セゴビア

マドリッドからの日帰り観光も可能なセゴビア
ローマ時代の水道橋、中世の街並み
そして、白雪姫のお城のモデルとなった古城で有名
2018年3月訪問

写真はローマ水道橋


マドリッドの北西に位置するセゴビアは古代にケルト・イベリア人が築いた街。ローマのイベリア半島侵出時にローマに協力的だったことからローマ帝国支配下で優遇され発展しました。ローマ帝国滅亡後は西ゴート王国、8世紀にイスラムが侵出するとイスラム支配下に入りますが、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)において1083年にカスティーリャ王国がイスラム教徒から街を奪回すると、以後、カスティーリャ王国の重要な拠点とされます。レコンキスタはカスティーリャ王国のイサベル女王とアラゴン王国のフェルナンド王が結婚した後、両王によって1492年に完成されますが、イサベル女王が戴冠式を行ったのはセゴビアのマヨール広場でした。

マドリッドから高速道路で北を目指すと雪山が見えて来ます。
雪山はグアダマラ山脈。目指すセゴビアは山脈の先にあります。


グアダマラ山脈をトンネルで越えると、カスティーリャ・イ・レオン州。中世のレオン王国とカスティーリャ王国の中心地だった場所です。ローマ帝国が滅亡した後、イベリア半島は西ゴート王国の支配下となり、カトリックが信仰されるようになりますが、8世紀にイスラム勢力が西ゴート王国を滅ぼすと残党のキリスト教徒はイベリア半島北部に追いやられてしまいます。西ゴート王国の貴族ぺラーヨは北部山岳地帯にアストゥリア王国を築き、722年にコバドンガの戦いで初めてイスラム軍を撃破。ここからキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)運動が始まります。アストゥリア王国は10世紀にはレオンに遷都し、レオン王国となります。このようにレオン王国はスペインでも非常に由緒ある王国です。カスティーリャ王国は元々はレオン王国の配下でしたが、独立後領土を拡大し、主筋にあったレオン王国を統合しました。しかし、カスティーリャ王はレオン王国の由緒を尊重し、正式にはレオン王兼カスティーリャ王と名乗ったそうです。

マドリッドのホテルを出て1時間45分
セゴビア市街に入る前に、アルカサルのビューポイントに立ち寄りました。


見事に逆光になってしまいましたが、実に美しい城です。

円錐形の屋根の塔を持つ城はディズニーの白雪姫城のモデルとされています。現地ガイドさんはディズニーは世界中の城を廻って、この城が一番美しかったから、この城をモデルにすることにしたんだと語っていましたが、確かに私たちがイメージする「中世の美しいお城」そのもの、といった印象を受けます。

午前中に訪れたので逆光になってしまったのか、見学の順番変えた方が良かった気もしますが、現地ガイドさん曰く、実はこのお城、見る場所によって全く姿が違って、旧市街の方からお城を見ると全く「白雪姫城のモデル」といった感じがしないとのこと。お客さんに違うと言われてしまうので、最初に来たんだと語っていました。

お城は崖の上に建っていますが、ここは2つの川が合流する地点で、天然の要塞とも言える場所となっています。そのため、ローマ時代からこの場所に要塞が建てられたとのことで、現在のお城は12世紀にカスティーリャ王国のアルファンソ8世がイスラム時代の城塞を取り壊して建築したもの。その後も歴代の王により増改築が続けられました。

アルカサルというのは元々、宮殿・砦を意味するアラビア語に由来する言葉だそうです。

セゴビアの旧市街は2つの川に挟まれた高台にあり、船のような形をしています。
アルカサルはちょうど船首にあたる部分に建てられているとのことでした。

ビューポイントで写真を撮った後は崖に沿って旧市街に向かいます。
途中見えたアルカサルの姿・・・確かに、さっき崖下から見たのとは全く違う姿。



そして、街に入ると、見えて来たのはローマ時代の水道橋


ローマ水道橋

水道橋の近くで下車して観光。凄い。高い。大きい。


この水道橋は1世紀後半、ローマ帝国の時代にトラヤヌス帝によって築かれたものです。

グアダラマ山脈のフェン・フリオ(冷たい泉)という場所からセゴビアの旧市街まで約18qに及ぶ水道が引かれているのですが、既に紹介したようにセゴビアの旧市街は舟の形をした高台にあり、その手前が谷間のように低くなっています。そこで旧市街に水道を引くため、谷間部分に水道橋が通されました。

