パルミラ

シリア砂漠のほぼ中央に位置するオアシス都市パルミラ。
ローマ帝国の属州として栄えながら、美貌の女王ゼノビアはローマ帝国に反旗を翻します。
美貌の女王の都は世界で最も美しい遺跡と言われています。
2003年8月訪問

写真は四面門と岩山上のアラブ砦


パルミラは地中海とメソポタミアの中間地点であることから、古代から東西貿易の拠点として栄えました。西のローマ帝国と東のササン朝ペルシャが争ったときはローマの属州としてペルシャの軍隊を撃退し、2世紀以降、東西の交易で巨大な富を獲得し、繁栄を極めたと言います。

そのパルミラの運命を変えたのがクレオパトラの血を引くと言われた美貌の女王ゼノビア。3世紀初頭の王オダエナトゥ王スの妻だったゼノビアは王が暗殺された後、実権を握り、領土を拡大し、ついにはローマ帝国に反旗を翻します。結局、272年にパルミラはローマ帝国に敗れ、都市は破壊されました。ゼノビアは金の鎖でつながれてローマ帝国まで連れて行かれたといいます。

美貌の女王の都パルミラは世界で最も美しい遺跡とも言われています。
写真は近くのアラブ砦から見たパルミラの夕景。



写真中央の大きな建造物がベル神殿。そこから長い列柱道路が続きます。列柱道路の中央右手にある建築群は円形劇場やアゴラの跡。かっての行政の中心地です。下に伸びる列柱道路の終点はティオクレティアヌス神殿。
もともとパルミラとは「なつめやしに覆われた街」という意味ということですが、今でも遺跡の周囲はなつめやしの緑で覆われています。


ベル神殿

ベル神殿はパルミラ遺跡の南東部分にあります。
街はこの神殿を中心に構成されていると言っていいでしょう。
パルミラで最も重要な建物だったと思われます。
写真は本殿を前から見たところ。



ここに祀られていたベル神とはメソポタミアの主神である豊穣神。バールベックのバール神と同じ古い神です。この神殿は1世紀から3世紀にかけて建造されたと考えられています。

左下の写真は博物館で何故か撮影させてくれた復元模型。神殿が周囲を高い壁に囲まれていたことが分かります。右下の写真は本殿前の庭にあたる場所。かっての壁の中で、列柱も残っています。神殿は東西210m、南北205mという巨大なものでした。
本殿の前には生贄の動物を清めた場所、生贄を捧げた場所などが残っています。。

   


左下は本殿周りの列柱。
下中央は本殿入口。下にいる人間から巨大さが分かると思います。
右下は入口を入ったところにある神像を祀っていたと思われる部屋。
同じような部屋が左右にあり、20世紀初頭までベドゥインが暮らしていたそうです。

     


入口を入って左右にある部屋はベドゥインが生活していたことによって煤等で汚れていますが、天井は見事です。左下の写真は左手の部屋の天井。右下の写真は右手の部屋の天井です。

どちらも美しいレリーフが残っていますが、特に興味深いのは左手の部屋の天井(左下の写真)。
写真の中央部分に円があり、その中に更に円が、中の円を囲むように6つに分割されているのが分かるでしょうか。この中心の円が主神ベルで、周囲の6つは惑星なのだそうです。うっすらと中央には人物のような姿が見えます。更に写真上部には翼を広げた鳥の姿と星のようなレリーフが残っています。

   


本殿の周囲には壁や天井を飾っていたと思われるレリーフが幾つも残っています。
ラクダに乗った姿などは交易の様子を描いているのでしょうか。

   


本殿裏手に落ちていた天使と果物のレリーフ(左下)。
本堂周囲の列柱のレリーフも綺麗です(右下)。

   


本殿を裏から見たところ。
本殿の周囲をコリント式の柱が取り囲んでいたことがよく分かります。
柱の保存状態は後ろの方が良いですね。
本殿にたくさん穴があいていますが、元々はここに金具が埋め込まれていたそうです。





