ペンジケント
ウズベキスタンとの国境に近いペンジケント
今では小さな町ですが、かってはソグド人の街として栄え、
町の近くからは5000年前の遺跡も発見されています。
2015年9月訪問

写真はペンジケント遺跡から見たペンジケント市街


ペンジケントはタジキスタンの西端、ウズベキスタン国境近くに位置します。トルキスタン山脈とザラフシャン山脈に挟まれ、その間をザラフシャン川が流れる肥沃な土地です。上の写真に写っているのがトルキスタン山脈、その下を流れるのがザラフシャン川です。

このザラフシャン川流域は、かってシルクロードの交易で活躍したソグド人達が多くの都市を築いたソグディアナの中心地でした。そして、ソグディアナの中核である都市がウズベキスタンのマラカンダ・現サマルカンド。ペンジケントとサマルカンドは現在は国境で隔てられていますが、実は50キロくらいしか離れていません。
ペンジケントの町外れの丘に残るペンジケント遺跡は唐の時代にソグド人の主要都市の一つと記されたマーイムルグ(米国)と考えられています。そればかりか、この街の近郊からは約5000年前の原始都市サラズムが発見され、タジキスタンで最初の世界遺産に指定されました。



ペンジケント遺跡

ペンジケント遺跡は5世紀から8世紀にかけてソグド人が築いた都市遺跡。
ソグド人はペルシャ(イラン)系の民族で、中国では胡と呼ばれました。
入口にあった遺跡の地図


上の地図から遺跡が城壁で囲まれていることが分かると思います。ソグド人の都市は城壁で囲まれた城郭都市でした。更に地図の中央左寄り部分の等高線が密になっていて、遺跡が分断されていることが分かるかと思います。これは城郭都市内に築かれた堀。城壁で囲まれた都市の中でも左側の部分は更に堀と城壁で二重に守られていて、宮殿であると同時に戦時には市民が立てこもる要塞とされました。そして遺跡の右側は市民が生活する居住区。この居住区では2つの寺院と様々な住居跡が発掘されています。


遺跡に入ると道があって、左右に土の壁が残っています。
振り向いたら、わんこが付いてきてました。後ろの山脈はザラフシャン山脈。


この道はかってのペンジケントの道。正確には、この道の地下にかっての道があります。この道は古代の道の左右に広がる住居を発掘する際に使用したため残ったもの。轍の跡は発掘の時のもの。ペンジケントにはこのような大きな道が8本通っていたことが分かっています。

少し歩くと大きな部屋を持つ住居跡に出ました。お金持ちの家と考えられています。広い部屋の壁は壁画で飾られていました。よく見ると2階建てだったことが分かります。ペンジケントでは豊かな家は2階建て・3階建てとなっていて、庶民は平屋だったそうです。この家の1階部分に道は面していたわけですから、かっての道は今の地面より随分と下にあったわけです。

   


更に進むと、2つの寺院があった場所に出ます。


上の写真、分かりにくいですが、右側がヒンズー教寺院、左側が拝火教寺院と言われています。

ペルシャ(イラン)系のソグド人は元々は古代ペルシャ発祥のゾロアスター教(拝火教)を信仰していました。
しかし、上の地図の右側からはインドのシヴァ神とその妻パールヴァティと思われる神像が発見されていてヒンズー教寺院とされています。交易でこの地を訪れたインド商人のためのものなのでしょうか。
そればかりか、この場所からは右の写真のような変わった神像も発見されています。
右の写真、下の部分しか残っていませんが、動物に乗り、四本の腕を持ち、日輪と月輪を持つ女神でナナ神と呼ばれます。このナナ神はソグド固有の神で、ヒンズー教の影響で生まれたのではないかと考えられているそうです。ヒンズーの神々には手がたくさんありますものね。

右の写真の像もシヴァ神とパールヴァティの像もタジキスタンの首都ドゥシャンベの国立民族考古博物館に展示されています。シヴァ神とパールヴァティの像も下の部分しか残っていないのですが、なかなか肉感的なインド風の像でした。


