リスボン・ベレン地区

テージョ川の河口に近いベレン地区
大航海時代を偲ぶのに最適の場所
マヌエル様式の世界遺産は見逃せません。
2019年4月訪問

写真はジェロニモス修道院の回廊


リスボン中心部からテージョ川沿いに西に約6q、テージョ川の河口近くに位置するベレン地区はポルトガルの大航海時代を象徴する建造物をいくつも見ることができる場所です。

ポルトガルはイベリア半島の南西に位置し、北も東もスペインに囲まれています。このため、活路をアフリカ・外洋に求め、1415年にジョアン1世が北アフリカのセウタを攻略して海外進出を開始します。大航海時代の始まりです。

ジョアン1世の三男であるエンリケはセウタ攻略で活躍し、インドの香辛料獲得と伝説のキリスト教国プレステ・ジョアンを探すために西アフリカ航路の開拓に努め、エンリケ航海王子と呼ばれました。
王子は1460年に亡くなりますが、1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、1495年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドのカルカッタに到着し、ついにインド航路が開拓されます。大航海時代にポルトガルは海洋貿易で巨万の富を手に入れ、ジェロニモス修道院やベレンの塔などの美しい建造物を建設しました。

エンリケ航海王子の没後500年にあたる1960年、修道院の近くに大航海時代を記念する発見のモニュメントが建てられています。


ベレンの塔



ベレンの塔は大航海時代のポルトガル黄金期の王マヌエル1世がテージョ川を行き交う船を監視し、河口を守る要塞として建設した建物です。

1515年に着工し、1520年に完成しました。
正式名はサン・ヴィセンテの塔と言います。

元々は要塞というのが信じられないほど美しい建物です。司馬遼太郎が「テージョ川の貴婦人」と讃えたとのことですが、確かに白いドレスの貴婦人のようです。

マヌエル1世はこの塔だけでなくジェロニモス修道院も建設しており、両者はマヌエル様式の代表作として世界遺産となっています。
マヌエル様式というのは船のロープの結び目や天球儀などの船に関する装飾や大航海時代に人々が目にした異国の植物や動物で飾られた様式のこと。

とはいえ要塞だけにテラスの下の四角い窓の奥には大砲が置かれ、更にその下は水牢になっていたそうです。
テラスの上は4階建て。時間の関係で内部の見学はできなかったのですが、テラスに面した建物の壁には船乗りが航海の無事を祈った美しい聖母マリア像が置かれているそうです。

ベレンの塔から発見のモニュメントまでは車だと数分。

発見のモニュメント

1960年にエンリケ航海王子没後500年を記念してテージョ川のほとりに建設された発見のモニュメント。
帆船をモチーフとした高さ52mの巨大モニュメントです。

記念碑には大航海時代を支えた偉人達の像が彫られていて、その先頭はカラベル船を手にしたエンリケ航海王子。カラベル船は小型の帆船で探検家に愛用されたのだそうです。

そして、テージョ川に向かって左側の側面にはインド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマや西回りの世界一周を達成したマゼラン、喜望峰を発見したバルトロメウ・ディアス、更には日本でお馴染みのフランシスコ・ザビエルなど実際に海外に乗り出していった人物が彫られています。

危険な海に彼らが乗り出していったのは、プレステ・ジョアンを探すという宗教的情熱と、高価な香辛料を獲得したいという経済的欲求。
冷蔵技術がなかった当時、抗菌・防腐・防虫に優れた香辛料は料理に不可欠のものでしたが、ヨーロッパとインドの間には強大なオスマン帝国があって香辛料交易が独占されていたため、地中海の端のポルトガルは独自の航路獲得の必要があったのです。

海に乗り出していった偉人の方々


先頭、一番左がエンリケ航海王子。 エンリケ航海王子の右に座るのがアフォンソ5世。エンリケ航海王子の兄の子でアフリカ王と呼ばれる王です。左から3人目がインド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマ。左から5人目の丸い輪のようなものを持つのが西回りの世界一周を果たしたマゼラン。