記念門と列柱道路

ベル神殿に向かい合う形で記念門があり、ここから列柱道路が始まります。



記念門はローマ皇帝ハドリアヌス帝を称えて建てられた門です。この記念門から続く列柱道路はローマ帝国との関係が良好だったころのもので、1,2キロに渡り続きます。

記念門をくぐって少し進むと左手にナボ神殿があります。

残っているのは小さな建物ですが、このナボ神というのはメソポタミアのマルドゥク神の息子にあたる神で、神々の運命の書の保持者だったのだそうです。

ベル神殿といい、パルミラの人々はメソポタミアの神々を信仰していたんですね。

ローマの属州だったころもメソポタミアの神々を信仰し続けていたというのは興味深いですね。


それにしてもパルミラの列柱道路は見事です。
柱の太さはパルミラの財力を物語るのでしょう。
柱には道路側に出っ張りがあります。
かっては街の有力者や寄進者の彫像が飾られていたそうです。




列柱道路を進むと四面門に出ます。
4つの基壇上にそれぞれ4本の柱が載る珍しい門です。
柱はエジプト産の赤色花崗岩。これもパルミラの富を物語るものですね。




四面門の周囲は、かってのパルミラの中心地だったと思われます。


円形劇場・アゴラ・元老院議事堂などが、上の写真の左手に固まっています。

ローマとの関係が良好だったころに造られたものでしょう。


円形劇場は、他の遺跡の劇場に比べるとやや小さい気がしますが、今でもイベント会場として利用されている保存のいい建物。

アゴラは商取引が行われた場所で、香料・象牙・真珠・絹織物などが取引されました。
周辺の農民や遊牧民が商品を運ぶのに町の中心部を横切らなくても良い場所が選ばれています。

アゴラでは商取引が行われるとともに、裕福な市民たちが宴会をしたり、祭壇に生贄を捧げたり、議会のような活動も行っていらそうです。

アゴラの壁際には石のベンチがありました。


写真はアゴラの一部です。



四面門から先も、更に列柱道路は続きます。
後方の山の上にあるのはアラブ砦。
アラブ砦からのパルミラの夕景は絶景です。





列柱道路を更に進むと、葬祭殿やディオクレティアヌス城砦などの場所に進みます。ここらへんの建物は総じて破壊が進んでいるのが残念ですが中には下の写真のような奇麗な建物も残っていました。メモすることが多すぎて名前を特定できないのが残念。




ディオクレティアヌス城砦
ローマがパルミラに勝利した後に軍事拠点とした場所です。






墓の谷

パルミラの西、かっての市街地から少し離れたところに墓の谷と呼ばれる場所があります。
塔のようなものがいくつも並びますが、実はこれはパルミラの人たちのお墓です。




左は塔墓の中でも有名なエラベール家の塔墓。

エラベール家はナボ神殿建設にあたり多額の寄進をしたということで、パルミラの富豪だったようです。

ごらんのような塔のような形の建造物をお墓と言われてもぴんとしませんが、実は、これはお墓のマンションになっています。

塔の内部は4階建てになっていて、各階にいくつも棺が入れられるようになっているのです。

なんとこの塔だけで300人も葬ることができる構造になっているとのこと。

塔の中は壁画や個人の面影を写したのであろう彫像などが飾られていて、お墓という暗い感じはしません。

パルミラの人たちは祖先を崇拝し、お墓を永遠の家と考えていたそうです。そのため、お墓は楽しく暮らせるように美しく飾ったわけですね。

このような塔墓は紀元前1世紀ころから造られ始め、パルミラで非常に流行ったということですが、後にこの地を襲った地震で崩れたことから、その後は地下の墓が流行るようになりました。


下の写真は地下墓室として有名な3兄弟の墓
中央で杯をもってくつろいだ姿をしているのは男性です。
ローマ式とペルシャ式の融合した服装をしているのが興味深いですね。
東方風の衣装にブーツ、そしてパルミラ特有の帽子をかぶっています。

このような形の彫像は、多くの墓地で見られます。





レストランからパルミラの遺跡が良く見えました。
左下はベル神殿周辺。右下は列柱道路と右端には墓の谷。
本当になつめやしに覆われた街です。
   



列柱道路に昇る朝日




世界でも最も美しい遺跡と言われるのは伊達ではありません。
納得の世界遺産です。


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参考文献

ユネスコ世界遺産(講談社)
イスラムの誘惑(新潮社)
世界遺産を旅する10(近畿日本ツーリスト)


基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。