マドリッド

スペインの首都マドリッド
スペインの政治・経済・文化の中心であるだけでなく
世界的にも有名な美術館を有する街
2018年3月訪問

写真はマヨール広場


マドリッドは古い歴史を持つスペインにしては新しい街で、街が発展したのは1561年にフェリペ2世がマドリッドを都としてからのことです。元々マドリッドはイスラム時代にトレド防衛の前哨基地として築かれた町で、フェリペ2世が都とするまでは雉とか鹿の狩猟の場所だったそうです。現地ガイドさんはフェリペ2世は狩猟好きだったからマドリットを都としたんだと言っていましたが、おそらくはスペインのほぼ中央という場所から都に選ばれたのでしょう。

マヨール広場



マドリッドをスペインの都としたフェリペ2世はレコンキスタを完成させ、コロンブスの新大陸発見を支援したイサベル女王とフェルナンド王のひ孫にあたります。
イサベル女王の次女はハプスブルグ家に嫁ぎ、その子カルロスはハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝(カルロス5世)とスペイン王(カルロス1世)という2つの地位を相続して強大な権力を獲得しました。カルロス5世の子がフェリペ2世で、フェリペ2世の時代は新大陸からの富でスペインは黄金時代を迎えていました。つまりフェリペ2世はスペイン黄金時代の王です。

その後、一時期他の場所に都が遷ったりもしましたが、フェリペ2世の子のフェリペ3世の時代にマドリッドが首都として確定されました。フェリペ3世は支倉常長と会った王だそうです。
マヨール広場はフェリペ3世が建設した広場で、それを記念してなのでしょう、広場にはフェリペ3世の騎馬像が置かれていました。
マヨールというのは「大きい」という意味。かっては、ここで闘牛をしたり、罪人の処刑をしたりしたんだそうです。街の中心として造られた広場だったんでしょう。
18世紀末に火事があり、現在の建物は19世紀のものだそうですが、広場を取り囲む建物のうち中央部分だけ絵が描かれていて、そこはかって王宮とされたとのことでした。


プエルタ・デル・ソル


プエルタ・デル・ソルもマドリッドを象徴する広場。スペインの0q地点は、この広場に面したマドリッド自治政府庁(時計台のある建物)の正面玄関前にあります。

この広場にはカルロス3世の騎馬像が置かれていました。カルロス3世は18世紀のスペイン・ブルボン朝の王。

マドリッドを都としたフェリペ2世やマヨール広場の騎馬像があったフェリペ3世はカルロス5世(神聖ローマ皇帝としてはカルロス5世、スペイン王としてはカルロス1世)に始まるスペイン・ハプスブルグ朝の王達でしたが、スペイン・ハプスブルグ朝は度重なる近親結婚の結果、次第に病弱な子供しか生まれなくなり、フェリペ3世の孫にあたるカルロス2世で断絶してしまいます。

そのため遠縁にあたるフランス・ブルボン家のフィリップがフェリペ5世としてスペイン王となります。カルロス3世はフェリペ5世の子で、異母兄フェリペ6世の死後スペイン国王となりました。スペイン国王となる前はナポリの王で、当時のナポリはパリに次ぐヨーロッパ第二の都市で「ナポリを見て死ね」と言われるほどだったことから、マドリッドに来て余りに田舎なのを嘆き、街の近代化に励んだそうです。

スペイン国王がフランス・ブルボン家から出たことは、フランス革命後、スペインに悲劇を及ぼすこととなります。
カルロス3世の子のカルロス4世の統治下だった1807年、ナポレオンはスペインに進軍し、スペイン王家に退位を強制して自分の兄をスペイン王としてしまいます。

フランスの支配を嫌う市民は1808年5月2日、プエルタ・デル・ソルで蜂起しました。反乱はナポレオン軍によって鎮圧され、蜂起した市民は裁判を受けることもなく3日に銃殺されます。
ゴヤは、この銃殺の場面を描いています。
市民の銃殺が行われたのが、マドリッドの紋章であるクマとイチゴの木を象った像が置かれたあたり。
プエルタ・デル・ソルで始まった反乱は、その後スペイン全土に広がり、1814年にスペインは王政復古します。

