テルメズ周辺の仏教遺跡
アフガニスタンとの国境に近いテルメズ
テルメズ周辺には数多くの仏教遺跡が残ります。
遺跡と博物館、更に発掘に携わった研究所を訪れました。
2015年9月訪問

写真はファヤズ・テパ


インドで紀元前5世紀ころに生まれた仏教が、テルメズ周辺に入ってきたのは紀元前1世紀ころ。
その後カニシカ王で有名なクシャーン朝の時代、1世紀から3世紀にかけて、この地で盛んとなった仏教は一挙に中央アジアに広がり、中国にまで伝わったと考えられています。
3〜4世紀ころ、ゾロアスター教を信仰するササン朝の攻撃でこの地の仏教は一度衰退しますが、その後再び隆盛。この地から仏教が消えたのは8世紀以降のイスラムの進出によるものでした。

古い仏教遺跡を巡りました。

ファヤズ・テパ

ファヤズ・テパ全景


ファヤズ・テパはテルメズ近郊、アフガニスタンとの国境に近いところにある仏教遺跡です。

ここからは紀元前3世紀ころのグレコ・バクトリア時代のコインも発見されていますが、仏教遺跡として確認できるのは後1〜3世紀のクシャーン朝時代。カニシカ王の時代です。

この遺跡はユネスコ日本信託基金プロジェクトにより保存修復がなされていて、上のストゥーパが美しい姿なのも、その修復によるもの。

この遺跡は美しい釈迦三尊像を始め、素晴らしい壁画などが発見されています。

遺跡はストゥーパだけでなく複合的な作りになっています。
タシケントの歴史博物館に説明図と復元図がありました。

   

上の図からも分かるように、ファヤズ・テパではストゥーパに隣接して僧坊や講堂、食堂が建っていました。食堂というのは別に食事をする場所という意味ではなく、食事を作ったり、洗濯をする僧たちの生活のための場所だそうです。講堂には中庭があり、儀式等を行ったと考えられています。有名な釈迦三尊像は中庭に面した壁から見つかりました。僧坊は僧たちが暮らした場所。

ファヤズ・テパのストゥーパ


このストゥーパ、中に入ることができます。中には2世紀のオリジナルのストゥーパ。
オリジナルのストゥーパの表面にはかっては絵が描かれていたようです。
タシケントの歴史博物館の写真展示を見ると、法輪か蓮の花のようなものが描かれています。

 現在のオリジナル
 かっての姿(写真展示)


ストゥーパから見た講堂・中庭付近


写真中央の中庭に面した壁の中央付近が大きく崩落しているのが分かるでしょうか。
この壁の下から美しい釈迦三尊像が発見されました。

その像がこちら。タシケント歴史博物館で展示されています。
タシケント歴史博物館の至宝ともいうべきもの。

   

お釈迦様の穏やかな表情が素晴らしい。菩提樹がまるで光背のよう。彫りも深く、奇跡的な保存状態です。なんでも、この像は正面を下向きに壁から抜け落ちたような形(うつ伏せと言うべきでしょうか)で発見されたそうで、そのため、このように素晴らしい保存状態が保たれたのだとか。

1〜2世紀のものと考えられているので、ガンダーラやマトゥラーで仏像が歴史上最初に作られ始めて間もない時期のものということになります。黒っぽい石のガンダーラ仏とも、赤い石のマトゥラー仏とも違う白い石の仏像は、なんとも神々しい。どんな仏師が彫ったのでしょうか。

日本の釈迦三尊像の場合は両脇侍に文殊菩薩と普賢菩薩が配されることが多いですが、非常に古い様式のこの像では釈迦の弟子が配されています。弟子が配される場合、二大弟子のサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)の場合と、仏教教団2代目のリーダーとなったマハーカッサパ(大迦葉)と3代目のアーナンダ(阿難)の場合とがありますが、この像の両脇侍はマハーカッサパとアーナンダだと考えられているそうです。

お釈迦様の髪の毛がまだ螺髪になっていないのも古い様式の特徴



講堂からストゥーパを見たところ。
中庭の周囲には柱の基礎が残ります。
そして、中庭の真ん中からは手を洗う水桶が発見されました(右下)。
単なる桶ではなく、何らかの儀式に使ったのかもしれません。テルメズの博物館で展示されてます。
   


