ポルト歴史地区

ポルトガル第2の街ポルト
海洋貿易の中心地だった街
歴史地区の見どころを紹介
2019年5月訪問

写真はアズレージョが見事なサン・ベント駅


ポルトガル第2の街ポルトはポルト歴史地区として1996年に世界遺産に登録されています。世界遺産に登録された箇所は実に多く、2016年にはドン・ルイス橋等も追加登録されていますが、最初に登録された箇所のうち、ゆっくり観光できたアズレージョが見事なサン・ベント駅、金泥装飾が素晴らしいサン・フランシスコ教会、アルハンブラ宮殿を模したアラブの間などが見事なボルサ宮、そして中世に建てられたカテドラルをまとめてみました。

サン・ベント駅



20世紀初頭に建設されたサン・ベント駅。修道院の跡地に建設された鉄道の駅ですが、その豪華さはまるで宮殿のようです。

今も駅舎として利用されている構内にはポルトガルの歴史を物語るシーンやポルトの農作業風景や祭礼などの風俗、そして最上段にはポルトガルの交通の歴史がいずれも見事なアズレージョ(装飾タイル)で描かれています。

右の写真はポルトの農作業風景。

ガイドブックなどには使用されたタイルを約2万枚と書いてあることが多いようですが、現地ガイドさんは約4万枚と言っていました。どちらが本当かは分かりませんが、いずれにせよ、凄い豪華さです。

アズレージョはイスラム文化の影響を受けてポルトガルで独自に発展した装飾タイルで、ポルトガルでは建物の外壁や内壁に使われます。時代ごとに様式は異なりますが、17〜18世紀ころからは藍の染付が流行しました。日本や中国の陶磁器の影響もあるそうです。

サン・ベント駅のアズレージョは1930年にジョルジュ・コラコによって製作されました。

祭礼の様子


風俗も興味深いですが、ポルトガルの歴史を描いたアズレージョは迫力満点

ポルトガルの独立を描いたアズレージョ



これは独立前のシーン。上座に座るのはカスティーリャ・レオン王。


ポルトガルの歴史はカスティーリャ・レオン王国から独立することで始まります。アフォンソ・エンリケスはドウロ川の北に位置するギマランイスで独立を目指しますが、カスティーリャ・レオン軍に城を包囲され、窮地に陥ります。その際、エンリケスの養育係だった貴族のエガス・モニスはカスティーリャ・レオン王に面会し、エンリケスに臣下の礼を取らせること誓って兵を引かせました。しかし、その後もエンリケスは独立を目指したため、エガス・モニスは自らカスティーリャ・レオン王の元に家族を連れて出向き、誓いを守れなかったことを謝罪します。家族全員の死罪を覚悟してのことでしたが、カスティーリャ・レオン王はエガス・モニスの勇気を讃え、彼らを解放したのだとか。

カスティーリャ・レオン王、良い人ですね。
でも、その後もエンリケスはカスティーリャ・レオン王国と争いを続けます。
1140年のアルコス・デ・ヴァルデヴェスの激戦


この戦いの3年後の1143年、ポルトガルは独立し、エンリケスはアフォンソ1世となります。

カスティーリャ・レオン王国との戦いを描いた壁の対面には、
1387年にジョアン1世が婚礼のためポルトに入城した場面と
王の三男であるエンリケ王子のセウタ攻略の場面が描かれています。

ジョアン1世はポルトガルが海洋王国となる道を拓いた人物です。前王の死後、王位継承者を巡ってカスティーリャが介入しますが、前王の異母弟だったジョアンはイギリスと結んでカスティーリャを破り、アヴィス朝を開きます。

ジョアン1世はイギリスのランカスター王女フィリパと結婚し、ポルトのカテドラルで結婚式を挙げました。両者の三男であるエンリケはアフリカ・モロッコのセウタ攻略で活躍し、多くの探検家を支援するとともに航海技術の改良に努めたことからエンリケ航海王子と呼ばれます。

イベリア半島の南西に位置するポルトガルは北と東をスペインで囲まれているため進出する場所は南・アフリカしか残されていません。そこで、ジョアン1世はイスラムの支配下にあった交易港で、アフリカの物品が集まる重要な場所セウタを攻略することとしたのです。

1415年、エンリケ王子が指揮するセウタ攻略の船はポルトの港から出航します。ポルトの人々は、これを支援し、自分たちの食料である肉を全て王子の船に提供し、自分たちは残った臓物を食べて飢えをしのいだのだそうです。
そして、王子は僅か1日でセウタを落とし、ポルトガルの大航海時代が始まります。

馬上のジョアン1世と後ろに従うフィリパ王妃
 
 セウタ攻略を指揮するエンリケ王子

ポルトの人たちは、贓物を食べて飢えをしのぎながらセウタ攻略を支援したことを誇りとし、
自分たちを「トリペイロ(贓物を食べる人)」と呼ぶだけでなく、
今でもモツの煮込み料理が有名な郷土料理として愛されているのだそうです。


