火焔山とベゼクリク千仏洞
トルファンの東に位置する火焔山
火焔山の中にあるベゼクリク千仏洞
トルファンでは見落とせない場所です。
2015年5月訪問

写真はベゼクリク千仏洞入口前の火焔山


火焔山はトルファンの街の東側にある丘陵です。丘陵と言っても高さは平均500m、東西約100㎞、南北10㎞にも及びます。トルファンの位置するトルファン盆地は世界でも死海につぐ低い海抜の地で、最も低い所は海抜マイナス154m。夏は猛烈な暑さとなり、トルファンで観測された最高気温は49,5度。その暑さから火州とも呼ばれます。火焔山という名前は、夏になると赤く燃えているようにみえることから付けられたもの。西遊記にも出てくる中国でも有名な観光地です。



トルファンは緑豊かなオアシスで、葡萄でも知られる場所ですが、市街を抜けるとすぐに周囲は土漠というか石と礫の荒涼とした大地に変わります。現地ガイドさんの話では最近石油が出たので道が整備されたし、開発も進んだとのことですが、なかなかどうして荒涼とした地です。

火焔山も、すぐに見えて来ました。「山」と言っても延々続く丘陵で、途切れることはありません。

トルファンの街方向から見る火焔山は上の写真や右の写真のように、幾つものひだの入ったような、しわしわに見えます。これは太古からの地殻の褶曲によるもの。

現地ガイドさんによると、赤く見えるのは、大体、6月から8月の間とのことです。

火焔山に見とれてたら、孫悟空の像が見えました。火焔山は西遊記では燃え盛る焔に三蔵法師一行が行く手を遮られ、火を消すことができる芭蕉扇を求めて、悟空が鉄扇公主と戦ったというお話の舞台です。

このため、中国でも観光地として人気があるので、火焔山の近くには観光客目当ての悟空の像が幾つもあるのだとか。

現地ガイドさんによると、右の悟空は一番新しい悟空とのこと(2015年現在)。


しばらく進んでから、バスは道を折れて、火焔山の内側に入って行きます。
少し景色が変わってきました。しわしわが無くなって、赤くなってきました。
   


途中、なにやら怪しげな景色。
ここにも悟空の像があります。
お土産屋さんだったらしいんですが、今は閉鎖されているとのこと。
   


ベゼクリク千仏洞の駐車場に着きました。
ここにも悟空たちの像が立っています。



そして、目の前には赤い火焔山。
なんというか、イメージとおり。



駱駝が何匹も客待ちしていました。こぶが二つのふたこぶ駱駝です。
近くで写真撮影するだけなら10元。上の方まで行くと50元。
油断すると上の方に連れて行かれて50元請求されるみたいです。
   


悟空たち、三蔵法師一行の像
悟空は火焔山の火を消す芭蕉扇を持っています。



この悟空たち、結構出来が良い。このあたりで一番最初に作られた悟空像らしいです。
   

火焔山でのお遊びはこれくらいで、ベゼクリク千仏洞を見学。



ベゼクリク千仏洞



ベゼクリク千仏洞はトルファンの北東約50㎞、火焔山の山中を流れるムルトゥク川の沿ったオアシスに造られた石窟寺院です。河沿いの弓型の断崖に築かれました。6世紀の麴氏高昌国時代から造られ始め、13世紀元の時代まで造られ続けました。最盛期は9世紀の高昌ウイグル王国(高昌回鶻)時代。現存する83の窟の多くが高昌ウイグル王国時代に造られたものです。

川沿いの弓型の断崖に築かれているのですが、日干し煉瓦で洞窟を造り、窟頂をドーム型にするという独特の建築様式をしています。上の写真のドームや下の写真の日干し煉瓦が分かるでしょうか。下左の写真は、僧坊だったと考えられています。

   


この先の石窟が現在公開されている石窟
見学できるのは6窟のみ。どこが見学できるかは当日にならないと分かりません。
そこらへん、さすが中国。



失われた壁画

まずは20窟。ここでベゼクリク千仏洞の歴史を学びます。


ベゼクリク千仏洞の「ベゼクリク」とは「綺麗な絵で飾られた家」という意味なのだそうです。かって、ベゼクリク千仏洞の多くの石窟は美しい壁画で飾られていました。

しかし、この地にイスラムが入ってくると、偶像崇拝を禁止するイスラムによって、千仏洞の壁画の多くは泥を塗って隠され、人物の顔は破壊されてしまいます。

その後、20世紀にドイツの調査隊によって、素晴らしい壁画が発見されますが、ドイツ隊は多くの壁画を剥ぎ取り、本国に持ち帰りました。
ドイツ隊は3回に渡りこれを繰り返したといいます。

