エフェソス

エーゲ海最大のローマ遺跡エフェソス
貿易都市・文化都市として栄え続けた都市です。
初期キリスト教の貴重な遺跡が残る都市でもあります。
2002年8月訪問

写真はセルシウス図書館。図書館の右はマゼウスとミトリダテスの門。


エーゲ海に面した街イズミールから76キロの位置にあるエフェソスは、かっては海に面した貿易都市でした。
紀元前11世紀にイオニア人が街を築き、古代ギリシャの植民地としてエーゲ海屈指の都市に発展します。その後もアケメネス朝ペルシャの時代にはペルシャのエーゲ海支配の拠点として、アレキサンダー大王登場後は大王の12将の一人の支配下で、そしてその後は、ローマ帝国の支配下で・・・と次々と支配者を変えながら、貿易拠点、商業都市そして文化都市として栄え続けました。


オデオン(音楽堂



遺跡入口から入ってすぐのところは、かっての行政地域。集会や選挙などの政治的活動を行っていたステートアゴラ(行政広場)、金融取引所としても機能していた聖堂、そして音楽堂でもあり議事堂としても使用されていたオデオンが密集しています。上は聖堂からオデオンを見たところ。
オデオンは小さめのローマ劇場といった雰囲気ですが、かっては屋上に木製の屋根がついていたそうです。

エフェソスでは、このオデオンからセルシウス図書館まで「クレテス通り」という道が通っています。見どころの多くはこの通りに並んでいるので、まずはこの通りを歩きながらの見学となります。



メミウスの記念碑

オデオンから、ローマ風の柱がごろごろしているのを見ながらクレテス通りを進みます。


アルテミス神に捧げる聖火をともしていたというプリタニオンの跡を過ぎると、見えてくるのが右のレリーフ。

これはメミウスの記念碑といって、エフェソスがローマ帝国に反旗を翻したときに虐殺されたローマ市民を悼むための記念碑とのこと。

紀元前88年、ローマ帝国の重税に苦しめられていたエフェソスの市民が暴動を起こし、ローマ人を虐殺します。

その後、ローマ軍によって、結局、暴動は鎮圧されるのですが、暴動の際、犠牲になったローマ市民の霊をなぐさめるために、この碑がたてられたとのだそうです。

結局、ローマ帝国の勝利に終わった重税抗議活動。

その後も重税は続いたのでしょうか。

エフェソスの豊かさゆえの悲劇だったのでしょうね。





ドミティアヌス帝神殿

途中、クレテス通りから入ったところにドミティアヌス神殿があります。


ドミティアヌス神殿は、かってはエフェソスの街でも最大級の神殿だったと言われています。現在は数本の柱が残るだけですが、かっては巨大な円柱が連なる壮麗な神殿だったということです。確かに、柱の太さは、かっての偉容を示すものといえるかもしれません。

なんでもドミティアヌス帝というのは1世紀後半にローマ皇帝に即位し、初めは厳格な行政官だったものの、次第に独裁的な政治を行うようになり、最後は奥さんに暗殺されてしまったという人物で、死後は元老院に功績を全て否定され、像もすべて破壊されてしまったのだそうです。いわば消された皇帝ですね。そのため、この皇帝の遺跡はほとんど残っていないので、ここエフェソスの神殿跡は貴重な存在なんだとか。



ヘラクレスの門とニケのレリーフ

クレテス通りにあるヘラクレスの門(左)と、少し離れたところに置いてあるニケのレリーフ(右)
   

「ヘラクレスの門」という名前からは、もっと猛々しいレリーフを想像していたのですが、案外、大人しいヘラクレスの門。4世紀末か5世紀初頭に造られたものです。ニケのレリーフは、かってはこのヘラクレスの門を飾っていたものと考えられているそうです。
ニケのレリーフは人気の記念撮影ポイントで、各国からの観光客で賑わっていました。横に座るとちょうど、ニケに勝利を祝福されている感じになるのが人気の理由でしょうか。 



