シャフリサブズ

ティムールの生まれ故郷シャフリサブズ
かっては「ケシュ」、緑の街と呼ばれていました。
2007年8月訪問

写真はアク・サライ宮殿址


シャフリサブズはサマルカンドの南約70キロに位置します。小さな街ですが、古代からオアシス都市として栄え、「ケシュ」「緑の街」と呼ばれました。緑が豊かな場所だったのでしょう。7世紀には玄奘も訪れているそうです。

ティムール帝国を築いたティムールはこの街で生まれ、帝国を築いてからは故郷を帝国第2の都市へと発展させます。16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによって街は破壊され、ティムールが建てた夏の宮殿アク・サライも入り口付近しか残っていませんが、今は周囲が大きな公園になっていて、ティムール像が飾られています。
ティムール像の周囲は凄い人波。新婚カップルとその親族・友人達が次々と現れます。皆さん、ティムール像のところで記念写真を撮るために来ているとのことで、ティムール、凄い人気です。


現地ガイドさんの語るティムールの人生

「ケシュの近くで1336年に生まれた」

「トルコ化してイスラム化したモンゴル族」・・・・ここらへんの人種はよく分からないですね(汗)。

「5代前はチャガタイ・ハンとともに移住したモンゴル族でチャガタイ・ハンの側近・有力者だった。でも、ティムールのころは3・4人の従者しかいないほど没落していた」
・・つまり没落貴族。ドラマの主人公になりそう。

「当初は、ティムールは盗賊団の首領で略奪を繰り返していたけれど、分裂していたチャガタイ・ハン国を統一した」
・・・盗賊団の首領ですか!!ちょっとびっくり。
始めは盗賊団の首領として暴れまくっていたらしいけれど、人徳があるというか人望があるというか、どんどん彼に仕える人が多くなっていったんだそうです。

「1363年にイランで落馬して手足に大きな傷を負ったが、盗賊時代からの部下が彼を支えた」
27歳のときに大怪我をしたわけです。
ティムールは「びっこのティムール」を言われていて、足に大怪我をしていたと伝えられていますが、これはソ連時代にティムールの墓の調査で事実と確認されたとか。

現地ガイドさんの話では、「当時、それだけの大怪我をするということは今とは比べ物にならないほどの大きなハンディキャップだけれど、盗賊時代からの部下は彼を見捨てなかったんだ」とのことでした。

単なる家臣団じゃなく、若いころから一緒に戦ってきた部下・仲間だから、信頼と言うか、絆が違うんですって。ますますドラマになりそう。

ティムールは1370年にサマルカンドに政権を樹立。大怪我から7年目のことでした。

以後、1405年に中国遠征の途中で死ぬまでティムールは遠征を繰り返し、大帝国を築きます。
(最後は酒の飲みすぎで病死したそうです)

現地ガイドさんが強調するのは「ティムールが偉大だっただけでなく、彼は子孫にも凄い人が多い」ということ。そういえばインドのムガール帝国を築いたのも彼の子孫です。

ちなみに、ウズベキスタンではティムール像をいくつか見ましたが、みんな同じような顔立ち。
この顔立ちはソ連時代に学者がティムールの頭蓋骨から復元したものだそうです。
結構、かっこいいです。しぶくて。



アク・サライ宮殿址

ティムール像から進むと巨大な2つの塔のようなものが見えて来ます。
これがかってのティムールの夏の宮殿、アク・サライ宮殿の入口部分です。



ティムール像から進むとタイルが剥げ落ちて茶色い姿ですが、裏に回ると冒頭の写真のようにタイルが残っています。
それにしても大きい。現在残っている部分だけで高さは38m。かっては50mあり、入口は3つのアーチになっていたそうです。

この入口の左右にはアラビア文字が飾られているのですが、本来は「スルタンはアラーの影である」と書くべきところを、片方が「スルタンは影である」になってしまったため建築家はアーチの上から投げ落とされたそうです。・・・ウズベキスタンに多い処刑方法ですね。

   


このアーチ門は登ることができます。
上からの眺めは素晴らしい。遠くにティムール像が見えます。
本来はティムール像のところまで宮殿だったのだとか。とんでもない巨大さです。



アク・サライというのは「白い宮殿」「高貴な宮殿」という意味なのだそうです。宮殿は床にはタイルが敷かれ(一部が発掘されていて見学できます)、屋上にはなんとプールがあったとか。山から水を引いたという話ですが、ちょっと凄すぎます。