左から2番目が喜望峰を発見した
バルトロメウ・ディアス
 
 右から2番目、膝をつき合掌する
フランシスコ・ザビエル

世界史の教科書に出てくる有名な人々を従えるように先頭に立つエンリケ航海王子


実はエンリケ航海王子は自ら航海に出ることはなく(船酔いに弱かったという噂)、探検家を援助・指導するパトロン的存在だったそうです。

また、航海学校を建てて航海士を養成したり、天文台の建設、コンパスの改良や帆船の開発を行いました。

しかし、エンリケ航海王子の業績として忘れてはならないことは、当時、世界の果てと信じられていたアフリカのボハドル岬(カナリア諸島の200q南)に到達したことなのだそうです。
今では誰もが世界地図を知っていて、アフリカ大陸の形も分かっていますが、当時はボハドル岬の先には煮えたぎる海が広がっていると信じられており、船乗りの恐怖心は絶大なものでした。しかし、エンリケ航海王子が探検隊を送り、この迷信を打破したことで、船乗りがボハドル岬の南に船をだすことを躊躇しなくなり、そこで初めてボハドル岬の先への探検が可能になったんだそうです。

煮えたぎる海といった迷信がはびこり、地図のない時代に海に乗り出していった彼らの冒険心には凄いという言葉しかありません。

反対側の右側の側面には実際には海外には乗り出さなかったものの、大航海時代を文化面で支えた人達が彫られています。

正直、余り日本人には知られていない人たちばかりなのですが、現地ガイドさんがこの3人だけは覚えてね、と紹介してくれたのが、画家のヌーノ・ゴンサルヴェス、詩人のルイス・デ・カモンイス、そしてフィリパ王妃。

画家のヌーノ・ゴンサルヴェスはアフォンソ5世の宮廷画家でリスボン派の巨匠。国立古美術館に収められている聖ヴィセンテの衝立はアフォンソ5世やエンリケ航海王子などの王家の人々を描いたものとして有名です。

ルイス・デ・カモンイスはポルトガルを代表する大詩人。大航海時代の航海士たちの活躍を格調高く謳い上げました。ロカ岬には「ここに地果て、海始まる」という彼の詩の一節が刻まれています。
現地ガイドさん曰く、命日(6月10日)が国民の祝日になるほどの大詩人。

そして紅一点のフィリパ王妃はエンリケ航海王子の母。確かに、彼女がいなければ大航海時代は始まらなかったかもしれない。

 紅一点のフィリパ王妃
イングランド王子ランカスター公の娘とのこと
 丸いパレットを持つのが画家ゴンサルヴェス
詩を書いた細長い羊皮紙を持つのがカモンイス

フィリパ王妃はセウタ攻略の際には死の床にあり、
出征する王子達に刀を渡し、「勇ましく戦っておいで」って送り出したんですって・・


テージョ川に漕ぎ出す船のような発見のモニュメント。後方に見えるのは4月25日橋。



発見のモニュメント前の広場には世界地図が描かれていて、ポルトガルの到着年が記されています。
日本到着は1541年とされているけど、実際は1541年は日本に「漂着」した年。



発見のモニュメントは屋上に昇ることができます。見晴らしが素晴らしくておススメです。
道路を挟んで向かい側、公園の奥がジェロニモス修道院


ジェロニモス修道院

発見のモニュメント屋上から見たジェロニモス修道院全景


ジェロニモス修道院は16世紀に建てられた東棟と19世紀に増築された西棟からなります。
上の写真の右側部分が16世紀の東棟で、左側部分の赤い屋根の長い建物が西棟です。

下の写真は東棟部分を撮ったもの。写真左端のアーチ付近に人が沢山いますが、ここが現在の入口。
アーチを入ると右手に19世紀の増築時に壁に覆われた西門があります。


マヌエル様式の最高傑作と言われる修道院は東棟部分。
表側がサンタ・マリア教会でその裏というか奥が修道院の回廊です。

南門

ジェロニモス修道院に向かうと、まず目に入るのが修道院に付属するサンタ・マリア教会の南門。

テージョ川に面した立派な門です。ご覧のとおり白く繊細な彫刻がレースの様で実に美しい。

ジェロニモス修道院を建設したのはベレンの塔を建設したマヌエル1世。ヴァスコ・ダ・ガマにインド航路開拓を命じた王です。

マヌエル1世はエンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業を讃えるとともに、航海の安全を祈願するためにジェロニモス修道院を建設しました。着工は1502年。マヌエル1世の時代にポルトガルはヨーロッパ最大の貿易国となり、集まった莫大な富を投入した修道院は完成までに約100年もの歳月がかかりました。修道院はマヌエル様式の最高傑作と言われています。