ヘラクレスの門近くのクレテス通り


円柱あり、彫刻ありの、いかにもローマ風な素敵な通りです。
それにしても凄い賑わい。昔もこうだったのでしょうか。



トラヤヌスの泉

クレテス通りに面したトラヤヌスの泉。

泉と言っても、現在は泉らしきものは見当たりません。

しかし、元々はここに泉があり、その泉を三面から取り囲むように高さ12mの2階建ての建物があったのだそうです。

2世紀に建てられたものと考えられています。

現在、屋根が残っているのは2階部分でしょうか。

トラヤヌスの泉と呼ばれるのは、前門の前にトラヤヌス帝の等身大の像が置かれていたからとのことでした。

右足と胴体の一部が残っているそうですが、よく分かりません。

ただ、ここからは多くの優れた彫刻が発見されているそうです。

寄り添う2人の森の神を描いた彫刻と、アフロディテ女神の像が現在はセルチュクの博物館に収められているということでした。



ハドリアヌス神殿

ハドリアヌス神殿はローマ皇帝ハドリアヌス帝に捧げられた神殿です。

コリント様式の神殿で2世紀に建てられ、4世紀に一度修復されたものを、近時、再び修復したものだそうです。

この神殿は、エフェソスのローマ風建築の最高傑作と言われています。

この神殿のレリーフにはアテナ女神、エフェソスのアルテミス女神、猪を追うアンドロクロス、更には皇帝テオドシウス1世と妻と息子等が描かれているとのことでした。

そして、かっては前門の正面に4人のローマ皇帝(ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス、マクシミアヌス、ガレリウス)の像が立っていたのだそうです。立派な神殿だったんですね。

今も、ともかくレリーフが繊細で美しい。

正面奥の建物で両手を広げているのはメドゥーサ。
そして、手前の門のアーチ型の中央にはティケ女神の胸像のレリーフが彫られています。

もう少し、ゆっくり見学したかった場所です。


正面アーチの上のティケ女神や後ろの両手を広げたメドゥーサをアップで撮ってみました。




セルシウス図書館

クレテス通りを進むとエフェソスの華と言うべきセルシウス図書館に出ます。
2階建ての建物がセルシウス図書館。


元々、ここはローマ帝国のアジア州執政官であったセルシウスの墓所でした。彼の息子が父の業績を記念するために墓所の上に図書館を建造したのです。蔵書数は1万2千だったそうです。

建造時期は2世紀。本来は木と石が組み合わされた建物だったということですが、木造部分が焼失しており、現在残っているのは正面入口部分だけ。それでも大変立派で美しい建物です。

エフェソスはエーゲ海地域で2番目の哲学学校があり、学問の中心でもありました。当時、学問は男性にしか許されなかったので、この図書館を利用したのも、もっぱら男性だけだったそうです。
実は、この図書館のすぐそばに娼婦の館があります。当時の娼婦というのは、女性でありながら、知性と教養にあふれていたのだそうですが、面白いのは、この図書館と娼婦の館が地下道でつながれているという噂。この手の噂というのは、なぜか世界各地の遺跡で聞きますね。


近くに寄って上を見上げてみました。天上も綺麗です。
   


図書館の1階部分には4人の女性像が飾られています。
これはコピーでオリジナルはウィーンにあるそうですが、十分美しい。
女性達は、それぞれ、知恵・運命・学問・美徳を象徴しているとか。
   



マゼウスとミトリダテスの門



図書館のすぐ隣にある門です。
奴隷の身分から解放されたマゼウスとミトリダテスが3世紀に建てたものだそうです。



古代の広告

図書館から娼婦の館を経て大劇場に通じる道をマーブル通りと言い、ここに娼婦の館の広告と言われるものが残っています。

広告と言っても道の石畳に彫られたレリーフ。

足の形とハート形はなんとか見えるでしょうか。

実は、足型の横には、女性の顔が、その下にはお財布が彫られていて、
「女の子が待ってるよ。お財布持って来てね。真心こめたサービス(はぁと)」
・・・・という内容だとかなんだとか。

この足型は、これより小さな人は立ち入り禁止という年齢制限の意味だとか、この道の左手(左足ですね)に娼婦の館があるという意味だとも言われています。



大劇場

図書館からマーブル通りを進むと大劇場に出ます。

収容人数は2万5000人。
舞台から客席の最上段までは60m。
エーゲ海沿岸では最大規模の劇場だそうです。

現在では海岸線は何十キロも離れてしまっているので、ちょっと信じがたいことですが、かっては、この大劇場のすぐそばに港がありました。

かっては、この劇場から港が見えたはずです。

実は、この大劇場は聖パウロのキリスト教布教に対する反対運動が起きた場所でもあります。

エフェソスは、かってこの地方の中心地であったことから、聖パウロは、65年から68年までの3年間、この地で布教活動を行いました。

しかし、エフェソスでは古代からアルテミス信仰が盛んで、アルテミス神像を売って大きな利益を得ていた職人達が多数暮らしていました。
職人達はパウロの布教を怒り、ここで反対運動を起こしたのです。パウロは石を投げられ、投獄されたとも、命からがら逃げ出したとも言われています。



海上貿易で栄えたエフェソスですが、次第に水路が狭くなり、船の航行が困難となって衰退していきます。現在では海は遠く、港町だったころを想像するのも困難となっています。




聖母マリアの家

遺跡近くの山の上に聖母マリアの家はあります。聖母マリアが晩年を過ごし、そこで亡くなったという伝承の地です。

キリストは弟子ヨハネに「自分の死後、マリアを自分の母として世話をするように」と託し、ヨハネはマリアとともにここに移り住みました。
そして、聖母マリアは、ここで64歳で亡くなったんだそうです。

