ギマランイス

ポルトガル発祥の地ギマランイス
ポルトガル北西の緑豊かな町
歴史地区は中世の面影を残しています。
2019年5月訪問

写真はギマランイス城前に立つ初代王アフォンソ1世像


ポルトガル北西部の町ギマランイスはポルトガル王国の初代王アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)の生まれ故郷。このためギマランイスは「ポルトガル発祥の地」とされています。
ポルトガルはイベリア半島北西部のガリシア地方から分離独立して誕生した国です。その初期の歴史は、ガリシア地方を治めるカスティーリョ・レオン王国からの独立を賭けた戦いの歴史であり、それと並行して進められたレコンキスタでの南に領土を拡大していく戦いの歴史でもありました。

ポルトガル発祥の地ギマランイスの旧市街は中世の風情を残し、世界遺産となっています。
ポルト発のミーニョ地方(スペイン国境ミーニョ川の南側の地方)を巡るツアーでギマランイスへ。
ポルトから北に車で約1時間
ギマランイスの観光は丘の上にあるギマランイス城から始まりました。

ギマランイス城



アフォンソ・エンリケスが生まれたギマランイス城
城は10世紀に建てられたもので7つの塔を持っています。
ムーア人(イスラム教徒)からの攻撃に備えた堅牢な造り。


この城は中に入れます。
入っても城壁と塔が残っているだけなのですが、なかなか楽しい。
結構安全対策もしっかりしてます。


真ん中の塔に通じる橋も造られていました。


真ん中の塔の中は小さな博物館のようになっています。

右は塔の中に置かれていたポルトガル初代王アフォンソ・エンリケスの父アンリ・ド・ブルゴーニュと母テレサの肖像画。
父のアンリはフランスのブルゴーニュ地方の貴族。母テレサはカスティーリャ王の庶子です。

イスラム教徒により8世紀前半にイベリア半島北部に押しやられたキリスト教徒はレコンキスタにより徐々に勢力を拡大し、10世紀にはレオン王国がポルトのあるドウロ川以北を支配下に置くようになります。他にもナバラ・アラゴン・カスティーリャの各王国が競ってレコンキスタを続け、中でもカスティーリャは主筋だったレオン王国を11世紀に併合し、トレドを奪還してテージョ川以北まで勢力を広げました。

これに対し、イスラム教徒も反撃を開始。
カスティーリャ・レオン王はフランスに援軍を求め、その時フランスからやってきた貴族の一人がアンリです。

アンリは1094年にテレサと結婚し、1096年にはカスティーリャ・レオン王からイベリア半島北西部のガリシア地方のうちミーニョ川より南のドウロ川までのポルトゥカーレ伯領を譲渡され、ポルトゥカーレ伯爵となります。領土はテレサの持参金でした。

初代ポルトガル王のお父さんがフランス貴族で
お母さんがカスティーリャ・レオン王女というのは意外。

アフォンソ・エンリケスは1109年ころにギマランイス城で生まれたとされています。左は城に彫られていたアフォンソ・エンリケス。

父のアンリは1112年に亡くなり、アフォンソ・エンリケスがポルトゥカーレ伯を継ぎますが、彼が幼かったため母テレサが摂政となります。
しかし母の実家であるカスティーリャ・レオン王国ではガリシアの有力貴族がアンリに譲渡したポルトゥカーレ伯領を取り戻そうと画策し、テレサを息子と再婚させます。テレサの持参金としてアンリに渡した領土をテレサともども手に入れようということでしょうか。

母テレサはガリシア貴族たちに取り込まれていきますが、ポルトゥカーレの貴族や大司教達はガリシアの勢力が強くなることに反発し、アフォンソ・エンリケスを担いで1128年にガリシア軍を破り、テレサをガリシアに追放しました。

息子が母を追放したことになりますが、彼はポルトゥカーレ貴族の下で養育されていたため、母よりポルトゥカーレの貴族達に親近感を感じていたのだそうです。そういえばポルトのサン・ベント駅には若きエンリケスの窮地を救った養育係の貴族エガス・モニスの逸話が描かれていました。

母とともにガリシアの影響力を排除したことで
ポルトガルは独立への第一歩を踏み出すこととなります。
当時の城はどんな姿だったんでしょうね。
城壁や塔しか残っていませんが、壁の窓の部分には向かい合うベンチがありました。
見張りの兵がこのベンチに座って、敵が来ないか目を光らせていたんでしょうか
   

敵はイスラム?それともカスティーリャ・レオン?