修道院の設計者はフランス人建築家ボイタック。多くのマヌエル様式の建物を手掛けた巨匠です。ボイタックが亡くなるとスペイン人建築家のジョアン・デ・カスティーリョが引き継ぎました。

南門の美しい彫刻はカスティーリョの手によるものだそうです。

南門上部には聖母子像と多くの聖人像


入口上部には聖ジェロニモスの生涯を描いたレリーフが彫られ
入口の中央にはエンリケ航海王子の像が置かれています。



美しい聖母子像
 
 鎧をまとったエンリケ航海王子

今は南門の扉は閉ざされています。観光の入口となっている西門に進みます。

 東棟の美しい装飾
東棟と西棟をつなぐ壁のアーチをくぐると西門

増築部分の壁に隠されて外からは見えませんが、アーチを入ると美しい西門が現れます。

西門



門上部のレリーフ
左から受胎告知・キリストの降誕・東方三博士の礼拝


門の左側にはマヌエル1世
 
 右側には王妃マリア

西門を入るとサンタ・マリア教会。西門を入らずに真っ直ぐ進むと修道院の回廊です。
実際には回廊から観光しましたが、サンタ・マリア教会から紹介します。


サンタ・マリア教会



ジェロニモス修道院に付属するサンタ・マリア教会
聖母マリアを讃える三廊式の教会です。石造りの厳かな空間。

見学者が凄く多いので、教会内部の観光は反時計回りに進むように決められていました。
入ってすぐ右手に置かれているのがポルトガルを代表する大詩人カモンイスの棺


命日が国民の祝日になっている大詩人・「ここに地果て、海始まる」って格好いい。

更に進み、上を見上げて天井の見事さに気が付きました。
柱は船乗りたちが目にしたヤシの木をモチーフにしたものだそうです。



副礼拝堂


教会の奥に向かって進むと、教会の一番奥・正面中央が中心礼拝堂となっているのですが、その手前横に副礼拝堂がありました。

ここで気が付くのが立派な棺が置かれていること。実は、中心礼拝堂と副礼拝堂にはマヌエル1世の家族の棺が集められているのです。

右の写真は副礼拝堂の棺。棺の一番上には王冠が置かれており、これは王族であることを示すもの。

そして、棺の一番下ではインド象が棺を支えています。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓により潤った王家を象徴しているのでしょう。

マヌエル1世には王とその子孫の廟を一堂に集合させたいという願いがあり、そのために修道院を建設したという説もあるそうです。

一番奥の中心礼拝堂には向かって左側にマヌエル1世と王妃マリアの棺、右側に息子のジョアン3世と王妃カタリナの棺が置かれています。

中心礼拝堂の祭壇飾り板は宮廷画家ローレンソの作。

中心礼拝堂
左側に置かれているのがマヌエル1世と王妃マリアの棺



中心礼拝堂近くで入ってきた西門方向を振り返ってみました。
聖歌隊席と光の中に浮かび上がる十字架



教会内部には金泥が施された祭壇が幾つも設けられています。
18世紀にブラジルで金が発見された時代に造られたものだそうです。
   


南門側の壁には美しいステンドグラス


このステンドグラスには聖母子像を挟んでマヌエル1世と妃マリアの婚礼の様子が描かれています。
実際の大きさとはちょっと違ってしまいますが並べてみました。

 マヌエル1世
上には聖ジェロニモス
 聖母子
聖母子の下はテージョ川
 王妃マリア
上には洗礼者ヨハネ

西門も左右にマヌエル1世と王妃マリアの像が置かれていましたが、ここでも夫妻の美しいスタンドグラス。
実はマリアは2番目の奥さん。最初の妻の妹です。
2人の王妃の両親はスペインのカトリック両王(アラゴン王フェルナンド、カスティーリャ女王イサベル1世)

