イストラ半島

アドリア海北部
スロヴェニアやイタリアに近い半島
魅力的な町を巡りました。
2019年10月訪問

写真はプーラの円形闘技場



クロアチア北西部、アドリア海北部に位置する三角形のイストラ半島はイタリアに近いことからイタリアの影響が強い地域です。今もフェリーでベネツィアまで3時間といった町もあるし、交通標識にクロアチア語だけでなくイタリア語も書かれているほどです。

紀元前2世紀ころに半島はローマ帝国の支配下に入りました。右は博物館にあったローマ帝国支配下で築かれた町の地図。半島西岸を中心に実に多くのローマの町があったことが分かります。

ローマ帝国滅亡後はビザンティン帝国、ランゴバルト王国等の支配を経て、12世紀から13世紀ころまでにベネツィアの支配に入りました。
ベネツィアの支配は18世紀末までの5〜600年もの長期間に及びます。

その後、オーストリア支配を経て第1次世界大戦後はイタリアの支配下に入り、第2次世界大戦後にユーゴスラビアに編入されますが、独立戦争後は半島はスロヴェニアとクロアチアに分かれることとなります。

オパティヤの町を拠点にイストラ半島のクロアチアの町ポレチュ(ポレッチ)、ロヴィニュ(ロヴィニ)、プーラを1日かけて巡って来ました。
右の地図には町の位置を書き込んでみました。オパティヤ以外はローマ時代からの町なので正確だと思います。

旅の拠点はイストラ半島東部のオパティヤ。
19世紀からのリゾート地で多くのリゾートホテルがあります。
夕刻ホテルに着きました。明日1日かけて半島を巡ります。


翌朝、日の出前のアドリア海


朝、8時にホテルを出発。半島西岸を目指します。
ポレチュに着いたのは9時半ころでした。

ポレチュ(ポレッチ)

町の中心スロボタ広場と大聖堂


イストラ半島西岸にあるポレチュは人口約1万5千人の小さな町。しかし、夏のバカンス時には7万もの人がこの町を訪れるそうです。町の歴史は前2世紀にローマ帝国が軍営地を築いたことに始まり、当時は「パレンティウム」と呼ばれていました。ベネツィアの支配に入ったのは1267年。

ベネツィア時代の建物
 
 ベネツィアのシンボル翼を持つライオン

このベネツィアの建物から先が旧市街
旧市街のメインロードはローマ帝国時代から続くデクマヌス通り
ローマ帝国時代は町の東西を貫く通りをデクマヌス通りと名付けるのが一般的でした。
 


この町最大の見どころは世界遺産に登録されているエウフラシウス聖堂でしょう。
ビザンティン帝国の支配下にあった6世紀に建てられた聖堂でモザイクが素晴らしい。
デクマヌス通りを北に折れたところに聖堂はあります。

聖堂入口
 
 モザイクの美しさに感動

エウフラシウス聖堂については独立してまとめました。 → エウフラシウス聖堂

聖堂を見学した後、町を散策
13世紀に建てられた家
 
 お洒落な路地


港からはベネツィア行きのフェリーも出ているそうですが
小型ボートもたくさん。聞いてみたら釣り船なんだそうです。


ポレチュの町を出て南にあるロヴィニュの町へ。
途中、昼食に名物のトリュフ料理を食べました。
移動時間は車で1時間ほどでしょうか。

ロヴィニュ(ロヴィニ)



ロヴィニュは元々は島でローマ帝国が支配する前からイリュリア人が暮らしていました。ローマ帝国支配下ではルビニウムと呼ばれていたそうです。1283年にベネツィアの支配下に入ってから町は急速に発展し、人口が増えたことから1763年に本土の海峡を埋め立て半島となりました。
ベネツィアの支配が長かったからか、カラフルで明るく、なんともお洒落な雰囲気の町です。
旧市街は丘になっていて丘の上の聖エウフェミア教会の尖塔が町のシンボルとなっています。

聖エウフェミアは女性殉教者


聖エウフェミアは3世紀のディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒弾圧で殉教した聖女です。
貴族の娘だったエウフェミアは車輪で轢かれても信仰を捨てず、彼女が祈ると傷も癒えたと言われています。キリスト教を捨てなかったため野生のライオンが放たれた闘技場に入れられますが、ライオンが彼女を襲うことはありませんでした。殉教者である以上、結局殺されたはずですが、最後は野生の熊に襲われて亡くなったとも、ライオンが襲わないから警吏が剣で刺し殺したとも言われていてはっきりしません(ライオンに殺されたという説もあるくらいです)。