城のすぐ近くに小さな石造りの建物があります。

サン・ミゲル教会



アフォンソ・エンリケスが洗礼を受けたと言われるサン・ミゲル教会。12世紀に建てられた教会ということなので1109年ころ生まれたエンリケスが洗礼を受けてもぎりぎりおかしくない教会です。
ロマネスク様式の小さな教会ですが、実は20世紀に再建されたもの。

内部はとっても簡素
 
 一番奥にあった石の祭壇?

12世紀だと王子様が洗礼を受ける教会でも、こんなに小さいんですね。

よく見ると床に使われた石に当時のレリーフが残ってたりします。


ちょっと坂を下れば、すぐにブラガンサ公爵館


ブラガンサ公爵館

ギマランイス城から見下ろしたブラガンサ公爵館


多くの煙突が特徴的な建物。フランス・ブルゴーニュ地方の影響が見られるそうです。
ブルゴーニュ地方と言えばアフォンソ・エンリケスの父アンリの故郷ですね。

この建物は、アヴィス朝を開いたジョアン1世の息子で、初代ブラガンサ公爵となったドン・アフォンソによって15世紀に建てられました。ポルトガル建国後随分経った時の建物です。

ジョアン1世は有名なエンリケ航海王子の父で、セウタ攻略を成功させ、大航海時代を切り開いた王です。
ジョアン1世はイネスとの悲恋で知られるペドロ1世の庶子でしたが、ペドロ1世の正妻の子フェルナンド1世の死後、王位継承問題に介入してきたカスティーリャ王国軍を破って王位に着き、アヴィス朝を開きました。
ポルトガルはカスティーリャ・レオン王国から独立した後も、カスティーリャ・レオン王国(後のスペイン)と縁組を繰り返していたため、ことあるごとに介入を受けていたようです。

ドン・アフォンソはジョアン1世の庶子。彼の子孫はポルトガルが王位継承者の不在によりスペインの支配下に入った後、1740年に再独立を果たし、ジョアン4世としてブラガンサ王朝を開きます。ここでもスペインとの因縁を感じます。

この建物はブラガンサ公爵家がこの地を離れてから廃墟となっていましたが、修復され、現在は国賓の接待等に使われているそうです。

現地ガイドさんは下の方の石組みがオリジナルで、その上は修復って言ってました。
なんとなく分かるような、分からないような・・・。

ブラガンサ公爵館の前に立つアフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)像
その後ろにはギマランイス城


1128年にアフォンソ・エンリケスは母とガリシア軍を破りましたが、この時点では未だカスティーリャ・レオン王の臣下であるポルトゥカーレ伯です。しかし、彼は次第にカスティーリャ・レオン王国からの分離独立の動きを強めていきました。

1131年、エンリケスは都をギマランイスから南のコインブラに移し、南へのレコンキスタを進めていきます。
1139年、エンリケスはテージョ川を越えてイスラム支配下に侵攻してオーリッケの戦いに勝利し、騎士達から王に選出されます。この時から、エンリケスはポルトガル王を自称することとなります。

カスティーリャ・レオン王は当初ポルトガルの独立を認めませんでしたが、1143年についにポルトガルの分離独立を認めるに至ります。ここにポルトガル王国が成立し、エンリケはアフォンソ1世と認められることとなりました。

その後、アフォンソ1世は1147年にリスボンを奪還し、1165年はアレンテージョの拠点エヴォラを征服するなど領土を拡大し続けました。

そして、1249年、アフォンソ3世の時代にポルトガル領内のレコンキスタが完了します。


緩やかな坂を下って行くと公園の前に素敵な建物。教会のようです。


お洒落な入口
 
 聖母マリアのアズレージョ(装飾タイル)