食堂に行ってみましたが、正直、何も残っていません。
   


僧坊の方に移動すると、こちらは色々な部屋があります。
この部屋は四本の柱の基礎が残っていました。



僧たちが暮らした部屋は色々な広さがあります。広い部屋は高僧の間と呼ばれています。
この部屋は小さめでしたが、壁に壁龕が残っていました。仏像を置いたのでしょう。



ファヤズ・テパの壁は壁画で飾られていました。
タシケントの歴史博物館で見ることができます。

僧坊を飾っていた壁画。寺院・仏教の保護者たちと考えられています(1〜2世紀)。



保存状態は悪いものの
穏やかな表情のブッダ(1〜2世紀)
 
 こちらは寄進者でしょうか
当時の風俗が分かります(1〜2世紀)


Alexander The Great とあります。アレクサンダー大王?
アレクサンダー大王ゆかりの地だから描かれたのでしょうか(1〜2世紀)。



保存状態は悪いものの、ブッダの姿や美しい人物像(1〜2世紀)
   


タシケントの歴史博物館には、このような仏像も展示されていました(1〜2世紀)。
破片からの復元なのでしょうか。説明を聞きそびれましたが、菩薩像?
日本で見慣れた仏像と何か印象が違うと思ったら、指を広げているんですよね。
   



カラ・テパ遠望

ファヤズ・テパ近くの丘からはカラ・テパ遺跡を眺めることができます。


カラ・テパ遺跡も1〜3世紀の仏教遺跡。ファヤズ・テパより更にアフガニスタンとの国境に近く、国境線となるアムダリヤ川沿いの軍事施設内にあります。かっては観光が許可されたこともあったそうですが、私たちが行ったときは観光できなくなっていました。
自然の丘を利用し、日干し煉瓦で補強して石窟寺院のようにしていたということですが・・・・アフガニスタンが平和になったら観光できるんでしょうか。



ズルマラ・ストゥーパ



ズルマラ・ストゥーパは1〜3世紀にできたストゥーパで、かってのテルメズ(オールド・テルメズ)の郊外にあったものと考えられています。おそらくカニシカ王の時代のものだろうとのこと。高さは13m、直径は14,5m。かっては漆喰で覆われ、装飾が施されていたと考えられています。

このストゥーパ、畑の中にあって普段は遠くから見るだけです。幸い収穫が終わっていたので近くで見ることができましたが、周囲はラクダ草が生い茂り、しかも蜂が巣を作っていました。



ダルヴェルジン・テパ

ダルヴェルジン・テパ遺跡はテルメズの街から約120qほど北に位置します。この遺跡は日本の加藤九祚博士が発掘に携わった遺跡でもあります。

ダルヴェルジン・テパとはダルヴェルジン(四角い)・テパ(丘)という意味。
紀元前3世紀のグレコ・バクトリア時代に街が形成されたものの、一度破壊され、その後、紀元後1世紀から4世紀のクシャーン朝時代に再び栄えたと考えられています。

街は名前通り四角く城壁で囲まれ、その中に更に城塞と堀で囲まれた要塞・シタデルがありました。
面白いのは仏教寺院が城壁の中と外にあること。外の仏教寺院の方が古く、その後、仏教の勢力が強まってから、城壁内にも仏教寺院が建てられたのではないかとのことです。

更に注目すべきは、遺跡内の「金持ちの家」と呼ばれる場所から36sもの金製品や金の延べ棒が見つかっていること。この街は4世紀ころにササン朝の攻撃か洪水で滅んだと考えられるのですが、持ち出す時間がなかったのではないかと言われています。


城壁内の仏教寺院跡



36sの金製品が入った壺が見つかった「金持ちの家」
テルメズの博物館の復元展示によると二軒がくっついていたそうです(右下)

   

とはいえ、遺跡を見ても、良く分からない。

その後、かっての要塞・シタデルにも登ったんですが
正直、今の遺跡からは、かっての姿を想像するのは難しく、若干物足りない印象。

しかし、その後、幸運にもタシケントのハムザ研究所を訪れることができました。ハムザ研究所というのは愛称のようなもので、正式には「スルハンダリヤ州立芸術遺跡研究財団?」といった感じの難しい名前の研究所で、なんとウズベキスタン内務省の敷地内にあります。