教会の尖塔の上には聖エウフェミアの像が置かれ、ロヴュニュの町を見下ろしています。
聖エウフェミア教会を目指します。

1680年ベネツィア支配下で建てられたバルビ門
 
 門の近くにあるベネツィア時代の市庁舎

バルビ門にも市庁舎にもベネツィアの象徴である翼のあるライオンのレリーフ
   

バルビ門から先が旧市街
旧市街は坂道が続きます。なんともお洒落な町です。
   


丘の上に建つ聖エウフェミア教会


聖エウフェミア教会はイストラ半島で最も大きなバロック様式の教会(17世紀)です。
内部は意外とシンプルですが聖女を祀るだけあって、なんとも女性的な優美な雰囲気。



教会には聖エウフェミアの棺も置かれています。エウフェミアはイスタンブール近郊のカルケドンの出身で元々はカルケドンの教会に聖骨箱は置かれていたそうです。では、なぜ、ここに棺があるかというと聖像破壊運動により聖人の遺骸が汚されるおそれが生じた時、イスタンブールから聖骨箱が突然消え、この地の海岸に聖骨箱が漂着したと言われているのだそうです。
この教会では毎年聖女が亡くなったとされる9月16日に棺を開けてお祭りをするとのことでした。

 聖エウフェミアの祭壇
 聖エウフェミアの棺

車輪に轢かれた聖エウフェミアは車輪がシンボル
祭壇の像も、教会の尖塔上の像も車輪を持っています。

港から思い切り望遠で撮った写真
残念ながら後姿
 
 教会の下から撮りました。
顔は良く見えないけど車輪が良く分かります。

坂を下りて港に戻ります。
石畳の坂道は結構膝に来ます。

港には多くのボート。建物はカラフル。



港近くの市場ではお土産用の瓶詰トリュフが並んでました。



半島南端のプーラまで車で約1時間

プーラ

バスを降りるとすぐに木立の間から円形闘技場が見えて来ました。


イストラ半島南端のプーラは天然の良港を有し、古代から栄えた街です。イリュリア人が街を築き、古代ギリシャの影響を受けたとされています。面白いのはギリシャ神話でイアソンが金羊毛を盗んだ国・コルキスに属していたと伝わること。コルキスは黒海の東岸・現在のジョージアに位置する国ですが、そこからイアソンを追いかけてきた人々が街を築いたととされているのです。
前2世紀から街はローマの支配に入り、大きく発展します。円形闘技場などが建てられ、最盛期を迎えました。中世、ベネツィアとピサやジェノヴァの争いに巻き込まれて次第に衰退し、第2次世界大戦でも大きな被害を受けましたが、クロアチア独立後はイストラ半島最大の街となっています。

プーラ最大の見どころは円形闘技場。

円形闘技場は3階建て
 
 中に入るとライオン像が置かれていました。


円形闘技場内部


円形闘技場は1世紀に建てられました。アウグストゥス帝の時代に建てられ、クラウディウス帝が拡張したものです。楕円形をしていて、長径約130m、短径約100m。かっては2万5千人を収容できたということです。現存する円形闘技場では世界で6番目の大きさ。3階建てで、1階と2階には72個のアーチ、3階には67個の四角い窓があります。
元々剣闘士や猛獣によるショーが行われていましたが、5世紀にキリスト教が広まり、剣闘士のショーが禁止されると、他の建物に使用するために石材が持ち出されるようになってしまいます。そのため完全な形を残しているわけではありませんが、現在でもコンサートなどに使用できるほどの保存状態の良さです。現在でも5千人を収容できるとのことでした。


円形闘技場には小さな博物館もあります。
面白かったのが5世紀の地図。


川のように見えるのが海。真ん中がイタリアで、その上がアドリア海とバルカン半島
イタリアの下は地中海で、一番下はアフリカ
昔の人にとって世界はこんな風に考えられていたのですね。
この知識で海に乗り出し、各地と交易していたのだから凄い。

イストラ半島付近



プーラの旧市街にはアウグストゥス神殿やセルギ門などローマの遺構が多いのですが
残念ながら自由時間がなくて見学できませんでした。
1日で3つの町を巡るというのは、ちょっと忙しすぎたかな。
数日かけて、ゆっくり半島を観光できたら最高でしょうね。

ホテルに戻る途中、日が沈みました。
写真は撮れなかったけど、海がピンク色に染まってました。



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参考文献

21世紀世界遺産の旅 小学館
図説バルカンの歴史 芝宣弘著 ふくろうの本 河出書房新社
バルカンを知るための66章 芝宣弘著 明石書店
るるぶ クロアチア・スロヴェニア

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。