ここでポルトの見どころの位置関係を確認
ポルトもリスボン同様に丘の多い街でサン・ベント駅はすり鉢の底にあります。
写真の右側の建物がサン・ベント駅。正面のアズレージョが綺麗な青い建物がコングレガドス教会。
教会の前を左に進めばポルトガルで一番高い75mの塔のあるクレリゴス教会。


サン・ベント駅を背にして正面坂の上にあるのがカテドラル
下の写真、カテドラル方向に更に左に進むとドン・ルイス橋に出ます。
手前の道を横に折れ、右に進むとドウロ川沿いレストランが並ぶカイス・ダ・リベイラ。


カテドラルに向かわず手前のモウジーニョ・ダ・シルヴェイラ通りかフローレンス通りを右へ。
ドウロ川方向に10〜15分ほど進むとエンリケ航海王子広場に出ます。

エンリケ航海王子広場

エンリケ航海王子の像の背後に位置するのは
サン・フランシスコ教会とポルサ宮。


ドウロ川方向を指し示すエンリケ航海王子の像が置かれているエンリケ航海王子広場。

ジョアン1世の三男であったエンリケ王子は即位することはありませんでしたが、インドの香辛料獲得と伝説のキリスト教国プレステ・ジョアンを探すために西アフリカ航路の開拓に努めました。

王子は1460年に亡くなりますが、王子の遺志はその後の王や探検家に引き継がれます。
そして1488年にバルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、1495年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドのカルカッタに到着し、ついにインド航路が開拓されます。ヨーロッパとアジアの間に位置するオスマン帝国を介することなくインドとの直接交易の道を拓いたポルトガルは海洋貿易で巨万の富を手に入れ、黄金時代を迎えます。

日本の教科書にも登場するエンリケ航海王子は本国ポルトガルでは大英雄です。

このエンリケ航海王子広場に面して金泥細工が見事なサン・フランシスコ教会と、スペインのアルハンブラ宮殿を模したボルサ宮が並んで建っていてポルト歴史地区の見どころのひとつになっています。

エンリケ航海王子広場からドウロ川沿いのカイス・ダ・リベイラまでは5分ほど。
ツアーでドウロ川クルーズを楽しんだ後、広場まで戻ってじっくり観光しました。


サン・フランシスコ教会

エンリケ航海王子広場に面するサン・フランシスコ教会。入口は左手にあるというので、観光客の集団の後を付いて行ったら、チケット売りに辿り着きました。

チケットは教会に付属する美術館の入口で売っています(美術館と共通)。チケット売りからサン・フランシスコ教会を見上げたのが左の写真。

サン・フランシスコ教会は14世紀にゴシック様式で建てられた教会で、後にバロック様式に改装されました。教会内部のターリャ・ドゥラーダと呼ばれる金泥細工のバロック装飾で有名です。

15世紀に始まる大航海時代で16世紀に黄金時代を迎えたポルトガルですが、16世紀後半に皇太子のないまま王が死去したことからスペインに併合されてしまいます。スペインによる60年の支配の後、1640年に再独立を果たしますが国力は衰えてしまっていました。

しかし、それから間もなく植民地ブラジルで黄金が発見され、ポルトガルは再び黄金時代を迎えます。
外国貿易で富を得た商人達は信仰心を示すため寄進し、黄金を贅沢に使って教会を飾り立てました。

教会内部
天井も壁も柱も黄金の装飾で埋め尽くされています。


教会は正面に主礼拝堂が位置し、その左右にいくつもの礼拝堂が並ぶという構造をしています。主礼拝堂も礼拝堂も全てターリャ・ドゥラーダで過剰なまでに飾られ、まばゆいばかり。「黄金の洞窟」と表現した本がありましたが、まさにそんな印象。ターリャ・ドゥラーダは木彫に金を惜しみなく塗り込めたもの。金泥細工のバロック装飾はポルトガル・バロックの特徴とされています。

特に有名なのが、主祭壇に向かって左側2番目の礼拝堂を飾る「ジェッセの家系樹」。ユダ王国の王からイエスにつながる家系図を木の形で表現したものです。中心には聖母子像、その左右には聖母マリアの両親である聖アンナと聖ヨアキムが置かれていますが、聖母子像の下にはダビデの父イサクから伸びた木の枝にユダ王国の王達が彫られ、その一番上、聖母子像の手前の一段低いところに聖ヨセフが置かれています。

   

この教会内部、他の観光客がみんな写真撮りまくっていたので単にフラッシュ禁止なのかと思って撮っていたら、しばらくして写真撮影禁止と言われました。余り厳しい感じではなく、その後に入ってきた観光客が写真撮りまくっていても文句は言われてなかったけど、さすがに注意された時点で撮影は中止して、お詫びの意味を込めて高い方の絵葉書を買いました。絵葉書、全てが金ぴかでピカピカしてます。絵葉書を買ったら受付のおじさんに日本語でアリガトって言われました。