そんなに凄い宮殿がなんで全く残っていないかと言うと、それはオトコの嫉妬によるもの。ティムール帝国が衰退してから、この地はブハラ・ハーン国に征服されてしまいますが、ブハラ・ハーン国の王様が宮殿の余りの素晴らしさに嫉妬にかられて破壊しちゃったんだそうです。



ダール・ティワラット建築群

アク・サライから、ほど近い所にダール・ティワラット建築群があります。



写っているのはティムールの長男ジャハンギール廟。本来の姿がよくわからないくらいになっていますが、かっては巨大な廟だったそうです。で、ここが建築群と言われるのは、たくさんの廟・建築物が集まっていたから。たとえば、今はもう壁も屋根もなくなってしまっていますが、ティムールの次男ウマル・シェイフの廟も残っています。

本当はティムール自身もここで子供達と一緒に葬られたかったようです。1968年に、ここで遊んでいた女の子が穴に落ちて、そこからティムールの名前を書いた棺が出てきました。ティムールはサマルカンドに葬られていて、しかも墓の中の遺骨も確認されている(顔まで復元されてるし)のに、別のティムールの棺が出て来てしまったので、どれが本当なの?と大騒ぎになったそうです。
実際には、ここの棺には誰も入っていなくて、結局はティムールが自分のために用意しておいたのだけれどもサマルカンドで葬られたんで使われなかった・・・という決着がついたということです。
ティムールが用意していたお墓は中に入って見学できますが、地下は結構、蒸し暑かった・・・。

ダール・ティワラット建築群の入口に大きなスズカケの木がありました。


1370年に植えられた木なんだそうです。

ティムールがサマルカンドで政権を樹立した年ですね。日本でいえば室町時代。

ここのモスクには、地元の人たちが礼拝に来ています。

おじいちゃんたちが集まってきていました。

頼んだら、このおじいちゃんがスズカケの木の下で写真を撮らせてくれました。


ウズベキスタンのおじいちゃんたち、いい顔をした人たちが多い。
このおじいちゃんもステキでしょう。

ウズベキスタンでは、お年寄りが凄い大事にされて、尊敬されています。
色々な場所で、お年寄りが敬われているのを見ましたが、それ故の、この表情でしょうか。

日本が忘れてしまっているもののようで、凄い羨ましい気がします。



ドルッテイロヴァット建築群

ドルッテイロヴァット建築群はダール・ティワット建築群からもよく見えるところにあります。
歩いて移動しました。青いドームが綺麗な建物が集まっています。



これはティムールの孫ウルグベクによって建てられたココ・グンバス・モスクと、それに向かい合う2つの廟(ウルグベクが子孫のために作った廟とティムールの先生の廟)です。写真中央の大きなドームがモスクで、手前の2つのドームが並んでいるのが廟となっています。


ココ・グンバス・モスク

ティムールの孫であるウルグベクによって15世紀に建てられたモスク。

左下は、モスクを正面から見たところ。
遠くから見ると青いドームが綺麗でしたが、近くからだとドームが隠れてしまうのが残念。

右下は、モスク内部のフレスコ画の装飾。
ここの壁面はタイルじゃなくフレスコ画で描かれています。修復ということですが品があって綺麗。

   

このモスクで面白かったのは、ドームが2重になっていて、声の反響が凄いこと。
ウルグベクは大学者だったということですが、建築にも優れていたんでしょうか。



お次はお向かいの廟に。



既に書いたように、これはウルグベクの子孫の廟とティムールの先生の廟。
ウルグベクの子孫の廟には4つの石の棺が置かれていて、そのうちの1つは表面に窪みができていました。なんでも、病気が治るとかで、みんなが触っているのだそうです。

ティムールの先生の廟にはティムールの先生であったシャムスッディン・クラルとティムールの父が葬られていました。何回も壊され、修復を繰り返したということで、実際のオリジナルは置かれている石棺のごく一部。色が変わっているところだけ(右下)。

   


小さな街ですが、ティムールの存在感が半端ではありません。
ウズベキスタンのティムール・ラブが熱く伝わる場所です。
それにしてもティムールの人生はかっこいい。


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参考文献

世界遺産を旅する10(近畿日本ツーリスト)
イスラムの誘惑(新潮社)
21世紀世界遺産の旅(小学館)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。