イスタラフシャン
トルキスタン山脈の北麓に位置するイスタラフシャン
街の歴史は2500年以上
タジキスタンでも有数の古い街です。
2015年9月訪問


ムグ・テパから見たイスタラフシャンの街とトルキスタン山脈


タジキスタン北西部に位置するソグド州。ソグド州の北部は東から西にシルダリヤ川が流れ、その流域は肥沃なフェルガナ盆地。フエルガナ盆地はキルギス・タジキスタン・ウズベキスタンと広がる豊かな穀倉地帯です。しかし、ソグド州の南部にはタジキスタンの国土を分断するかのように東西に走るトルキスタン山脈とザラフシャン山脈があります。
ソグド州の州都ホジャンドから南西に約80qのところにあるイスタラフシャンはトルキスタン山脈の北麓に位置する長い歴史を持つ街。この街から南には多くの山々が連なります。

ムグ・テパ

ムグ・テパは街を見下ろす丘の上にある砦跡。


やたら立派で綺麗な建物にびっくり。これは2002年に街の建設2500年祭があった時に再建されたもの。16世紀の砦をイメージしているそうです。この地には繰り返し砦が築かれました。

この地に最初に砦を建てたのは紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャのキュロス大王だと言われています。2500年祭というだけありますね。その後、アレキサンダー大王がこの砦を攻めますがなかなか落とすことができませんでした。アレキサンダー大王は水を汲みに砦から降りてきた人を殺し、その服を奪って砦の内部に忍び入り、ついに砦を落としたと言われているそうです。その後も1・2世紀にはクシャン朝が、8世紀にはアラブが砦を築いたことが分かっています。

再建された砦の裏に昔の砦の跡が残っています。
建物の壁らしきものが残りますが、正直保存状態は良くありません。
   



この砦は5〜8世紀にはソグド人の砦だったと考えられています。イスタラフシャンにはソグド時代のブンジカット遺跡がありますが、この砦はその出先の砦と考えられるとのこと。
丘の遺跡からは近くの丘も見えますが、この丘もソグド時代の都市の一部だったそうです。かっては3つの丘から成っていたのだとか。
ちなみにムグ・テパのムグとはゾロアスター教の聖職者の意味。ソグドに由来する名前なんですね。
なお、ムグ・テパの再現された砦の前に建つ像は18世紀に街のリーダーとしてプハラ・ハン国と戦ったルスタンブック王。



クックグンバース・モスク

旧市街にあるクックグンバースモスク。クックグンバースとはクック(青い)グンバース(ドーム)という意味。文字通り青いドームが美しいモスクです。

現地ガイドさんやドライバーさん達が「是非見せたい」と言って連れて行ってくれました。旧市街の細い道の奥にモスクはあります。

このモスクは15世紀・ティムール朝時代に建てられたもの。

このモスクは父王を殺した王が、後にそれを悔い、聖職者に相談したところ「青いドームを持つモスクを7つの街に建てるように」と言われ、建設したものなのだそうです。
王は聖職者の言葉に従い、7つの街に青いドームのモスクを建てました。モスクを建てる街の一つに選ばれたのですから、当時からイスタラフシャンは大きな街だったんでしょうね。

余り大きなモスクではないのですが、美しくて地元の人たちに愛されている感じを受けます。中庭には木が植えられ、花も咲いていました。
昨年(2014年)までは神学校として利用されていたということです。


何とも言えない、あったかい雰囲気の場所です。
   



職人街

イスタラフシャンはナイフで有名
   

イスタラフシャンは北のホジャンドや南西のサマルカンド・ブハラをつなぐ交易路にあり、古来から多くのキャラバンがこの地で体を休めました。その際、武具や馬具を修理する必要があり、職人街ができたのだそうです。現在では職人街はバザール前に集められ、多くの店が並んでいます。

   



バザール

職人街と道を挟んで向かい側はバザールになってます。


バザールではパンや果実・・・様々な物が売られています。

 タジキスタンはお茶文化の国
店番の子の横には「茶」と書かれた袋
 様々なお豆が売られてます。
お砂糖でまぶしたピーナッツはおいしい


大賑わいのバザール。




ブンジカット(カライ・カフカハ)