水道橋の一番高いところ、道路が通っているあたりの高さは28m。ビルにするとなんと8階建てくらいだそうです。水道橋の長さは813m。2層のアーチになっていて、高台が近くなるとアーチが1層となり、やがて地中に消えていきます。柱の数は120。アーチの数は166。
凄いのはセメントや漆喰で石をつなぐということをせず、単に石を積んだだけだということ。

11世紀にイスラム教徒の攻撃で一部が破壊されたものの、15世紀に修復され、なんと20世紀まで現役だったそうです。

アーチはそれぞれが地球の重心に向かっているので一部が壊れても他は壊れないのだとか。ローマ帝国の技術凄すぎますね。

水道橋の下はアソゲホ広場
広場から見た水道橋。左右の端が高台になっているのが分かります。


高台に上ってみました。下から見たのとは違う迫力。


 本当に石を組んだだけ・・・
 水道橋の影が綺麗

地震とかないんでしょうけれど・・・崩れないのは本当に凄い。
水道橋を見学してから、歩いて旧市街の散策へ

旧市街

旧市街を歩くと古い様式の建物が目に付きます。
これは「嘴(くちばし)の家」と呼ばれる建物。壁面がピラミッド型の石を敷き詰めたようになってます。
15世紀の貴族の館を16世紀に改築したもの
   

こちらの建物は壁面の装飾が美しい。
エスグラフィアードと呼ばれる漆喰による装飾で、旧市街の多くの家で見られます。
   

少し歩くと広場に出ました。サン・マルティン広場と言い、
16世紀にカルロス1世に反旗を翻したファン・ブラボの像が立っています。


後ろの教会は12世紀に建てられたロマネスク様式のサン・マルティン教会。

半円アーチの列柱が美しい
 
 柱頭の彫刻はいかにもロマネスク

ロマネスク様式は10世紀末から12世紀にかけての西欧の建築様式。現地ガイドさんによると、セゴビアはイスラム支配下の時代でもキリスト教徒が多かったので、1083年のカスティーリャ王国によるセゴビア奪還後の教会はイスラム教徒の手を借りずにキリスト教徒の手で建てているのだそうです。南部ではイスラム教徒が多かったからイスラム教徒が教会を建てているけど、そこがセゴビアとの違い・・・ということ。

少し歩くと前方に大きなドームを持つ建物が見えて来ました。16世紀に建築が始まり18世紀に完成したカテドラル(大聖堂)です。

1520年、先ほどの銅像になっていたファン・ブラボ達はカルロス1世の絶対主義に反旗を翻しコムネロスの乱を起こしますが、その時、立て籠もったのがアルカサルの前にあった大聖堂。カルロス1世は反乱を鎮圧した後、古い大聖堂を取り壊し、マヨール広場に新しく大聖堂を建てました。

カテドラルはルネッサンス様式のドームを持つけど、ゴシック様式とのことで、現地ガイドさんによると「スペインは田舎だから、新しい建築様式が入ってくるのに時間がかかるから」だそうです。スペインって、色々と面白い。

カテドラルまで来ました。カテドラルの前はマヨール広場


カテドラルのドームとゴシック様式の尖塔。スペイン最後のゴシック建築。



カテドラルの前に広がるマヨール広場


マヨール広場は旧市街の中心。周囲にはカテドラルだけでなく市庁舎やイサベル女王が戴冠式を行った教会などが並びます。広場では昔は闘牛も行われたということです。
また、ファン・ブラボらのコムネロスの乱の首謀者が斬首されたのも、この広場でした。

写真中央の高い鐘楼を持つ教会がイサベル女王が戴冠式を行ったサン・ミゲル教会。


ここで戴冠式を行ったイサベル女王はカスティーリャ王国の女王で、夫であるアラゴン王フェルナンドとともにレコンキスタを完成するとともに、コロンブスを援助し、スペイン黄金時代の礎を築いた人物でもあります。