このような歴史をもつプエルタ・デル・ソルですが、今では観光客と市民の憩いの場として賑わってます。特にクマとイチゴの木の像は人気の撮影スポット。日本では「ヤマモモ」の木とされることが多いようですが、現地ガイドさんは「イチゴの木(マドローニョの木)」と言ってました。おいしくないそうです。


スペイン広場



スペイン広場も観光客が訪れる定番スポット。お目当てはドン・キホーテとサンチョの像。
ドン・キホーテの後ろには作者セルバンテス像。

   


王宮

スペイン広場のすぐ近くに王宮はあります。
王宮の見学はなかったのですが、折角なので近くまで行って写真だけ撮りました。

王宮は元々9世紀にイスラム教徒が城塞を建てた場所に建っています。レコンキスタ運動によりマドリッドをカスティーリャ王国が奪還した後はカスティーリャ王国の城となり、1561年の遷都後はスペイン国王の居城となりました。

しかし、1734年、旧王宮は火災により焼失。火災の時、ベラスケスの絵画などの美術品は窓から投げて救ったのだとか。その後、フェリペ5世が新王宮の建築を始め、カルロス3世が現在の王宮を完成させました。

現地ガイドさんによると、1734年の火災はフェリペ5世が火を付けた疑惑があるとか。フランスのブルボン家出身のフェリペ5世はパリ育ちだったため、質素な王宮に耐えられず、燃やしちゃったんだとのことです。まあ、冗談なんでしょうけど、ブルボン朝の前のスペイン・ハプスブルグ朝の時代はスペインの黄金期ですが、王達は質素で財力をスペインには用いなかったのだそうです。

今の王宮は優雅なフランス風となっています。


プラド美術館

プラド美術館はスペイン王室の収集品を母体に19世紀に開館した世界有数の美術館。世界三大美術館については諸説あるものの、その一つに数えられることも多い素晴らしい美術館です。

少し美術をかじった人ならば聞いたことがある著名な画家達の作品が数多く並び、駆け足でも2〜3時間、じっくり見ようと思ったら、おそらく1日でも足りない程だと思います。
特にトレドで活躍したエル・グレコ、宮廷画家であったベラスケス、ゴヤの作品は充実していて見ごたえがあります。
ラファエロやティツィアーノ、レンブラント、ルーベンスといった巨匠の作品も見落とせませんが、北方ルネッサンスを代表するヒエロニムス・ボスやデューラーの名作を見ることができて幸せでした。

プラド美術館は写真厳禁なので、絵葉書でまとめます。ショップも充実していて、絵葉書の種類も数多いし、日本語版の本も売っていました。

右はエル・グレコの受胎告知。エル・グレコは「ギリシャ人」という意味で本名はドメニコス・テオトコプーロスというそうです。彼が生まれた当時のクレタ島はベネツィア共和国の支配下にあり、グレコもベネツィア、おそらくティツィアーノの下で修業したと考えられています。

16世紀後半、黄金時代を迎えていたフィリペ2世の宮廷画家になろうとスペインに渡りますが、王の好みには合わなかったらしく宮廷画家となる夢はかないませんでした。しかし、グレコはトレドに留まり、数多くの作品を残します。プラド美術館ではスペインに来て間もない時期から最晩年の作品までが数多く展示されていて、作風の変化を見ることができます。


ベラスケス 「女官たち」 1656年


ベラスケスはフェリペ4世の宮廷画家。この「女官たち」はベラスケスの代表作なだけでなく、プラド美術館を代表する作品と言われています。正直、本で見ていた時は「どこがそんなに凄いんだろう」って思ってました。しかし、美術館で少し離れたところから見て、まるで中心のマルガリータ王女が現実にそこにいるかのように見えることに驚きました。遠近法の素晴らしさ、絵の持つ奥行き、広い王宮に飾られることを考え尽くした絵なんですね。中心のマルガリータ王女は細かく描きこみ、王女から離れた女官はラフなタッチで描くという人間の視覚を再現した作品でもあります。

