ヒヴァ(イチャン・カラ)

ヒヴァ・ハーン国の首都だったヒヴァ
城壁に囲まれた古い街並みは世界遺産となっています。
2007年8月訪問

写真はクニャ・アルク見張り台からの景色


ウズベキスタンの西を流れるアムダリヤ川流域は昔から「ホラズム(太陽の国)」と言われ、いくつもの王朝が栄えてきました。キジルクム砂漠・カラクム砂漠と砂漠に囲まれていますが、アムダリヤ川によって砂漠のオアシスとなったからです。

ティムール帝国が衰退した16世紀ころ、ホラズム地方にはウズベグ族の国が興り、当初は近くのクニャ・ウルゲンチ(現在はトルクメニスタン)が首都とされましたが、アムダリヤ川の流れが変わったことから1592年にヒヴァに首都が移されました。以後、ヒヴァはヒヴァ・ハーン国の首都として、そしてシルクロードのカスピ海方面への脇道のオアシス都市として繁栄し、「中央アジアの真珠」と評されるようになります。しかし、19世紀末からロシアの介入を受けるようになり、ついに1920年、ロシアの支配下に入りました。



ヒヴァの街は二重の城壁で囲まれていて、外側の城壁を「ディシャン・カラ(外城)」、町中の内側の城壁を「イチャン・カラ」といい、ディシャン・カラ(外城)はほとんど破壊されてしまったものの、イチャン・カラ(内城)の中は昔のままの宮殿・モスク・メドレッセ・街並みが残っています。内城が無傷で残っているのは中央アジア・西アジアでイチャン・カラのみ。そのため、イチャン・カラは丸ごと世界遺産となっています。


城壁



イチャン・カラには東西南北に入口がありますが、正門となっている西門から入ることになりました。間近でみると、城壁はやはり迫力があります。

この城壁、半円形の出っ張りがいくつも繰り返す形で造られています。基部の厚さは6m、高さは8m、城壁の長さは2.1kとのことでした。城壁は煉瓦で出来ていますが、なんと、この中には戦死者の骨も埋められているのだそうです。死しても城を守る・・という当時の風習だったのだとか。

もっとも、西門付近にはシルクロードを説明した大きな看板(上で使った地図)や、ヒヴァで生まれた科学者ムハンマド・アル・ホレズミの像などが置かれていて、いかにも観光地、という雰囲気も漂っています。

西門



ヒヴァの入口。西門です。
ここを入れば、街中が世界遺産のイチャン・カラです。



ムハンマド・アミン・ハーンのメドレッセとカルタ・ミナル


西門をくぐってすぐ右側にあるのが、ムハンマド・アミン・ハーンのメドレッセと未完のミナレットであるカルタ・ミナル。

メドレッセは19世紀に完成したもので、中央アジア最大級の神学校だったとのこと。

ソ連時代はソ連のオフィスとして利用されていて現在はホテル・レストランになっています。

メドレッセの前にはお土産屋さんが並んでいて、この地方特有の毛皮の帽子を売っていました。

メドレッセも青くて美しいですが未完のミナレットも綺麗です。
青っぽいグリーンの色がなんとも言えません。

ミナレットが未完になった理由は、建築していた王が死んだからとか、完成すると職人が殺されると聞いて職人が逃げちゃったから、とか色々言われているそうです。

ミナレットの現在の高さは26m。中断せずに完成していたら70〜80mくらいになったとのこと。
完成してたら、凄かったでしょうね。

メドレッセの入口
 
 ミナレット



クニャ・アルク(クフナ・アルク)

ムハンマド・アミン・ハーン・メドレッセやカルタ・ミナルと道を挟んで反対側にあるのがクニャ・アルク(クフナ・アルク)。「古い宮殿」という意味です。

クニャ・アルクは城壁で囲まれていますが、その前の広場は、かっては公開処刑の場だったということで、中央に首切りの時の血を流す井戸が残っています。イスラムだけあって、不倫でオンナは石打の刑、オトコは縛り首。ハーレムにオトコが入り込むと、なんと「逆さ生き埋め」だそうです。ミナレットから罪人を突き落とすというのは19世紀まで行われていたとか。もっとも公開処刑は5年に1度くらいで、治安引き締めのためにやったとのことですが・・・。

