ペラ

マケドニア王国の2番目の都
アレクサンダー大王が生まれたペラ
大王の故郷を訪ねました。
2018年10月、2019年12月訪問

写真はペラ遺跡、ディオニュソスの家


アレクサンダー大王ことアレクサンダー(アレクサンドロス)3世を生んだ古代マケドニア王国の本拠地はギリシャ北部。 ドーリス系と考えられている彼らは紀元前7世紀ころにオリンポス山の北麓に定住し、アイガイを最初の都とします。
彼らはヘラクレスの末裔でアルゴスから来たと自称していましたが、ギリシャのポリスとは異なる多くの習俗を持っていたそうです。そのためオリンピア競技会に出場しようとした時にはバルバロイ(野蛮人)扱い。ヘラクレスの末裔とごり押ししてやっと出場を認められたほどでした。


ペルシャ戦争ではペルシャに付きましたが、ペルシャ敗戦後も巧みに生き残ります。その後のギリシャのポリス間の抗争には加わらず、前5世紀末のアルケラオス王の時代に都をペラに移し、ギリシャ文化の導入を図って国力の増強を図りました。

ペラとは「黒い」という意味で、土地の豊かさを意味するそうです。土地が豊かなだけでなく当時のペラは海に面し、港もありました。

左は当時のペラ周辺図。ペラは陸に入り込んだ湾に面しています。現在は内陸に位置するのでちょっと信じがたいですが、アクシオス川が運ぶ土砂の堆積が海を遠ざけたのだそうです。2000年以上の時の流れが地形をも変えたのですね。遷都の目的は交易のため港を求めたところにもあったのでしょう。

しかし、前4世紀に入ると王位を巡る争いで異民族の侵入を招き、マケドニア王国は弱体化してしまいます。
このためアレクサンダー3世の父フィリッポス2世は王の3男として生まれながら、少年期をテーベで人質として過ごさなければなりませんでした。


少年期を人質として過ごしたフィリッポス2世ですが、彼の聡明さを見込んだテーベの人達は彼にギリシャの戦法・陣形を教えます。帰国後兄たちが次々と亡くなり、前359年に23歳で即位。

王はギリシャの重装歩兵を改良し、長さ5mの槍を装着した密集歩兵部隊を考案。この歩兵部隊と騎兵を組み合わせたマケドニア軍は当時最強を誇ったそうです。軍事力だけでなく外交力も駆使して、王は領土を拡大。金鉱や木材そしてギリシャ北部の豊かな土地の開墾で国を富ませます。そして、即位後約20年でマケドニアを弱小国から全ギリシャの盟主へと成長させたのです。

フィリッポス2世はペルシャ遠征を目指しますが、娘の結婚式の日に暗殺されてしまいます。
父を継いで前336年にマケドニア国王となったのが、若干20歳のアレクサンダー3世でした。

アレクサンダー3世は即位して2年後の前334年に東方遠征を開始。
翌前333年にはペルシャ帝国のダレイオス3世をイッソスの戦いで破ります。
ポンペイ出土のイッソスの戦いを描いたというモザイク(ナポリ国立考古学博物館蔵)


敗走するダレイオス3世を追って前330年にはペルシャ帝国を征服
アムダリア川を越えてシルダリア川まで進み、ソグナディア(現タジキスタン)も征服
更にはインドにまで侵攻し、広大な領土を獲得します。大王と称されるのも当然の偉業を果たしました。
しかし、前323年、大王は熱病により32歳11か月の若さでバビロニアで亡くなります。



この若さで、しかも遠征出発後僅か11年間で大帝国を築いたアレクサンダー大王
何が彼を駆り立て、何が大遠征を可能にしたのか。



上のポンペイ出土のモザイクは1世紀の作。没後400年近く経ってからのもの。
故郷にはアレクサンダー大王存命中や亡くなって間もない時期の肖像が残っています。
結構、丸顔で可愛い。ちょっとたれ目。大王は左右の目の色が違うオッドアイだったと言われています。

ヴェルギナの父王フィリポス2世墳墓出土
おそらく20歳前のアレクサンダー(絵葉書)
 