マリア様の下に描かれたポルトガル国旗
現地ガイドさんは5つの盾と7つの城に注目して欲しいと言います。

5つの盾はアフォンソ・エンリケスがオーリッケの戦いで破った5人の王
7つの城はレコンキスタの戦いの中でムーア人(イスラム教徒)から奪い返した城
ポルトガルの歴史を表わした旗なんですね。

教会の先、道を渡って細い通りに入りました。

サンタ・マリア通り

14〜15世紀の建物が並ぶサンタ・マリア通り
   

石畳の道にはサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路であることを示すホタテのレリーフ
サンティアゴ・デ・コンポステーラは現在スペイン・ガリシアの州都となっていますが
ギマンライスのあるミーニョ地方はガリシア地方から独立したわけですから元々は同じ一つの地方
サンティアゴ・デ・コンポステーラとギマランイスは実はとっても近いのです。

石畳に彫られたホタテ
 
 通りに面して置かれたキリスト像


通りに面した市庁舎もお洒落



市庁舎の先も通りは続きます。道の左右の建物が繋がったりしてます。
   


お土産屋さんには可愛い最後の晩餐
ハンカチはミーニョ地方の恋文ハンカチ。愛の言葉を刺繍して恋人に贈るのだそうです。



お花を飾っている家が多い。本当に風情のある通り。
   


細い通りを抜けると明るい広場

オリベイラ広場



広場に面した建物は旧市庁舎。1階では土曜市が開かれていました。

 赤い壁が印象的な旧市庁舎
 ギマランイスの守護聖人でしょうか

広場の周囲にも14〜15世紀の建物が残っているそうです。

広場の東側に建つノッサ・セニョール・ダ・オリベイラ教会


教会の前のアーチは1340年のサラードの戦いでアフォンソ4世がイスラムを破ったことを記念して1342年に建てれらた戦勝記念碑。このアーチが完成した時に教会の前にあったオリーブの木が突然葉を出したことから、教会はオリーブの木の聖母教会(ノッサ・セニョール・ダ・オリベイラ教会)と名付けられたのだそうです。伝説のオリーブの木は今も広場のアーチ近くにあります。



ポルトガルのレコンキスタは1249年、アフォンソ3世の時代に完了したということですが
その後もイスラムとの戦いは続いていたんですね・・・


教会とアーチ
 
 記念碑はやはり十字架

教会は14〜15世紀に改修され、13世紀の回廊が残っているので
おそらく13世紀以前に創建されたものだとは思うのですが、確認し損ないました。

教会のファサード



教会内部
教会はロマネスク様式とゴシック様式が混在してるということですが
内部は中世を感じさせる簡素な造り。



教会から回廊に出ることができます。



13世紀ロマネスク様式の回廊
   

中世・・・って感じ。良いなあ。

回廊は教会の修道院を利用した美術館に繋がっていました。
あれ、綺麗な建物に出た、どうなってるの?とドアを開けたら道に出ました。

アルベルト・サンパイオ美術館


教会〜回廊〜アルベルト・サンパイオ美術館は繋がっているようです。
上の写真中央、人がいるあたりを曲がればオリベイラ広場です。
広場に戻ってぶらぶらしました。



ツアーの再集合場所は歴史地区を抜けた先の公園でした。
噴水の先は2つの塔を持つ教会まで綺麗な植え込みが続いていました。
そして教会の裏に広がる小高い丘はペーニャ自然公園。緑豊かな街です。



教会のそばに歴史地区の地図があったので歩いたルートを黄色で書いてみました。
地図の右上のお城から地図の右下まで歩いたことになります。


歴史地区は南北約850m、東西約250m。
中世の雰囲気はなんともいえず素敵。


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参考文献

図説ポルトガルの歴史 金七紀男著 河出書房新社ふくろうの本
21世紀世界遺産の旅 小学館

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。