マヤパン

チチェン・イツァー衰退後に栄えたマヤパン
いわばマヤ最後の大国です。
メリダからのツアーで訪れました。
2014年3月訪問



写真はククルカンのカスティージョと円形の神殿

マヤパンはメリダの街から60キロ、車で1時間ほどのところにあります。チチェン・イツァーの衰退後に勃興した都市で、チチェン・イツァーはマヤパン王フナック・ケエルの陰謀で滅んだという伝承もあります。

ココムという一族が支配し、臣下の領主たちを都に住まわせ、彼らの領土からの貢物を受け取って栄えていました。しかし、1441年ココム家のライバルであるシウ家がマヤパンを攻め、ココム家の人々を虐殺します。その後、領主たちは自分の領土に都を構え、マヤパンは放棄されました。マヤパン滅亡後のマヤは小国に分かれ小競り合いを繰り返すことになります。

マヤパンはマヤ最後の大国なのですが、遺跡の評価は「チチェン・イツァーの稚拙な模倣」といった否定的なものばかり。確かに上の写真でも分かるように、チチェン・イツァーのカスティージョ(ククルカンの神殿)やカラコル(天文台)に似た建物が並んでいますし、規模もチチェン・イツァーとは比較にならないほど小さい。最初は「稚拙な模倣」というのも最もな評価かと思ったんですが、良く見ていくと興味深い壁画やレリーフも残っていて、なかなか馬鹿にしたものではありません。


遺跡の入口は北側にあって一番奥・南にカスティージョがあります。
狭い遺跡なので、カスティージョに登ると遺跡の全貌が分かります。
まずはカスティージョ頂上から遺跡入口方向(北)を見たところ。
カスティージョ前の広場を挟んで建つのが壁龕の神殿、右奥の屋根のあるのが漁師の神殿。




反時計回りに見てみます。
遺跡の北西方向。建物の基壇が幾つも残っています。奥に神殿?




遺跡西側。柱が並びます。チチェン・イツァーの千柱の回廊・市場に似ています。




南側。ほとんどジャングル。




東側。円形の神殿と、その右側に隣接する仮面の広場




北東部分。左の高いところの屋根があるのが漁師の神殿、右側の屋根の下にはレリーフ。


ぐるりと一周しましたが、これが公開されている遺跡全貌。印象としては狭い場所にチチェン・イツァーの建物に似たものを幾つもぶちこんだ・・・・といった感じ。ここらへんが「稚拙な模倣」と言われる由縁なんでしょうね。時代が下ると完成度が下がるというのはどういうわけなのでしょう。まあ、チチェン・イツァーに影響を与えたというトゥーラの遺跡も、どう考えてもチチェン・イツァーに劣るし、チチェン・イツァーが別格なだけかもしてませんが・・・。

とにかく狭いです。現地ガイドさんは周囲9キロあったんだと力説していましたから、きっとジャングルの中に色々埋もれているのでしょう。それでも建物の密集度はチチェン・イツァーに比べると桁違い。古代マヤ王歴代誌では「狭い城壁の中に居住者がひしめく都市だった」と書かれていましたが、納得できる感じ。



ククルカンのカスティージョ



遺跡で最初に見学したのは、このククルカンのカスティージョ。現地ガイドさんの説明を聞くまでもなく(というか英語ガイドなので理解に限界あり)、チチェン・イツァーのカスティージョを模倣したものとしか思えない造り。チチェン・イツァーと同じく9段からなっていて高さは15m。24mのチチェン・イツァーのカスタージョに比べ、ずんぐりむっくりしている・・・といった印象を受けます。頂上部分は復元されておらず、階段の復元も途中といった感じ。

でも、現地ガイドさんは「ここでもククルカンの降臨は見られるんだよ!」と力説していました。

階段の下にあっただろうククルカンの首はありませんでした(左下)が、
頂上に登るとククルカンの尻尾部分だったであろう柱が少し残っています(右下)。
   


でもマヤパンの面白さはディティールにあります。まずはカスティージョの東部分、屋根で保護されている下には壁画が残っています。私のつたない英語ではガイドさんは放血儀式と説明したような気がするんですが、日本で読んだ本ではカラフルな戦士たちと紹介されるいるみたいですし、正直よく分からない。人物が並んでいる感はあるんですが。

   



壁画から更に裏(南)に廻ると、なんだこれは、というレリーフが屋根で保護されています。
どうやら古い時代の基壇みたいですが、奇妙な人物像が・・・



人物部分を、ちょっと拡大してみます。


人の頭部分が四角い穴になっているレリーフ。

南に回り込むと、更に2つあります(右)。

上の写真なんかは人の左右に、ちょっとカワイイ鳥のレリーフもあるんですが、ユニークというよりはやっぱり不気味・・・・。手から何か生えてるの?
胸の部分が肋骨のようにも見えるし・・。
でも、右の写真の下の基壇の人物にはおへそがあるようにも見えるし(単なる穴?)・・・。

ガイドさんはトルテカの影響と説明していました。
そして、更なるガイドさんの説明は、予想通りというか・・・この四角い穴から頭蓋骨が発見されているんですって。

ガイドさんは「プリースト」と主張していました。
神官の頭蓋骨ということ?でも、生贄だという説もあるみたい。

ただ、ここまでの手間をかけて埋めたというのは、やっぱりその頭蓋骨を尊重したからなんではないでしょうか。私達とは全く異なる価値観の彼らの心情は理解しずらいですが・・・