クニャ・アルクの中に入ると牢獄とかも残っている。牢獄の中では人形が足かせ嵌められて座ってます(笑)。処刑を描いた説明の絵なんかも飾られていて、ちょっとコワイ。

奥に進むと、謁見の間があります。

ここの作りはウズベキスタン様式ともいうべき、この地方独特のもの。

テラスのようになっているところに、2本の木の柱があり、それが屋根を支えるような造りになっています。

このようなテラスを「アイヴァン」と言うのだそうです。

タイルはとても綺麗ですし、天井も鮮やか。
木の柱にも細かい彫刻がなされています。

写真にも一部写っていますが、この奥の部屋に通じる3つの入口があり、身分に応じて使う入口が決められていたのだとか。

面白いのは、この謁見の場に向かい合う庭に丸い台座があって、冬になるとそこに遊牧民族の天幕(ユルタ)が作られたということ。

ハーン(王様)は建物に居るより天幕に居ることを好んだのだそうです。

いかにも遊牧民族の国らしいですね。


この宮殿、他にも造幣局とかモスクとか色々見どころはあります。
タイルも実に美しい。

   


でも、一番楽しいのは、なんといっても見張り台。
左はカルタ・ミナルとムハンマド・アミン・ハーン・メドレッセ、その手前は宮殿の謁見の場
右は城壁。なかなか曲線が美しい。煉瓦で強度を保つにはこの曲線が大事なのだそうです。

   


見張り台からはイチャン・カラが一望できます。



色々なミナレットがありますね。
いい景色ですが、逆光になってしまうのが残念。



イチャン・カラでは砂漠の炎天と熱風を避けるため建物は太陽に背を向けて建っているのだとか。



ムハンマッド・ラヒム・ハーンのメドレッセ



宮殿を出て、公開処刑の広場を挟んで宮殿の向かいにあるムハンマッド・ラヒム・ハーンのメドレッセに。

ここはヒヴァ・ハーン国の歴史博物館になっています。左下はヒヴァ・ハーン国末期のハーンと息子の写真。頭に被っている帽子はこの地方独特の毛皮でできた帽子。冬暖かいだけでなく、夏の暑さからも頭を保護するそうです。今もヒヴァのいたるところで、お土産用に売っています(中央)。
右下は中庭でやっていたアクロバット。ロシア風の金髪の少年3人で、10ドル集まると演技開始。始めは見るのどうしようかと思ったんですが、立ち去ろうとしたら彼らが悲しそうな顔をするんで、結局10人で1ドルづつ払って見学しました。結構、面白かったです。

     



パフラヴァン・マフムド廟

パフラヴァン・マフムドはヒヴァの守護者とされる人。

なぜ守護者とされるかというと、彼はレスリングが強くて、インド人が攻めてきたとき、レスリングでやっつけ、インド人を撤退させたからなのだそうです。そのとき、奴隷も解放したとか。

しかも、彼は強いだけではなく、詩人でもありました。
まさに文武両道の豪傑といったところ。

元は靴職人だったということですが、ヒヴァの人たちから敬愛されて、廟ができ、偉い人のそばに葬られると一緒に天国に連れて行ってもらえるという信仰から、周りにたくさんのお墓ができました。

それだけでなく、この廟の手前の井戸の水を飲むと幸せになるというので、地元の人たちがペットボトルを持って来ています。写真の廟の前の白っぽく光る屋根のところに井戸はあります。私達が飲むと、お腹が大変なことになりそうですが、舐めた人の報告によると、どうやらしょっぱいらしいです。

私達が観光中、ここで結婚の祝福を受けに来た新郎新婦がいましたが観光を終えて帰ろうとしたら、次々と別のカップルが・・・。今でも大人気のようです。

   



イスラム・ホッジャ・メドレッセとミナレット

イスラム・ホッジャ・メドレッセとミナレットは20世紀になって、ヒヴァ最後のハーンの大臣であったイスラム・ホッジャが建てたものです。

ヒヴァで最後に建てられた建造物であり、また、このミナレットはヒヴァで一番高いミナレットでもあります。

高さは45m。階段は118段。

この大臣は開明的で非常に人気があったのですが、ハーンに疎まれて生き埋めにされてしまったのだそうです。生き埋めが好きな人たちです。

開明派はそうやって消され、結局、ロシアに滅ぼされたわけですね・・・。まあ、彼が消されなかったとしても、歴史の動きは止められなかったのかもしれませんが。

ところで、このミナレット、登ることができます。
普段なら登るのですが、だいぶ、暑さでへばってるので、午後の観光に備えて体力温存のため登らないことにしました。
登った人によると、一番上で、女の子がミネラルウォーターを売っていたそうです。

ヒヴァで一番高いミナレットだけあって、街角の色々なところから眺めることができます。
   


このミナレットの周囲にはお土産屋さんや民芸品の工場があって楽しい。
   



ジュマ・モスク(金曜モスク)

ジュマ・モスク(金曜モスク)とは、その街で一番のモスクのこと。
ヒヴァのジュマ・モスクは東門と西門の中間あたりに位置します。
このモスク、外見は地味なのですが、入ってみるとびっくり。



