が幾つも並んでいるのは不思議です。

元々は個室みたいになってたんでしょうか。
それとも大衆浴場みたいな感じ??

現地ガイドさんは「ホテルだったのかも」と言ってましたが、むしろ何らかの水を使った儀式を行った場所なんじゃないでしょうか。

それにしても、どんな構造の建物だったのか・・・

残っている柱の跡からすると、結構大きな建物だった気がします。

そして、曲線を帯びた壁。

この曲線を帯びた壁の両側に排水溝が走っているのも、何かの意味がありそうだし・・・。

なんとも不思議な構造です。

インダス文明は謎の文明ですが、ハラッパーでは煉瓦の多くが持ち去られ、建物本来の姿が分かりにくくなっているので、一層、謎が深まっている気がします。


少し先に進むと見事な排水溝が残っていました。

中央付近の丸いのは井戸。
その先の半円状のものはゴミ捨て場。
 
 排水溝をアップで撮ってみました。
排水溝の上を煉瓦が左右から覆っています。


ここは城砦部の上流階級の居住地だったと考えられているそうです。
少し高い所から撮ってみましたが・・・



う〜〜ん。やっぱり、よく分からない。
やはり多くの煉瓦が持ち去られてしまったのが痛いです。
かってはモヘンジョダロのように高い壁が造られていたのでしょうけれど・・・
ほとんど基礎部分しか残っていないので往時の姿を想像するのも難しい。


城砦部の観光は以上で終わり。次は市街地を目指して、しばらく遊歩道を歩くことになります。実はハラッパーは遺跡の中に人が住んでいます。観光用の遊歩道は村人の生活道路でもあり、歩いて行くとバイクの兄ちゃんとすれ違ったり、村人のお墓が見えたりします。遺跡発見の前から、ここでは人々が暮らしてきたんだとか。鉄道工事のずっと前から、住み着いた人たちが遺跡の煉瓦を使って家を建てたり、お墓を造ったり、モスクや聖者廟を建てたりしていたそうです。ハラッパーでは現在も発掘が続いていますが、人々が暮らしていることから発掘が難しいとのことでした。

坂の上に見えるのは15世紀の聖者廟
 
 16世紀、ムガール時代のモスク

聖者廟やモスクは城砦部の中でも小高いところにあります。
きっと下に何か埋まってるんだろうなあ・・・。



市街地

モスクを過ぎて坂を下ると城砦部の北に位置する市街地に出ます。
少し歩くと発掘された場所に出ました。
市街地の職人街だそうです。ここでインダス式印章が発見されたとのことでした。



しかし、ここも街並みを想像するのも難しい・・・。

気が付けば、遺跡の中で農作業。


鉄道工事で破壊が進んだ遺跡ですが、現在進行形でも破壊されてるんじゃないでしょうか・・・。
写真撮ってたら、脇を子供たちが遺跡に駆け降りて行きました。遊び場所になってるようです。


すぐそばで放牧されていたラクダたち
   



近くに面白い場所がありました。
煉瓦で造られた円形の壇のようなものが幾つも並び、奥の方には屋根で保護された場所があります。



現地ガイドさんは「貿易をした場所」と説明しましたが、
日本の本を見てみると「労働者階級の居住地」となっています。

何故説が異なるのか。原因は左の写真の円形の煉瓦にあります。

この円形に組まれた煉瓦。真ん中だけ煉瓦が組まれていません。

かっては、これは脱穀場で、ここに麦を打ち付けて脱穀していたと考えられていました。

ところが、その後、実はこの円形の台の一つずつが屋根の付いた建物の内部にあることが分かり、屋外施設である脱穀場ではない、ということになったのです。

では何か、となると様々な説があるようで、現地ガイドさんは「この円形の真ん中に人が座り、周囲に商品を並べて売ったのだ」という商店説。売ってるところを想像するとちょっとカワイイ。

日本の本は「染色場」説を採用していました。インダス文明は世界で初めて木綿を作った文明であり、染色もされていたといいます。染色作業だとすると、やっぱり屋根が必要だったのか・・・

結局、結論としては「実は何か分からない場所」なのですが、いかにも謎の文明らしくて楽しいですね。


この円形の壇は幾つも並んでいます。


この区域はハラッパー遺跡の見どころの一つでしょう。上の円形に組まれた煉瓦だけでなく、興味深いもが幾つもあります。屋根で保護されているのは金属を溶かすための溶鉱炉だそうです。
その周囲の煉瓦は変わった形に組まれていて、かってはどんな姿だったのか・・・。現地ガイドさんは「お店の倉庫」と言っていたけれど、なんなんでしょうね。