こちらは拝火教(ゾロアスター教)の寺院


この2つのアーチの下で火を炊いたと考えられています。
アーチの部分は一段高くなっていて、その下で信者が拝んでいたのだろうとのこと。


更に進むと城壁部が見えて来ました。
かっては堀と城壁で囲まれていたそうです。堀の跡が良くわかります。
最後の王はデバシュティッチ。アラブに嘆願書を送ったり、苦労したみたいです。



このペンジケント遺跡からは多くの素晴らしい壁画が発見されています。多くの壁画はエルミタージュに運ばれてしまったそうですが、それでも幾つもの優品が博物館で展示されています。

最も素晴らしい壁画は首都ドゥシャンベの国立古代博物館に展示されています。

左側のハープを奏でる女性が美しい壁画。真ん中から右にかけては戦闘シーン。



天幕の下の宴会。ソグド人は宴会を描くのが好きだったそうです。
多くの人物は胡坐をかいています。「胡」がソグドの意味だったことを考えると興味深い。



2つともとても大きな壁画です。
近寄って撮ってみました。

ハープを奏でる女性像
実に優美で魅了されます
 
 天幕の下で宴会に興じる貴人達
左は椅子に座ってます。右は胡坐。

ソグド人の容貌について中国では「深目高鼻にて鬚髯(しゅぜん、ひげ)多し」と記されました。確かに髭のある人物も描かれていますが、多くの人物、特にハープを奏でる女性などは、むしろ東洋的な顔で描かれています。何故なんでしょう。彼らの美意識か、それとも人種の融合が既に進んでいたのか・・。他方で「裳も服も狭く」、身にぴったりとした服を着ていたと言う彼らの装いは壁画からも確認できます。


この壁画では右側に馬に乗った貴人が描かれています。



遺跡入口付近にも博物館があり、壁画や出土品が展示されています。
壁画のほとんどがレプリカですが結構面白い。

これはソグト人の英雄伝説。怪物と闘ったりしています。絵巻物のようなかなり長くて大きな壁画。
   


 宴会の場面
 ちょっと分かりずらいですが女性の姿


こちらはペンジケント市内のルダーキー博物館に展示されていたソグドの住居復元図
ペンジケントの家の復元図ではないかもしれませんが
ソグド人はこんな感じに室内を壁画で飾っていたんだそうです



ペンジケントは722年にアラブの攻撃を受けます。サマルカンドが落ちた後のことでした。

人々は、近くのムグ山に立て籠もって抵抗を続け、一時は街に戻った人々もいたようですが、780年ころ街は終わりを迎えます。

人々が立て籠もったムグ山から発見された文書(ムグ文書)は、契約書などが含まれ、ソグドの風俗を知る貴重な資料となっています。

ソグド人の文字は日本語と同じく横書きのものと縦書きのものとがあったそうですが、横書きのものは日本語とは異なり右から左に読むのだそうです。

 発見された壁画がほとんどエルミタージュに運ばれた・・と書くと、まるでロシアが悪いことしてるみたいですが、ペンジケント遺跡の発掘が進められた当時のタジキスタンはソ連だったので、ある意味、当たり前のことだったわけです。遺跡前の博物館には発掘に携わったソ連の学者さんたちの写真も置かれていました。なかでも写真一番右のボリス・マルシャーク博士はペンジケントの発掘に生涯を捧げた学者さんで、遺跡入口にお墓が建てられています。

   



サラズム

屋根で保護されたサラズム遺跡


ペンジケントの街から車で15分ほど東に走った場所にサラズム遺跡はあります。この遺跡は農夫が銅剣を見つけたことをきっかけに発掘されました。発掘の結果、約5000年前に遡る中央アジアでも屈指の原始都市であることが確認され、2010年タジキスタン初の世界遺産に登録されています。
遺跡の近くを流れるザラフシャン川は「黄金のしぶき」との意味。古来から砂金が採れることで知られています。そのためサラズムは金製品で栄えたのではないかと考えられているそうです。

遺跡に入ってすぐの場所は神殿と考えられています。
中央付近に置かれた丸いものが火の祭壇ではないかと考えられているのだとか。


火を祭っていたなんてゾロアスター教(拝火教)と関係があるんでしょうか。
ゾロアスター教が成立するのはサラズムよりずっと後のことですが・・・

火の祭壇?
 