他にもイギリス・ロシア・・・、そして日本の調査隊も同様に壁画を持ち帰ります。そのため、ベゼクリク千仏洞の優れた壁画はほとんど現存していません。しかも、ドイツ調査隊が持ち帰った優品は第二次世界大戦で焼失したというのですから、なんとも痛ましい話です。
更に破壊は中国の文革でも行われました。

左の写真は、かって20窟(10世紀)を飾っていた「仏本行経変図」の絵葉書。



20窟はドイツ探検隊がほとんどの壁画を持ち去ったため、今では下の方に足元を描いた壁画が僅かに残るだけです。

クチャのキジル千仏洞はギリシャ・ローマ・ペルシャ・インドの影響が濃厚でしたが、ベゼクリク千仏洞では中原の影響が濃厚です。なんとも、中国風ではありませんか。もちろん、壁画に描かれている人物には中原だけでなく異国風の人物もいるのですが・・・。


15窟(10世紀)、ロシア探検隊剥取(絵葉書)



奪われた壁画の中には当時の風俗を描くものもありました。
8世紀ころのウイグル族貴族を描いた「回鶻供養人図」(ドイツ探検隊剥取)
(新疆ウイグル自治区博物館写真展示)



20窟で説明を聞いてから、27窟・31窟・33窟・34窟・35窟・39窟を見学しました。
あれ、6つしか見学できないはずが7窟見学してます。20窟は数に入らないのかな・・・。


ベゼクリク千仏洞も中国の他の石窟同様に石窟内部の写真撮影は厳禁です。

27窟は7世紀に作られ11世紀に作り直された石窟。左右の壁にはかっては各3体の説法図が描かれて、天井は千体仏で飾られていたということですが、イスラムによって泥が塗られてしまって、余り良く壁画を見ることはできません。

ベゼクリク千仏洞の壁画の破壊については聞いていたので、どの壁画も保存状態が悪いのだろうと正直、余り期待していなかったんですが、次に見学した31窟(11世紀)では説法図の1つの泥が落とされていて、美しい壁画を見ることができました。

右の写真が、その説法図。絵葉書になっていました。余り良い状態の絵葉書ではなかったのですが、肉眼で見た壁画の様子と非常に近い気がします。泥の落とし方が、十分ではないので、実際に見た感じも、こんな感じです。

日本の技術で何とかならないのかなあ、とも思いますが、やっぱり泥の落とし方によっては本来の壁画を傷つけてしまうでしょうし、色々と難しいのでしょうね。
この窟には釈迦の死後、八つの国が釈迦の骨を取り合ったという八王分舎利図もあるのですが、余り保存状態は良くありません。

しかし、次の33窟で見事な八王分舎利図を見ることができました。

33窟

八王分舎利図


33窟も11世紀に造られました。入口から入って正面奥に八王分舎利図が見事に残っています。

八王分舎利図とは、お釈迦様が亡くなった時、近隣八ヵ国の王が集まったことを描いたもの。
八ヵ国の王は、それぞれがお釈迦様の舎利を求めたため、戦争になりそうになりますが、「争うことは、お釈迦様が一番嫌ったことだ」とのバラモンの一言で、八ヵ国の王は舎利を8つに分け、それぞれの国にストゥーパを建てて祀ることとします。

いわば、これはお釈迦様が涅槃に入った際の情景。

実際の王達はインドの王達なのですが、ここでは異国風の王達になっています。

元々は下に涅槃図が描かれていたらしく、周囲には泣く人々や笑う弟子が描かれています。

弟子は悟っているから、お釈迦様が涅槃に入ったことを喜んでいるのだということですが・・・

他に窟の両側には説法図、いくつか綺麗な人物像が残っているので見惚れていたら、その絵葉書がありました。左がその絵葉書。綺麗です。

ベゼクリク千仏洞では赤が印象的ですね。

34窟(11世紀)には天井に千仏画が残り、35窟は小さな座禅窟でした。

39窟(12世紀)は天井に千仏画、両側に説法図という他の窟と似たような構造ですが、かって正面に須弥山が再現してあったそうです。


ベゼクリク千仏洞、破壊されつくされたと思っていただけに
意外と残る壁画に感動。
でも、本来の物が残っていたら素晴らしかったんだろうなあ。


トルファンに帰ると緑に癒されます。
葡萄はトルファンの名物。街中にも葡萄棚ができています。
   

トルファン、素敵な街でした。
もう1泊したかったな。


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参考文献

玄奘三蔵 岩波新書 前嶋信次著
玄奘三蔵、シルクロードを行く 岩波新書 前田耕作著
シルクロード・新疆仏教美術 新疆大学出版社
新疆国寶録 新疆人民出版社漢文発行所

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。