赤い衣のマヌエル1世
 
 青い衣の王妃マリア

マヌエル1世はマリアとの間に10人もの子供をもうけました。仲良かったのかな。

入口近くに戻って来ました。左側に置かれたヴァスコ・ダ・ガマの棺
インド航路開拓者らしく棺中央にはカラベル船のレリーフ



この棺の中にあのヴァスコ・ダ・ガマが眠っていると思うと、ちょっと身が引きしまる思いです。

西門を出て、奥に進むとジェロニモス修道院の回廊です。

回廊

   


ジェロニモス修道院最大の見どころとされるのが中庭を取り囲む回廊。一歩足を踏み入れたとたん、余りの美しさに思わず「きれい」と声が出てしまいました。

約55m四方の回廊は、ご覧のとおり2階建て。
1階がボイタック、2階がカスティーリョの設計によるものだそうです。

石灰岩を用いて造られているとのことで、柱や壁、そして天井にも美しい装飾が過剰といえるほどに彫り込まれています。

彫られているモチーフは、エンリケ航海王子を象徴する十字、天球儀、船のロープ、サンゴ、コショウの花などのアジアやアフリカの植物や動物。正直、良く分からないものも、たくさん彫られているのですが、とにかくきれい。

マヌエル様式というのはポルトガル独自のもので他国では見られないそうです。過剰なほどに彫り込まれながら、決して品を失うことなく、ただただ美しいのは素晴らしい。マヌエル様式の最高傑作というだけでなくポルトガル建築の最高傑作と言われるのも納得です。

中庭から見た回廊


1階と2階、アーチの下の柱の数・模様の違いが絶妙なリズム感と調和を醸し出してます。

 柱もアーチの下のレリーフも美しい
 どことなく東洋風な印象

実に美しい


2階部分を見上げてみました。
   

回廊の1階部分を歩いてみました。
エンリケ航海王子の十字
 
 部屋の入口の装飾も美しい


1階の奥には修道士たちの食堂もあります。
簡素な空間ながら18世紀のアズレージョが美しい



修道士の食堂には聖ジェロニモスの肖像画も飾られています。聖ジェロニモス・・・ジェロニモス修道院の名前の由来となった聖人です。

聖ジェロニモスとは、一般的には聖ヒエロニムスとして知られています。聖ジェロニモスというのはポルトガル語での呼び方。聖ジェロニモスはマヌエル1世の守護聖人であったことから、マヌエル1世は修道院の名前をジェロニモス修道院としました。

聖ヒエロニムスは聖書をラテン語に翻訳した聖人として有名です。

また、聖ヒエロニムスの肖像にはライオンがともに描かれることが多く、この食堂の肖像画にも足元にライオンが寝ています。これは足を引きずるライオンが現れた時、他の僧は逃げたものの、聖ヒエロニムスはライオンの脚にトゲが刺さっているのに気が付き、トゲを取ってあげた・・という伝承に由来します。トゲを取ってもらったライオンは聖ヒエロニムスに懐いた・・・ということで、足元でくつろいでいるわけです。


回廊の2階部分


なかなかに厳かな空間。
回廊の2階からは教会の聖歌隊席に行くこともできました。

上から見下ろす教会内部
天井が高い
 
 中心礼拝堂
キリストの生涯を描いた飾り板


2階から見下ろした中庭



ジェロニモス修道院、実に美しかった。

出発までの僅かな時間に19世紀に増築された部分も外から見て回りました。


 東棟との連結部分(入口アーチ)近く
 西棟の一部は国立考古学博物館


ジェロニモス修道院満喫しました。実に美しい。
ベレン地区は大航海時代に思いを馳せる建造物が集まっていて、本当に見ごたえがあります。
リスボン観光・ポルトガル観光のハイライトではないでしょうか。

ベレン名物パステル・デ・ナタ(エッグ・タルト)も実に美味しかった。
元祖エッグ・タルトだけのことはあります。
シナモンパウダーをかけると一層美味しい。


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参考文献

図説ポルトガルの歴史 金七紀男著 河出書房新社ふくろうの本
21世紀世界遺産の旅 小学館
るるぶ情報版ポルトガル JTBパブリッシング

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。