 こちらは窯の跡ともされています。


この遺跡からはサラズムの王妃と名づけられた女性の墓が見つかっています。多くのビーズと金製品で飾られた彼女は胎児のような姿勢で葬られていました。興味深いのは彼女の身長が2m近い長身で手足が異常に長いこと。殉死者と思われる他の人物も身長は高いそうですが、手足の長さは彼女が際立っているそうです。遺伝的特徴を持つ一族が支配者だったのか、それとも特異な体型が何らかの神性の現れとされたのか・・・・。

彼女は発見された時の姿でドゥシャンベの国立古代博物館に展示されています(右下)。遺跡内で発見現場を教えてもらったら、なんと屋根で保護されることもなく野ざらしになってました・・。

 ここが王妃の墓発掘現場
こんな形で放置していいんでしょうか・・・
 胎児の姿勢で葬られた王妃
白いものはビーズ

サラズムの王妃の周囲は多くのビーズが発見されていますが、これはかって彼女の衣服や髪を飾っていたもの。特に素晴らしいのが髪を飾っていた黄金製品。全部で49個発見されています。彼女の傍には青銅製の鏡も置かれていました。

王妃の周囲には多くのビーズ
 
 鏡と黄金の髪飾り


遺跡に近いペンジケントのルダーキー博物館にはお墓から発見されたアクセサリーが展示されてました。
   


遺跡に戻ります。

神殿とされる場所。幾つもの小部屋を取り囲む形。
   


職人の居住区とされる場所
窯と多数の陶器の破片が見つかっています。


サラズムの遺跡を築いた人たちはアーリア系と考えられているそうです。
インドやイランの出土品と似た物も発見されているとか。
でも詳しいことは謎のまま。今後の発掘調査が楽しみです。



ルダーキー博物館

町の小さな博物館


ルダーキー博物館は、ペンジケント出身の詩人ルダーキーに関する博物館です。

ルダーキーはタジキスタンで非常に人気のある国民的詩人で、タジキスタンのいたるところに像が建てられています。

なんでもタジキスタンはペルシャ系だから、ペルシャ(イラン)同様、伝統的に詩を愛しているんだそうです。

中央アジアは紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャの支配を受けたことから、ソグド人を初めとするペルシャ系の人々が暮らしていましたが、次第にトルコ系の突厥やウイグルが進出するようになり、現在の中央アジアの国々はタジキスタンを除き、全てトルコ系・ウイグル系となっています。

しかし、タジキスタンのみは今でもペルシャ(イラン)系の人々が暮らす国。山岳国家であることからペルシャ系が生き残ったんでしょうか。ソグド人の末裔とされる人々もタジキスタンの山間部に暮らしていると言います。

ルダーキーは中央アジア最後のペルシャ系国家サーマーニー朝の詩人だったとのことで、そんなことも人気の理由の一つなのかもしれません。



この博物館にはルダーキー関連の他にもソグド関係の展示品やサラズム遺跡を説明する展示、更には民俗資料館的な展示もありました。写真撮影料を払うべきかはちょっと微妙ですが。


博物館を見学して外に出たら、結婚式の撮影会をしていました。
なんで、こんな場所で・・・と思ったら、この町には他に絵になる建物がないからですって。
ドローンで撮影していたので、きっとお金持ち。
なぜか私たちも一緒に踊ることになって、しっかりビデオに撮られました。


それにしても綺麗な花嫁さん
タジキスタンの結婚適齢期は女性18歳、男性23〜24歳だそうです。
お幸せに


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参考文献

興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国(森安孝夫著・講談社)
中央アジアの歴史 新書東洋史(間野英ニ著・講談社現代新書)
文明の十字路 中央アジアの歴史(岩村忍著・講談社学術文庫)
玄奘三蔵、シルクロードを行く(前田耕作著・岩波新書)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。