地元であることもあってイサベルは大人気。
右はアルカサルにあった古い肖像画。少し保存状態は悪いですが面長で意志が強そう。

イサベルは幼くして父を亡くし、異母兄から冷遇されますが、異母兄が不能王という何とも情けないあだ名を持つ王で子供に恵まれず、ようやく生まれた子も妃の不倫相手の子とされたことから王位継承権を主張することとなります。異母兄は彼女をポルトガルに嫁がせようとしますが、彼女は同盟相手として必要なのは地中海に領海権を持つアラゴン王国と判断し、兄から逃れてフェルナンドと結婚したのだそうです。

結婚は1469年、即位は1474年、グラナダを攻略し、レコンキスタを完成させたのが1492年。意志が強いのは間違いなさそうですね。

 サン・ミゲル教会はゴシック様式
 アルカサルにあった戴冠式の絵

マヨール広場から更に歩いてイサベル女王も暮らしたアルカサルに向かいます。

アルカサル



旧市街から見たアルカサルの正面・・・崖下で見た姿とは全く違います。確かに、最初にこの姿を見たら、「白雪姫城じゃない」って思いますよね。円錐形の屋根を持つ塔はありますが・・・。
アルカサルには跳ね橋を通って入ります。下を覗いたら断崖絶壁。足が震えました。アルカサル前の広場から覗くとアルカサルの下が崖になっていることが良く分かります。まさに天然の要塞。

跳ね橋から見える光景
 
 アルカサルの下は断崖

アルカサルは19世紀に火災に遭い、現在の姿は修復されたもの。中に入ると色々なところにイスラム様式が目に付きます。特に天井は見事なイスラム様式が多用されています。レコンキスタっていうと、イスラムといがみ合っていたのかと思いましたが、当時の人々にとってはイスラム様式は馴染みのある美しいもので、決して排斥するようなものではなかったんですね。

入ってすぐの甲冑の間。
 
 暖炉の間。王の食堂です。

暖炉の間には火鉢もあって、昔は寒さ対策が大変だったんだろうなあ・・って思います。
同時代のイスラムのアルハンブラ宮殿に比べると、私的空間は質素な印象。
暖炉の間の隣は公的空間。玉座の間です。こちらは豪華。

 イサベラ女王とフェルナンド王の玉座
 天井はイスラム様式

玉座の間に面するホール。ここも天井は美しいイスラム様式。
奥にイサベル女王の戴冠式の絵。


このホールはガレー船の間と呼ばれているそうです。

甲冑の間から覗いたガレー船の間。素敵でした。
 
 ガレー船の間から見た景色

ガレー船の間に続く王の執務室を抜けると女王の寝室。
ベッドが小さく見えるのは部屋が広いから。イスラム風の飾りが美しい。


続いてはレコンキスタで活躍した王たちの像が置かれたホール。722年コバドンガの戦いで初めてイスラムに勝利したペラーヨから1492年にレコンキスタを完成させたイサベラ・フェルナンド両王まで多くの王達の像が並びます。ペラーヨはイスラムに滅ぼされた西ゴート王国の貴族で、後にレオン王国となるアストゥリア王国の創始者。少数の軍で逃げるふりをしてイスラム軍を山中におびき出し、撃退したといいます。カスティーリャ王国は元々はレオン王国に服属していたわけですから、大事なご先祖様でもありますね。それにしても、これだけ多くの王達が並ぶと、レコンキスタがいかに長い道のりだったかを感じさせます。その一方で天井は豪華なイスラム様式です。

豪華なイスラム様式の天井
 
 ペラーヨの像

礼拝堂。ここでフェリペ2世とオーストリアのアナ王女の婚姻ミサが行われました。。
礼拝堂全景
 
 天井はやはりイスラム様式・・・だと思います。

フェリペ2世はイサベルのひ孫にあたるスペイン黄金時代の王です。
フェリペ2世は妃に先立たれることが続き、4人目のアナ王妃によって初めて子をもうけることができました。


アルカサルから見た旧市街。断崖に沿って城壁が築かれています。


この後、セゴビア名物の子豚の丸焼きを美味しくいただきました。
食事を楽しんだ後はセゴビアを離れます。

旧市街の門が歴史を感じさせてくれました。




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参考文献

添乗員ヒミツの参考書魅惑のスペイン・紅山雪男著・新潮社
プロの添乗員と行くスペイン世界遺産と歴史の旅・武村陽子著・彩図社


基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。