ご覧のとおり、このモスク、内部は無数の木の柱が立っています。柱の数、なんと、212本。
天窓から差し込む光で、柱のシルエットが浮かび上がり、なんとも言えない神秘的な雰囲気です。
10世紀に建てられ、その後、火災で焼失したのを再建したものだそうですが、ヒヴァで最古の建造物。柱は1本1本、彫刻が違い、中にはインド風のものもあったりして、見比べるのも楽しい。

   

そもそも、周囲が砂漠のヒヴァでは木材というのは贅沢品です。財力を誇る意味もあったのでしょうか。しかも、説法者から全員の顔が見えるように工夫されていて、柱と柱の間は3・15mとされているのだそうです。



タシュ・ハウリ宮殿

タシュ・ハウリ宮殿は東門に近いところにあります。タシュ・ハウリとは「石の屋敷」という意味。西門横のクニャ・アルク(クフナ・アルク)が公務をしたりする場所であるのに対し、こちらはプライベートな宮殿という色彩が強いとのこと。

入口に前の道は、かってハーンが馬車を走らせたという石畳の道が残っています。轍の跡も残っていて、もしかしたら、ハーンの馬車のものかもしれません。

謁見の間

ここにも謁見の場があって、やはりアイヴァンが見事です。ただ、ここは柱が1本だけでした。
アイヴァンに対面する庭に、天幕(ユルタ)が作ってありました。中に入ると、結構、居心地が良さそうです。しかし、謁見の場というか宮殿内に、こういうものがあるのって・・・本当に騎馬民族なんですね。

   

ここのタイルも見事。

   


くつろぎの間

更に進むと、今度は宴会を行った場所に出ます。ここは「くつろぎの間」と呼ばれる場所。



ここもアイヴァンと中庭になっていますが、面白いのは中庭に天幕(ユンタ)を作る丸い台座が2つあること。陽射しが強くて影になってしまってるけれど、右側にも丸い台座があります。

現地ガイドさんの話では、夏には、この庭で踊ったり、食事をしたりし、冬になると天幕(ユンタ)を張って、そこで宴会をしたのだそうです。庭を囲む壁にはルバイヤットの詩がアラビア語で描かれているそうな。また、ここのアイヴァンの奥の部屋は客用寝室ということでした。


ハーレム

最後はハーレム

中庭に面して南側にハーンの母・姉妹と4人の正妻のためのアイヴァンが並んでいます。



正妻たちのアイヴァンの向かい側(北側)は2階建てになっていて侍女達の部屋等になっていました。



正妻たちのアイヴァンは青を基調とするタイルが繊細で美しい。天井はアイヴァンごとに色が変わって(赤や黄色など)、妻達ごとに配慮があるのかもしれません。凄い綺麗です。

   


でも、奥の部屋に入ると呆然としてしまいます。

このアイヴァンの奥には小さな部屋が2つしかありません。

身体を洗う部屋と、その奥の寝室だけ。
どちらも狭く、暗い。

何よこれ、牢獄と大差ないじゃん。

こんなところ、押し込められたら地獄だろうね。
頼まれたって嫌だね、頼まれないだろうけど、というのが女性陣の共同見解でした。

ハーレムというと男性には、ちょっとロマンな響きなのかもしれないけど、実態を知ると、本当にむごいものです。

しかも、なんとハーンは、くつろぎの間の奥の客用寝室に手をつけた侍女達を引き込んでいたというのだから、まったく・・・。

ハーレムの一部、かって台所だった場所は現在、博物館になっていて、かっての職人たちの仕事が人形を使って説明されています。



東門

最後に東門。不気味な雰囲気



実は、ここは19世紀末まで、奴隷市場だったところ。通りの両脇には今でも奴隷達を押し込んでいた鉄格子が残っています。
ここで売られていた奴隷にはロシア人もいて、ロシア人奴隷の解放がロシア介入の口実にもなっていたらしい。しかし、ロシア人の奴隷を売買するウズベク人たち・・・ちょっとイメージが変わったかも。歴史って奥が深いですね。



ヒヴァの夕暮れ

夕食の前に、もう一度、クニャ・アルクの見張り台に昇りました。
夕陽がヒヴァを美しく照らしていました。




城壁が赤く染まってきました。夕食のため見張り台を下りるとカルタ・ミナルも夕陽に染まっています。

   


夕闇が迫ってきているようです。




そして、夕食の後は美しい夜空が・・・。




ヒヴァの街はおとぎ話の世界のようでした。
暑くて、午後の数時間は観光も休みましたが
世界遺産でお昼寝というのも贅沢だった気がします。


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参考文献

世界遺産を旅する10(近畿日本ツーリスト)
イスラムの誘惑(新潮社)
21世紀世界遺産の旅(小学館)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。