この地方には昔から、そのような伝承が残っていたものの、聖母マリアが実際にどこで亡くなったかは長い間分からないままでした。
キリスト教は、当初はローマ帝国の迫害を受けていたので、マリアを守るためには明らかにしてはいけなかったのでしょう。

それなのに何故ここが聖母マリアの家とされているかというと、なんと、それはあるドイツ人女性が19世紀に受けた夢でお告げが根拠なのです。
お告げを受けたという女性の話を基に調べてみたら、夢のお告げのとおりに6世紀の教会跡や1世紀の壁が発見され、更なる調査の結果、バチカンも聖母マリア終焉の地として公認するに至ったのだとか。
現在、この聖母マリアの家一帯はバチカンが管理しています。

小さな小さな教会なのだけれど、世界中のキリスト教徒が訪れていて、中は凄い熱気。


また、近くには聖なる泉があって、信者が小さな布を巻き付けています。まるで日本の神社のおみくじのようでした。



聖ヨハネ教会

聖書には多くのヨハネが登場しますが、ここのヨハネはキリストから聖母マリアを託されたヨハネ
です。

ヨハネはここで晩年を過ごし、亡くなった後は、この地に葬られました。

ヨハネが亡くなった数年後、墓地の上に建てられた教会が聖ヨハネ教会の始まりとされています。

ユスティニアヌス帝の時代には大聖堂が建設され、6世紀には神聖な巡礼地とされました。

しかし、今は不思議なほど人がいません。
聖母マリアの家の賑わいとは全く異なり、静かな場所となっています。

聖母マリアの人気が高いのはもちろん分かりますが、この聖ヨハネも12使徒の一人だし、キリストに最も愛された若い弟子とも言われているのだから、もう少し人が来てもいいのではないでしょうか。

確かに、この教会はイスラム教徒やモンゴル軍の侵攻により破壊され、残っているものは少ないですが、それでも古い時代の洗礼を行った場所など興味深いものが残っています。




エフェソス考古学博物館

エフェソスからの出土品を展示するエフェソス考古学博物館で見逃せないのがアルテミス像です。
エフェソスの語源は「地母神の王国」という意味の「アパサス」に由来します。この大地母神信仰とギリシャのアルテミス信仰が結びつき、エフェソスでは大地母神アルテミスの信仰が盛んとなり、紀元前625年に完成したアルテミス神殿はフィロスの世界七不思議の一つとしてピラミッドにも劣らぬと賞賛されたと言います。
このような歴史からエフェソスでは独特のアルテミス神像が生まれています。特徴的なのは胸。
ご覧のように胸にいくつも乳房とも卵とも言われているものが付いているのです。 

   

本当に不思議な姿です。しかし、見た感じでは乳房というのは無理があるような・・・卵というほうが自然な気がします。エフェソスのシンボルがミツバチだったことから、ミツバチの卵説もあるそうですが、その方が自然な気がします。また、足には動物がいくつも彫られていて、これらは全て豊穣のシンボル。右のアルテミス神像は頭上に柱を乗せているけれど、これもエフェソスのアルテミス神像の特徴のひとつなのだそうです。

もちろんギリシャ・ローマ様式の彫刻も数多く展示されています。
左はアフロディテだそうです。美しいですね。
   



アルテミス神殿

エフェソス観光の最後にアルテミス神殿に立ち寄りました。
とはいえ、残っているのは僅か1本の柱のみ。

最初のアルテミス神殿は紀元前7世紀に建てられたもので、その後、前6世紀に建てられた神殿は高さ20mの柱が127本も立ち並ぶ巨大なもので、その広さは200m×425mだったといいます。

この神殿は狂人の放火により焼失し、アレキサンダー大王がエフェソスに入ったときは、ちょうど再建中でした。
大王が「自分の名を刻んだ記念碑を作れば修復費用を全部出す」と申し出たのに対し、エフェソスの人たちが「神である大王が他の神を祀る神殿を造るのは」と言って上手く断ったというのは有名な話です。
その後、前4〜3世紀に再建された神殿もギリシャ式神殿として当時の世界最大規模を誇りました。

何度も再建を続けたアルテミス神殿ですが、後262年のゴート人の侵略により破壊された後は再建されることはなく、ローマ帝国がキリスト教の国教化を図るようになってからは、神殿は閉鎖され、巨大な柱等は切り出され、他の建造物に利用されるようになります。

1本のみ残る柱はエフェソスの衰退を象徴するもののようにも思えます。



実に見ごたえがありました。
隠れ世界遺産と言われるだけのことはあります。
遺跡には人だけでなく猫もたくさんいました。


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参考文献

エフェソス(トルコにて購入)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。