市内見学の後、車に乗ってブンジカット遺跡へ。
水の枯れた川に車で入り、しばらく走ったら、こんな丘の下に出ました。


この丘がブンジカット遺跡。5〜8世紀のソグド人の都市の跡です。玄奘三蔵が「ストリシヤ」と記したのが、この遺跡ではないかと考えられています。8世紀にアラブ人によって攻め滅ぼされ、廃墟と化した遺跡は風が吹くと笑い声のような音がすることからカライ・カフカハとも呼ばれています。遺跡に登る階段もありませんが、ともかく登らないことには遺跡が見えません。

足場が悪い中、一番高いところまで登ると、そこはかっての王宮跡。
戦時には要塞ともされました。なんとなく廊下と左右の壁というのは分かります。


この王宮からはローマの建国神話、ロムルスとレムスの壁画が見つかっています。
残念ながらエルミタージュに運ばれてしまったそうですが。


見下ろすと、かっての城壁の跡のようなものが見えました。
ソグド人は街を城壁で囲む城郭都市に暮らしていました。



遺跡に来る途中通った川に面した場所には、物見の塔の跡も残っています。
川沿いに街を築いたんでしょうね。



王宮からは広大な居住区(シャフリスタン)が見下ろせますが
正直、日干し煉瓦で造られた街は、ほとんど何も残っていません・・・
かっての姿を想像するのは難しい・・・

画面左奥に拝火教寺院と物見の塔
 
 バザールの跡


自由時間に拝火教寺院の近くまで行ってみました。
立派な建物だったことは想像が付きますが、正直、良く分かりません。後ろは物見の塔?



ロムルスとレムスの壁画、どんなものだったんでしょうか。
そんなことを話してたら、良いものがあるよ、と言って連れて行ってくれたのがこれ。
道沿いに建ってます・・・


町おこしのために作ったんだそうですが・・・
う〜〜ん。


エルミタージュに行ってもロムルスとレムスの壁画が見えるか分からないね、とか話していたら
後に訪れた首都ドウシャンべの国立古代博物館にひっそりとレプリカが展示されていました。


上の写真の右端に狼の乳を飲む二人の赤子が描かれています。近寄って撮ってみました。

捨てられた双子が狼の乳で育ち、やがてローマを建国するという神話を描いていることが良く分かります。

ちょっと稚拙な感じがしますが、この壁画の重要性は芸術性より、当時のソグド人がローマ建国神話を理解していたということにあります。つまりソグド人の活動範囲がローマの文化と触れ合うほど広かったことを意味するからです。ソグド商人、凄いですね。


ブンジカット出土の美しい武人の壁画もありました。オリジナルです。
説明図があって分かりやすい。
   

ソグド人と言えば商人。唐では「ソグド人は子供が生まれると口に蜜を含ませ、手に膠を塗る、それは甘い言葉を使い、金を掴んだら離さないためだ」と記されているほどです。ですから、ちょっと武人の姿は意外な気もしますが、実は商業活動と軍事活動は不可分でした。キャラバンで交易する際には山賊や追剥に遭うことも多く、それ故に遠隔地商人と武人は表裏一体なのです。

人物をアップで撮ってみました。鎧が美しい。


あの遺跡から、こんな美しいものが発見されているなんて・・・ちょっと感激。


他にも幾つかブンジカット出土のオリジナルの壁画が展示されていました。

足のみ残る壁画
 
 装飾壁画

これらの壁画、実は日本との共同調査によるものです。日本頑張ってます。


 首都ドゥシャンペの国立古代博物館の展示品を紹介しましたが、イスタラフシャンからドゥシャンペに行くにはトルキスタン山脈、ザラフシャン山脈という二つの山脈を越えなくてはなりません。最初に越えなくてはならないのがトルキスタン山脈。現在は中国が造ったトンネルを通るので随分と楽になりましたが、かっては3378mのシャフリスタン峠越えをする必要がありました。トンネルの前から見える山には横に道路らしき筋が通っています。車で越えるのも大変でしょうが、かっての旅人の峠越えは想像を超える厳しさだったに違いありません。色々な危険を伴うだけにナイフなどの武具をシャフリスタンで修理する必要があったんでしょうね。



トルキスタン山脈を越えて
ザラフシャン川沿いに西へ行けばペンジケント・サマルカンド
そのまま南に進みザラフシャン山脈を越えるとドゥシャンベです。


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参考文献

興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国(森安孝夫著・講談社)
中央アジアの歴史 新書東洋史(間野英ニ著・講談社現代新書)
文明の十字路 中央アジアの歴史(岩村忍著・講談社学術文庫)
玄奘三蔵、シルクロードを行く(前田耕作著・岩波新書)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。