 前325〜300年ころの大王像
ペラ博物館蔵


テッサロニキからペラ遺跡と博物館に向かいました。


ペラはテッサロニキの北西約38q。車で約1時間。
途中、綿花畑が延々と広がっていました。

ペラ遺跡と博物館

フィリッポス2世は前382年、アレクサンダー3世は前356年7月20日にペラで誕生しました。

マケドニア王家はヘラクレスの末裔を自称していましたが、アレクサンダー3世の母オリンピアスはエベイロスの王女でトロイ戦争の英雄アキレウスの血を引いているとされていました。このためアレクサンダー3世はヘラクレスとアキレウスというギリシャ屈指の2人の英雄の血を引いているとして育てられます。

そして、父が招いたアリストテレスを家庭教師とし、ミエザの学園で学びました。

右は博物館にあった遺跡の地図。 現在見られる遺跡はアレクサンダー大王死後、マケドニア王となったカッサンドロスが碁盤目状に街を整備して以降のものです。当時の人口は6〜7万人でアテネと同規模だったそうです。

王宮やアゴラ、いくつもの大邸宅、マケドニアの土着神ダロンの聖域などが発掘されているそうですが、発掘中などの理由で見学できる場所はごく僅か。私が見学できたのはアゴラの近くのディオニュソスの家とヘレンの家の周辺のみでした。

このため博物館で遺跡のお勉強をして、広大な遺跡でかっての姿を夢想する・・というのがお勧め。
実際には博物館から見学したのですが、博物館の展示品を交える形で遺跡から紹介します。

アゴラ

博物館から遺跡に移動中、車窓から撮ったアゴラ


アゴラはギリシャ時代、市民生活の中心となった場。
政治・経済・文化・宗教の中心でした。

ペラのアゴラは200m四方の広さ。当時のギリシャで最大のアゴラだったといいます。
確かに凄く広い。
アゴラの周囲は2階建ての店や工房が並んでいました。

博物館で復元されていたアゴラの工房。壺が大量生産されていました。



ペラ遺跡に入ってすぐに現れるのがディオニュソスの家。

ディオニュソスの家




美しい幾何学模様のモザイクが目を引きますが、この家からは他にも「豹に乗るディオニュソス」「アレクサンダーのライオン退治」と呼ばれる美しいモザイクが見つかっていて、オリジナルはペラ博物館に運ばれ、博物館屈指の見どころとなっています。

左は遺跡にあった説明図。中庭を回廊が取り囲み、その周囲に美しいモザイクが施された部屋が並びます。

現地ガイドさんによると、美しいモザイクが施された部屋で、当時の商人たちが商談をしたのだそうです。そして、その奥に家人のプライベート空間があったということでした。

遺跡を見た第一印象はポンペイの邸宅に似ている・・・ということ。ポンペイはマケドニア王国より約400年後ですが、既にマケドニア王国時代に原型が出来ていたということでしょうか。

ポンペイよりずっと古いのに、ポンペイの邸宅より一つ一つの部屋が広い気がします。
ポンペイがローマ帝国の地方都市だったのに対し、ペラはマケドニア王国の都だったということによる違いなのでしょうね。


博物館のメインホールで展示されている2つのモザイク

豹に乗るディオニュソス
 
 ライオン退治をするアレクサンダー大王

どちらも、とても大きなモザイクなので博物館の上の階から撮るのがおススメです。

なんとも優美なディオニュソス
このモザイクが発見されたことからディオニュソスの家と呼ばれます。


鹿を襲うグリフィン



美しいモザイクですが、モザイクに使われている石、特に周囲の石が大きいと思いませんか。
海に近いペラでは周辺から採れる石をそのままモザイクに使ったのだそうです。


ライオン退治をするアレクサンダー大王(右)と友人クラテロス(左)