この研究所は加藤九祚先生とともにダルヴェルジン・テパの発掘に携わり、多くのオリジナルの出土品を研究所内に展示しています。

おまけに私たちが訪れた時は、加藤九祚先生とともに発掘に携わったバホディール・ツノグノフ教授自らが解説をしてくれました。

左の写真で教授が持っているのが、36sの黄金が入っていた壺。
教授曰く、「43年前の今日(9月23日)、ちょうど今ぐらいの時間(お昼過ぎ)に、この壺を見つけたんだよ」とのこと。

教授の後ろに貼ってあるポスターは、その壺に入っていた黄金製品の数々。この黄金製品はウズベキスタンの国の宝とされ、銀行の奥深くにしまわれていて、発見者の教授でさえ、見ることはできないんだそうです。


教授の書いた本に載っている黄金のネックレスや金の延べ棒
877gの金の延べ棒だけで21個あったそうです。



この研究所最大の見どころは、この「クシャーナ朝の王子」の頭像(1〜2世紀)
   

実に美しく、かつ、りりしい頭像です。
この帽子はクシャーナ朝の王族が被るものだとのことで「クシャーナ朝の王子」と呼ばれています。
多くの博物館に展示されていますが、教授曰く、これが正真正銘のオリジナル
街の城壁の外にある古い方の仏教寺院の「王族の間」から見つかりました。
教授によると外の寺院には「王族の間」という仏教の保護者・寄進者の部屋があったとのことで
そこからは他にも王族の像や寄進者の豪商の像も見つかっています(1〜2世紀)。

 保存状態は悪いものの・・・王様?
 豪商か大臣クラスの寄進者

教授はダルヴェルジン・テパはクシャーナ朝初期の都だったのではないかと考えているそうです。
また、城壁外の寺院からの仏像の方が小さく、城壁内の仏像の方が大きいのだとか。
仏教の力が大きくなっていったことを示すものなんでしょうね。

当初はかなりギリシャ風の彫刻も、次第に独自の表情に変わっていきます。
デバター(1〜2世紀)
 
 仏頭(3世紀)


こちらは城壁内の仏教寺院の菩薩像(3世紀)。なんともハンサム。
美しいだけでなく白毫部分に金が埋め込まれています。
   


素晴らしい仏像はあるものの、正直、破壊の跡が痛々しい仏像の方が目に付きます。
ササン朝による仏教の攻撃って、後のイスラム教徒なみです。

この美しい仏頭は、右の下半身だけの像の足元に落ちていたそうです。
3世紀のもので髪が螺髪になってます。
   


こちらも破壊の跡が生々しい菩薩像(3世紀)。なぜか頭部が綺麗に残ってますが
これは頭部を覆っていた漆喰が壊れ、下の粘土部分が出てきているもの。
   


小さな壁画も展示されていました。
これは仏教に帰依することで子供の病気が治ったというお話を描いたもの。



これらの仏教遺跡はササン朝の攻撃で滅びましたが、7世紀にテルメズを訪れた玄奘三蔵は「天山を越えて初めて本格的な仏教寺院を目撃」したとして、「伽藍は十余カ所、僧従は千余人」と記しました。また、多くのストゥーパがあるとも記しています。一度は破壊された仏教寺院が、その後、再び隆盛したんですね。
今回訪れた仏教遺跡は玄奘三蔵が訪れた時、既に廃墟になっていたのでしょうが、ズルマラ・ストゥーパなんかは今よりしっかりした形で残っていたんではないでしょうか。もしかしたら、玄奘三蔵が廃墟となった寺院やストゥーパの噂を聞いたり、目にしたこともあったかもしれません。



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参考文献

興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国(森安孝夫著・講談社)
中央アジアの歴史 新書東洋史(間野英ニ著・講談社現代新書)
文明の十字路 中央アジアの歴史(岩村忍著・講談社学術文庫)
玄奘三蔵、シルクロードを行く(前田耕作著・岩波新書)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。