フェリペ4世はマヨール広場を建設したフェリペ3世の子。スペイン・ハプスブルグ朝は近親婚を繰り返したため、病弱な子孫が続き、この絵に描かれたマルガリータ王女の弟であるカルロス2世が子を残さず亡くなったため断絶し、スペイン・ブルボン朝が始まります。


ゴヤ 「カルロス4世の家族」 1800年


ゴヤはカルロス4世の宮廷画家。しかし、ゴヤの作品からはゴヤの個性というか性格がにじみ出ているようです。まず、この「カルロス4世の家族」では、本来なら中心にいるべきカルロス4世が横に追いやられ、中心には王妃が立っています。王妃の気が強かったから・・との説もあるそうですが、国王を中心に描かないなんて他に例はないと思います。しかも、左の青い服を着た王子の右隣の女性は顔が見えません。それだけでなく、この絵に描かれている王家の人々の数は13という不吉な数字。これはフランス革命が勃発し、王の親戚でもあるルイ16世が処刑されたのに呑気な王室の人々の将来を予感させるものだとか、13人という不吉な数字に気付かれたので、ゴヤが絵を描いている自身の姿を描きこみ(左奥)、誤魔化したとか、色々説があるそうです。

「裸のマハ」 1797年ころ


「着衣のマハ」 1797年


おそらくゴヤの作品の中で一番有名な「裸のマハ」と「着衣のマハ」。普段は着衣のマハを飾っていて後ろに裸のマハを隠していたとか、裸のマハを描いているときに裸を描いているのがばれそうになったので慌てて着衣のマハを描いて誤魔化したとか、色々な説がささやかれている絵です。2つの絵は並べて展示されているのですが、実際近くで見ると着衣のマハの筆使いは、裸のマハよりずっと粗く、急いで描いたと言われると納得してしまいます。それだけでなく、この絵、顔の位置が変です。ゴヤほどの画力がある人物が描いたにしてはおかしいので、実は元々は違う女性の顔で裸の絵からモデルがばれるとまずいので顔を描き直したとの説もあるとか・・・。

「1808年5月3日」 1814年


1808年5月3日というのはマドリッド市民がプエルタ・デル・ソルで蜂起した翌日。反乱はナポレオン軍によってあっけなく鎮圧され、蜂起に加わった市民は裁判を受けることもなく5月3日の夜に処刑されます。しかし反乱はスペイン全土に広がり、1814年にスペインは王政復古します。この絵は王政復古後間もなく描かれたもの。ナポレオン軍に処刑される市民は両手を広げ、まるで十字架に架けられたキリストのようです。白服の男はゴヤ自身がモデルとも言われています。

「黒い絵」 1820〜1823年
「我が子を食うサトゥルヌス」
 
「犬」

ゴヤは晩年、マドリッド郊外に別荘を購入し、その壁に「黒い絵」と呼ばれる14枚の壁画を描きます。ゴヤの不安や孤独を描いたものなのか・・・。もう現代美術と言って良い気がします。


ヒエロニムス・ボス(ボッシュ) 「快楽の園」 1490〜1500年


ヒエロニムス・ボスはネーデルランド出身の北方ルネッサンスを代表する画家。ボッス、ボシュ、ブッシュとも表記されます。

レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の画家ですが、その画風は独創的というか特異なもの。16世紀のスペインにおいて非常に人気があり、特にフェリペ2世は熱烈な愛好者だったということで、プラド美術館に多くの作品が収蔵されています。

「快楽の園」は高さ2mを越える三連祭壇画で左右の扉を開くと、この3つの画面が現れます。左扉は「エデンの園」と「イブの創造」、右扉は「地獄」を描いているとされますが、中央は一体何を描いたのか・・・。

プラド美術館の見学ガイドの表紙は、この快楽の園でした。ご覧のとおり、何とも不思議。このような裸の男女の不思議な場面が細かく、びっしりと描き込まれています。
鳥が池を泳ぎ、魚が地を歩き、胴体が卵の殻のようになっている男性や人を丸呑みする鳥の顔の怪物、楽器に括り付けられた人物・・・・。