溶鉱炉
 
 変わった形。住居にしては小さい。


溶鉱炉の周辺
 
 ここも面白い形に煉瓦が組まれていました。


ここには年代が刻印された焼煉瓦が置かれていました。

遺跡を修復・復元するために新しく焼いた煉瓦には右の写真のように何年のものか分かるようにしてあるんだそうです。

右の写真は「1996年」製のもの。

こうやってオリジナルとの区別を図っているのだそうです。
オリジナルの煉瓦を鉄道の下から剥がして持ち帰っても復元はできないし・・・。きっと随分多くの煉瓦がこれからも必要になるんでしょう。



穀物倉

少し離れたところに「穀物倉」があります。
上の区画よりも低い所にあって、上から全体を見渡せます。
真ん中に道があり(手前で曲がっていますが)、両側に大きな建物。




道を挟んで建物が整然と並んでいるのが分かるでしょうか。

写真の右側に道があります。
同じ大きさの建物が整然と並びます。
 
 横から撮ってみました。
中央付近の道を挟んで同じような建物


下に降りて近くから見てみました。
日本の本には床下に通風施設を備えていたと書かれていますが・・・
   

実はハラッパーの穀物倉もモヘンジョダロの穀物倉も、一粒の穀物も発見されていないそうです。
ですから、本当に「穀物倉」だったかは謎。


以上、遺跡見学だけで、ざっと2時間弱かかりました。



博物館で見るインダス文明

最後に各地の博物館で見たインダス文明を紹介。
パキスタンの博物館は写真撮影禁止が多いのですが
写真が撮影できる野外展示やラホール博物館の展示品を紹介します。

インダス文明の宗教

インダス文明の宗教は具体的には分かっていません。
有名な神官王像も、実際に神官だったのかは不明です。
ただ面白いのは牛の角のようなものを付けた人物像が印章に彫られていることが多いこと。
神官王像も頭の後ろが鋭角に削られていて、かっては角を着けていたとも考えられています。
後のシヴァ神や聖牛信仰ともつながるものかもしれません。

神官王像(モヘンジョダロ博物館)
 
 印章のレプリカ(モヘンジョダロ博物館)

また、神官王像の服の模様も興味深い。かっては彩色されていたという説もあります。
インダス文明で染色が行われていたということの根拠のひとつにもなっています。
なお、神官王像のオリジナルがどこにあるかについては諸説あり
どこかの金庫という説もありますが、カラチ博物館は「うちのがオリジナル」と言っています。


女性たち

有名な踊り子像は腕に30もの腕輪をしています。
数多く発見されている地母神はいずれも多くのネックレスを付けて華麗に装っています。
きっとインダス文明の女性たちは思い思いに着飾っていたんでしょうね。
テラコッタの地母神像が着けている扇のような頭飾り?は数多く見られます。

踊り子像(モヘンジョダロ遺跡拡大レプリカ)
 
 テラコッタの地母神像(モヘンジョダロ博物館)

インダス文明を代表する交易品の中に「紅玉髄」というものがあります。
博物館で見ましたが、美しい赤い石で白い模様が付けられました。
写真に撮れなかったのが残念ですが、女性たちの装いは色鮮やかだったと思われます。


インダス式印章

インダス文明といえば有名なのが印章
本物はどれも小さく、きっと写真撮影が可能でも上手く撮れなかったと思います。
印章の図柄は、とても個性的で彫りが素晴らしい。
モヘンジョダロ博物館の壁面を飾っていたレプリカ(拡大されたもの)を紹介します。

 こぶ牛
 象

印章に彫られているインダス文字も魅力的。いつか解読されるのか・・・。


おもちゃ

ラホール博物館に展示されていた牛車のおもちゃ(レプリカ)
インダス文明では既に車輪が発見されていました。
牛車の姿は今も見かける姿と余り変わりはありません。
 


他にも遺跡からはインダスの人々の生活を楽しませていた様々な品々が発掘されています。
ラホール博物館に、そのレプリカが展示されていました。

ゲーム板のようです。チェス?
 
鳥笛
 
 牛??かわいい。


謎の文明、インダス文明
当時の人々は生活を楽しんでいた気がします。


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参考文献

インダス文明 インド文化の源流をなすもの(NHKブックス)
四大文明 インダス(NHK出版)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。