アレクサンダー3世の時代には実際にペラ周辺にライオンがいたのだそうです。
クラテロスはミエザの学園で共に学び、後に大王を支える将軍となりました。

クラテロス
 
 アレクサンダー3世


遺跡に戻ります。ディオニュソスの館は実に広い。
王宮以外ではペラで一番大きな家だったそうです。



道のように見えるのは家の廊下部分。
遺跡にあった復元図だと家はこんな感じ。2つの中庭があり、一部2階建て。



イオニア式の柱も美しい。



幾何学模様のモザイクは大きな石を利用しています。




集水槽

遺跡を進むとメインストリートに水を集めるための集水槽が残っていました。

 奴隷の子が入って掃除していたそうです
 遺跡にあった説明写真。下水道完備の街でした。



公文書館

アゴラの南西の端にあった公文書館



他にも屋根のある場所があるので向かいます。

ヘレンの家



屋根の下にはオリジナルのモザイクが残されています。
冬場は保存のため砂で覆われてしまうので、2018年10月の写真。


ちょっと分かりにくいですね。水をかけたいけどそうもいかない。

こちらが説明写真。


絶世の美女でトロイ戦争の発端となったヘレネ。
彼女が子供の時にアテネのテセウスに拉致された時のモザイク。このモザイクが家の名前の由縁。
なんとこのモザイクには作者のサインが残っています。オクリシス作。

博物館では実物大の写真展示がありました。
馬の躍動感が凄い。


拉致される幼いヘレン



この家からは他にもモザイクが見つかっていて、遺跡にオリジナルが残されています。

鹿狩りのモザイク
遺跡のオリジナル
 
 博物館の実物大の写真展示

中央の鹿狩り部分



最近見つかったというアマゾネスとの戦いのモザイク

遺跡のオリジナル
 
 説明写真

遺跡で見学できたのは以上のみ。
しかも2019年12月に訪れた時はヘレンの家のモザイクは砂で保護されて見れませんでした。


ここからは博物館の展示品を紹介します。

博物館の展示品で目を引くのは既に紹介したモザイクですが、壁画も素晴らしい。
大理石を模したポンペイ様式の壁画や生き生きとした人物など・・・

遺跡の邸宅から発見された壁画(前4世紀)
 
廟の壁画。 物語の一場面でしょうか

ポンペイの発掘の方が先だったのでポンペイ様式と言われますがマケドニアはポンペイの400年前


王宮跡から見つかった柱頭



屋根飾りやライオンの雨樋



ペラ遺跡の南西に位置するダロンの聖域(写真展示)
ダロンとはペラで信仰されていた癒しの神。3つの穴から出るパワーを閉じ込めているのだそうです。


他では見ない形状ですね。マケドニア独自のもの?実に興味深い。

聖域から見つかったモザイク




商業が盛んだったことを説明する部屋もありました。地中海交易が盛んだったそうです。
壺には産地を表示するスタンプを押していました。



型を使った大量生産も行われていたのだそうです。
   


美しいテラコッタ製の小さな像
   


魚の描かれた皿
 
 見事な壺


当時の女性たち
   


博物館の展示品の多くは遺跡付近の墓から見つかった副葬品です。
マケドニアでは棺を寝台に置き埋葬しました。写真中央がその寝台。
寝台の4隅(脚の部分)は必ず決まった模様で装飾されていました。



しかし寝台の台の部分には個性が出ています。
こちらは鹿を襲うグリフィン



副葬品には様々なものがありますが、やっぱり、マケドニアといえば黄金
付近の墓からは大量の豪華な黄金の副葬品が見つかっています。



人が亡くなると魂が出て行かないように口や顔を黄金のマスクで覆って埋葬しました。
女性の墓からは見事な装飾品が大量に見つかっています。マケドニアの豊かさが偲ばれます。
   


男性の墓からは武器・防具が見つかっています。
マケドニア軍を支えた戦士たちだったのでしょう。マスクは、やっぱり黄金。
   

大王は遠征先で亡くなり、故郷に戻ってくることはありませんでした。
大王の死後、マケドニア王となったカッサンドロスが街を碁盤目状に整備しますが
前2世紀に街はローマの支配下に入り、
その後地震で衰退したそうです。


ヴェルギナ(アイガイ)を見る

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参考文献

古代ギリシャ・時空を超えた旅(2016年東博展覧会図録)
アレクサンドロス大王の父 原随園著 新潮選書
図説ギリシャ・エーゲ海文明の歴史を訪ねて 周藤芳幸著 ふくろうの本
図説アレクサンドロス大王 森谷公俊著 ふくろうの本
古代ギリシャがんちく図鑑 柴崎みゆき著 バジリコ株式会社

基本的には現地ガイドさんと添乗員さんの説明を元にまとめています。