ここからは絵葉書で紹介

天井の美しい装飾
 
 主礼拝堂

左右に並ぶ礼拝堂はそれぞれ独自の個性を発揮しています。その中から2つを紹介。
帰国後調べたら、右下の礼拝堂の祭壇上部には日本での殉教の様子が描かれているそうです。
   


隣接する美術館も見て回りました。こちらは写真撮影自由みたいです。

 美術館内部の美しい教会
 美しい聖母マリア

金や銀の豪華な品々
   

金泥細工で飾られた部屋



教会のバルコニーからはドウロ川が見下ろせます。
そういえばドウロ川クルーズの時も教会が見えました。



ボルサ宮

サン・フランシスコ教会の隣に立つボルサ宮。

ボルサ宮という名前からは宮殿かと思いますが実は「ボルサ」とは証券取引のこと。

ボルサ宮が建っている場所は、元々はサン・フランシスコ教会の修道院が建っていた場所でした。その修道院が火災で焼失したことから1834年にポルト商業組合の建物として建設されたのが現在のボルサ宮です。

最近まで証券取引所として利用されていたというボルサ宮は現在も様々なイベントで利用されているようです。私が訪れた時も中庭でのイベントが準備されていました。

ボルサ宮の観光は、英語・ポルトガル語のガイドツアーが時間を決めて始まります。行ったときは前のツアーが始まった後で45分くらい後に来るように言われました。近くでお茶してからツアーに参加しました。

ツアーガイドに従っての観光となったのですが、私の英語能力の問題だけでなく、英語ガイドの英語もかなり分かりにくく、単語でなんとなく部屋の特徴が分かる程度でしたが、ともかく見事な部屋が続くので飽きません。

ポルサ宮入ってすぐの天井。


まるで宮殿のようです。ポルトの商業組合って凄いお金持ちだったんですねえ。

法廷の間


50年ほど前まで実際に裁判をしていたそうです。

次々と豪華な部屋が現れます。
   


最大の見どころはスペインのアルハンブラ宮殿を模したというアラブの間

アラブの間入口
 
 美しいアラベスク模様のドアガラス

中に入るとため息がでるほどの美しさ


部屋の入口付近からしか見学できないので近くに寄れないのが残念ですが
天井・壁・柱…全て美しいアラベスク模様で埋め尽くされています。


アルハンブラ宮殿を見た当時の市長が同じような部屋が欲しい!ってことで
18年もの歳月をかけて建てられた部屋なのだそうです。

白と金が印象的。ステンドグラスも美しい。
 

天井も美しい


幾つもあるドア付近は特に装飾が見事なように感じられました。
   

ボルサ宮、素晴らしかった。
アラブの間の美しさには、ただただうっとり。

帰国後調べたらボルサ宮は写真撮影禁止だったというブログ等が多くて驚きました。
ツアーガイドからは撮影禁止との注意はなく、参加したツアー客はみんな写真撮りまくっていました。
方針が変わったのか、単にラッキーだったのかは不明ですが。


エンリケ航海王子の家



エンリケ航海王子広場からドウロ川沿いのカイス・ダ・リベイラへの途中
エンリケ航海王子が生まれたとされる建物があり、現在は博物館になっています。

次はカテドラルに行こうと地図を見ると近道もあるみたいでしたが
道に迷うのも嫌だったので一旦サン・ベント駅に戻って向かうことにしました。

カテドラル

サン・ベント駅から坂道を5分くらい登るとカテドラルに着きます。


入口はカテドラルの正面方向というので回り込みました。
アズレージョで飾られた外廊が美しい。



カテドラル正面
カテドラルの前には罪人を見せしめのため吊り下げたというペロリーニョ


カテドラルは12世紀に建てられたポルトで最も古い建造物です。ロマネスク様式の建物で、要塞としても用いられていたようです。正面のファサードは初期に建てられた部分。二つの四角い塔を備え、ロマネスク様式のバラ窓が印象的。その後、ゴシック様式やバロック様式による増改築が繰り返されたため、様々な建築様式を見ることができます。1387年2月2日、アヴィス朝を開いたジョアン1世はこのカテドラルでイギリスのランカスター王女フィリパと結婚式を挙げました。

中に入ると中世の世界
ロマネスク様式の天井
 
 奥に進むと横には金襴豪華な礼拝堂。
後に増築された部分なのでしょう。

更に奥に進めば
厳かな主祭壇



礼拝堂を出ると14世紀から15世紀にかけて建築されたゴシック様式の回廊


回廊は美しいアズレージョで飾られています。
   


回廊は上に登ることもできました。上にも美しいアズレージョ。上から中庭を覗くこともできます。
   


多くの見どころを歩いて回れる小さな街です。
サン・ベント駅を起点に観光すると迷いません。


ポルトガルの遺跡に戻る

イベリア半島の遺跡に戻る




参考文献

図説ポルトガルの歴史 金七紀男著 河出書房新社ふくろうの本
21世紀世界遺産の旅 小学館
るるぶ情報版ポルトガル JTBパブリッシング

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。