カルタゴ

ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴ。
フェニキア人が築いたカルタゴの数少ない遺跡が残る場所です。
2011年1月訪問

写真はアントニヌスの共同浴場


チュニスから12キロほどのところにあるカルタゴ。古代フェニキア人の海洋国家カルタゴの名前が残るこの地は、カルタゴの中心地だったところです。
カルタゴはローマ帝国によって徹底的に破壊されたため、現在、かっての姿を知ることができるものは、ほとんど残されていません。それでも、この地はフェニキア人と北アフリカ文明の融合によって生まれたというカルタゴの数少ない遺跡が残っています。


ビュルサの丘とカルタゴ博物館

ビョルサの丘は古代カルタゴの中心地だった場所。
現在は博物館が建てられ、また、周囲からはカルタゴの住居跡が発掘されています。




博物館には古代カルタゴ時代のビュルサの丘の復元図がありました。


紀元前11世紀、レバノンからフェニキア人がこの地に港を造り、海上交易の拠点として開拓したのがカルタゴの始まりです。紀元前9世紀にはカルタゴはフェニキア人国家カルタゴの中心地として発展します。海に近い標高70mのビュルサの丘はカルタゴの中心地だった場所。復元図を見ると丘を中心に街が造られていたことが分かります。
面白いのは円形をした港。復元図の海沿いに丸い円で囲んだような場所がありますが、これがかっての軍港。軍港の外側が商業港という構造になっていました。

ビュルサというのは「牛の皮」という意味。この名前は紀元前9世紀に夫を兄に殺され、この地に逃げてきたレバノンのスールの王女エリッサの故事に由来します。エリッサはこの地に街を築こうとしますが、当時この地に住んでいたベルベル人から「牛の皮1枚の土地を与える」と言われてしまいます。
体よく断られたようなものですが、賢いエリッサはこの言葉を逆手に取り、牛の皮を細く裂いて紐を作って、その紐で土地を囲み、この地を手に入れたのだそうです。

カルタゴは海上交易で発展し、紀元前6世紀には北アフリカ沿岸各地に都市を築き、イベリア半島まで勢力下に置きます。
しかし、北アフリカに勢力を伸ばそうとするローマ帝国と衝突することとなり、紀元前3世紀の第1次・第2次ポエニ戦争で領土を失い、一旦は奇跡の回復を見せるものの、第3次ポエニ戦争に敗れ、滅亡します。
街は2週間以上燃え続け、その後、ローマ人によって土地には塩がまかれました。

徹底的に破壊されたカルタゴのものは、ほとんど残っていません。博物館にもカルタゴ時代のものは余り展示されていませんでした。
写真は前7世紀のスフィンクスの形の壺。


カルタゴの街を徹底的に破壊したローマ人達ですが、その後、カルタゴに入植し始めます。
後2〜3世紀にはカルタゴは人口30万人の北アフリカ最大の都市として繁栄しました。
博物館にはローマ時代のものが数多く展示されています。
   


優れたモザイクが数多く展示されていました。
カルタゴ時代のモザイクは白と青だけのシンプルなものでしたが、ローマ時代のものは華やかです。





博物館前の丘に広がるかっての住居跡。
ローマ時代の街の下から発掘されています。



素人にはよく分かりませんが、住居は二階建てだったりしたようです。第2次ポエニ戦争の敗北で軍事力を奪われたカルタゴは莫大な賠償金も課せられ、50年かけて返済するようにと言われますが、なんと10年で完済。カルタゴを恐れるローマ帝国によって第3次ポエニ戦争が起こり、軍事力を奪われながらもカルタゴ市民は3年間の籠城の末、ついに陥落。多くの市民が奴隷とされますが、神殿に立て籠もって抵抗を続けた人々は最後は神殿に火を放ち、火の中に身を投じたということです。カルタゴの街が2週間以上燃え続けたのは、豊かなカルタゴでは屋根にアスファルトを塗っていたため、燃えやすかったからとも言われています。


遺跡からは海がよく見えます。かっての円形の軍港跡も見えます(左)。
遺跡入口に立っていた柱。ローマ時代のものだと思います(右)。
   


海のそばに残る軍港跡にも足を伸ばしました。
カルタゴ時代の海戦は船同士をぶつけて相手を沈めるというもの。
カルタゴ海軍は当時、最強だったそうです。





トフェ(タニト神の聖域)

カルタゴの数少ない遺跡、トフェ。



ユダヤ語で「いけにえ」を意味するトフェはカルタゴ時代、バアル・ハモン神とタニト女神を祀る聖域だった場所と言われています。バアル・ハモンはフェニキアの神でタニト女神はカルタゴの守護神。
1番最初に生まれた男の子を神に捧げ、いけにえとなった子を火葬して埋めた場所と言われていて、墓石などが置かれています。ちょっと暗い雰囲気の場所です。

実際に、ここからは炭化した幼児の骨が発見されているということですが、カルタゴのいけにえの風習を書き残したのはローマ側で、カルタゴを批判する目的があったようですから、本当のところは分かりません。タニトは死と再生を司る母神だったとされています。


写真の丸と三角で組み合わされたような形がタニトの印
左の写真ではタニトの印の上に三日月と太陽も描かれています。月はタニト女神、太陽はバアル・ハモン。
   



アントニヌスの共同浴場




アントニヌスの共同浴場は海を背にして建てられたローマ時代の公共浴場。2世紀に五賢帝の一人アントニヌス・ピウスによって建てられたもので、かっては温浴風呂屋水風呂、サウナ、更衣室、談話室、トイレなど多くの部屋を有する2階建ての建物でした。今では2本の柱と基礎部分が残っているだけですが、遺跡には復元模型や復元図などが置かれており、かっての姿を想像する助けになっています。それにしても、ローマ人はお風呂好きですね。

   


今残っているのは基礎部分なんでしょうか。
かっての建物は壁にはフレスコ画、床にはモザイクと飾られていたそうです。

   


海に面しているため、散策するだけでも気持ちがいい。
古代ローマ人は、ここで優雅な時間を過ごしていたんでしょうね。

   


近くにはモザイクが見事なローマ人の住居跡があるというので自由時間に見学しようとしたら、
現地ガイドさんに「大統領官邸のそばだから危ない」と止められました。

私がチュニジアを訪れたのは2010年から2011年にかけての年末年始。
帰国直後にアラブの春の先駆けであるジャスミン革命が起こっています。
観光には何の危険も感じませんでしたが、やはり地元では不穏な空気が流れていたんですね。


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参考文献

世界遺産を旅する2(近畿日本ツーリスト)
21世紀世界遺産の旅(小学館)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。