更にカスティージョの裏を進むと、屋根で保護された変な彫刻のところにでました。

なぜか、メモを取り忘れたんですが、確かトカゲと説明された記憶が・・・

トカゲのしっぽがあるのを確認した記憶があるので間違いないとは思うのですが・・・。

う〜〜ん。これは何なんだろう。

日本に帰ってから調べたんですが、結局、よく分かりませんでした。
本当に変わったものが多い・・。



円形の神殿

入口から見てカスティージョの左(東)側に円形の神殿はあります。



この建物、ちょっと見た感じはチチェン・イツァーのカラコルにそっくりです。

カラコルというのはチチェン・イツァーの中でも旧チチェンと呼ばれる古典期後期の建物群の中にある建物で天文台と考えられているものです。

内部に階段があり、幾つかある窓から天体観測をしていたと考えられている建物で、その内部構造が「かたつむり」みたいということで名付けられたのですが、マヤパンのこの建物、内部はこんな感じ(右)。階段もないし、窓もない。

現地ガイドさんによると、これは天文台ではなく、お墓なんですって(tombってお墓ですよね)。

こんな形のお墓は珍しいんじゃないでしょうか。

なんというか形だけでも古典期マヤを真似れば良いと考えていたというか・・・。




仮面の広場

円形の神殿に隣接する南側が(チャーク神の)仮面の広場です。



この広場、良く見るとチャーク神の仮面がいくつか並んでいます。

チャーク神は、チチェン・イツァーでも古典期後期の建物群である旧チチェン(600〜800年ころ)や、同じく古典期後期のウシュマル(750〜1000年)、更には古典期後期から後古典期に栄えたカバー(800〜1200年)などで良く見られる神です。
特にカバーでは全面にチャーク神の顔をびっしりと並べた仮面の神殿という建造物が造られたほどです。

チャーク神は、これまで一般に雨神と考えられてきましたが、近時は大地の神という説も有力です。

マヤパンが栄えたのは1200〜1400年ころでチャーク神信仰が盛んだった時代より随分と後なのですが、ここでも信仰されていたんですね。

マヤパンでは懐古趣味というか、マヤ古典期を真似て石碑を作ったりする傾向があったそうで、もしかしたら、このチャーク神もマヤパンの懐古趣味のひとつの現れかもしれません。



チャーク神の仮面。右下の写真には長い鼻も写っています。
   


でもマヤパンはやっぱりちょっと違う。
チャーク神の仮面の広場には下の写真のような建造物があるのですが
さて、中央の円柱のようなものは何でしょう?


私は祭壇か何かかと思ったんですが、そんな甘いものではなかった。なんと、この円柱にいけにえをくくりつけたんだそうです。うう怖い。やっぱりトルテカの影響が大きいんですね。この広場にはトルテカ風の人物頭部も残っています。


広場の端からカスティージョと円形の神殿を見たところ。
カスティージョの横に木がありますが、そこに小さなセノーテがあります。


セノーテのそばで、いけにえの儀式をしたのでしょうか・・・。



王の広場

カスティージョの西側。仮面の神殿の反対側です。


カスティージョの上から見た時は、円柱が幾つも並び、チチェン・イツァーの千柱の回廊(市場)のミニチュア版のように見えたのですが、良く見ると人物の足なども残っています。かっては戦士の像のレリーフがあったのでしょうか。そうだとすると、むしろチチェン・イツァーの戦士の神殿前の柱群に似ていたのかもしれません。ちなみにカスティージョに登るのは、ここに面した階段が良いです。



壁龕の神殿

カスティージョに面して建つ壁龕の神殿


この神殿、他の団体客が中を覗き込んでいたので、何かあるに違いないと思い、近寄って覗いてみたのですが、金網があるだけで中は良く見えませんでした。壁画があったみたいなんですが、英語力の欠如が惜しまれます。やっぱり英語勉強しないとダメだなあ。



そろそろガイドさんは帰り支度なのですが、せっかくなので勝手に寄り道しました。

この遺跡では屋根があるところには必ず何かがあるので、まず遺跡東側にある屋根の下を覗いたところ、こんな感じ。

ここはガイドさんもよく分かっていなかったみたいで(単に英語が分からない客相手にやる気をなくしていたのかもしれない)、説明がありませんでした。

さて、何なんでしょ。
円柱のようなものが左右にあるのですが・・・。



漁師の神殿

最後に入口近くの高台にある屋根の下を覗きました。
おお、ここは凄い。



ガイドさんは魚という。そんなことは見れば分かる。

他にワニ?人間?
カラフルな魚と鮮やかなマヤブルーが見事。
これほど見事なのに、実は周囲を囲ってあって良く見えないんですよ。
むしろ見せまいとしている感じ。
隙間から写真を撮ってます。



小さな遺跡で見学時間は1時間ちょっと。
チチェン・イツァーの稚拙な模倣という評価をもっとも・・・と思う一方で
トルテカの影響とマヤの懐古主義が入り混じる面白さもあります。

ただ、あんまり人が来ないせいかサービス精神が今一つ。
遺跡入口の地図はすっかり消えていたし、
壁画はもっと見せる工夫をして欲しい。



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参考文献

マヤ文明(中公新書) 石田英一郎 著
古代マヤ王歴代誌(創元社) 中村誠一監修
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社) 芝崎みゆき著
マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行(草思社) 芝崎みゆき著

基本的に現地ガイドさんの説明を元にしています。
建物の呼称等は芝崎みゆきさんの本を参考にしました。