シューレアリズムの先駆けというか・・・・見ていると、落ち着かなくなるけれども、魅了される不思議と言うしかない幻想世界。


アルブレヒト・デューラー
「 自画像」 1498年
 「アダム」1507年
「イブ」1507年

デューラーはドイツが誇る北方ルネッサンスの画家。ヨハネの黙示録やメランコリアの版画を若いころ展覧会で見てに魅了され、版画以外の作品を見たいと思っていたのですが夢がかないました。アダムとイブはスゥエーデンのクリスティーナ女王がフェリペ4世に贈ったもの。


ソフィア王妃芸術センター

ソフィア王妃芸術センターは現代美術を展示する美術館。プラド美術館の近くにあって、歩いて20分くらいでしょうか。18世紀に建てられた病院を改装したものと聞いていたので、お洒落なのにびっくり。こちらは新館。カフェテラスもあります。

ここではスペイン出身のピカソやミロ、ダリなどの絵が展示されていますが、何と言っても最大の見どころはピカソのゲルニカ。スペイン内戦時代にナチスドイツによってバスク地方のゲルニカという小さな町に対して行われた無差別爆撃を描いた作品です。ゲルニカに対する爆撃は史上初めて市民に対してなされた無差別爆撃・空爆であり、初めて焼夷弾が使われた空爆でもあります。小さな町の人口は7000人に満たなかったのに対し、死者の数は1000人から2000人とされています。

当時のスペインは共和国派とフランコ派による内戦の最中で、フランコ派はナチスドイツの支援を受けていました。パリで芸術活動を続けていたピカソは共和国派で、パリ万国博にスペイン共和国のパビリオンの壁画作成を依頼されていました。当初は内戦とは無関係の壁画を考えていたそうですが、ゲルニカへの無差別爆撃を知ったピカソは急遽作品を変更し、僅か1カ月で描き上げたといいます。

「ゲルニカ」 1937年 
パビリオンの壁画だけあって、とても大きな作品です。縦約3,5m、横約7,8m。


意外なことに、ゲルニカは発表当初は余り評価されなかったのだそうです。しかし、次第に反ファシスト・反戦の象徴となり、今ではピカソの代表作であるばかりか、20世紀を象徴する絵画とまで評されています。今では余りに有名な作品ですが、近くで実際に見ると迫力に圧倒されます。死んだ子を抱き泣く女、駆け寄る女、落ちる女、横たわる兵士・・・。中央の馬の姿は写真で見ると分かりにくいですが、実際に見ると馬の姿も明確です。この馬や牛が何を表わすのか、醒めた表情の牛はフランコだともスペインだとも言われていますが、ピカソは明らかにしていません。

ゲルニカの名声とは裏腹にスペイン内戦はフランコ派が勝利し、ピカソはスペインに帰れなくなり、この絵も「スペインで民主政が復活するまで」の条件でニューヨーク近代美術館に貸与されます。
1975年にフランコ将軍が亡くなってようやくゲルニカはスペインに戻され、当初はプラド美術館別館に展示され、1992年にソフィア王妃芸術センターに移されました。かっては防弾ガラスで守られ、遠くからしか鑑賞できなかったそうですが、今は間近に寄って見ることができます。

ゲルニカはもちろん、その周辺も写真撮影は禁止。
でも、ダリの絵は写真撮り放題でした。

ダリ 「偉大なるマスターベータ―」


とんでもない題名の絵です。さすがダリ。


マドリッドには他にも優れた美術館・博物館があります。いつか、行ってみたいものです。
また、街のそこかしこに19世紀のアール・ヌーボーの建築様式の建物があって街歩きも楽しい。
   


スペインでは新しい街といっても江戸・東京より古い街
実質1日の観光では、ちょっと物足りなかった。
じっくり美術館・博物館巡りとかしてみたい。


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参考文献

添乗員ヒミツの参考書魅惑のスペイン・紅山雪男著・新潮社
プロの添乗員と行くスペイン世界遺産と歴史の旅・武村陽子著・彩図社
いちばん親切な西洋美術史・池上英洋/山口清香/荒井咲紀著・新星出版社
見学ガイド プラド美術館50傑作 プラド美術館で購入

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。