ポンペイ

紀元79年8月24日に始まったヴェスヴィオ山の噴火によって
火山灰に埋もれたポンペイ
ローマ時代が封じ込められた遺跡です
2017年8月、10月訪問

写真はヴェスヴィオ山を背にしたポンペイの中心フォロ


上の写真のように、現在のヴェスヴィオ山は2つの頂が印象的な姿をしています。


しかし、ポンペイの町から発掘された壁画ではヴェスヴィオ山は今とは全く違う姿で姿で描かれていました。右の壁画がその一つ。
このような壁画等からヴェスヴィオ山は噴火で山頂部分が吹っ飛び、現在の姿になったと考えられています。山の形を変えるほどの凄まじい噴火は、ポンペイを初めとする周囲の町を火山灰などで埋め尽くしました。ポンペイに積もった火山灰・火山礫の厚さは6m。

ポンペイの町は紀元前7世紀にエトルリア人が築き、その後、ギリシャ植民市の影響を受けた時期を経て、前5世紀にはサムニウム人が支配するようになります。サムニウム人は南下するローマ人に抵抗し、町を城壁で囲みますが、結局、前310年にはローマの傘下に入り、前80年にローマの植民市となりました。
ローマ支配のポンペイはワインで富を得た商人などによって平和で繁栄した時代を迎えます。そんなポンペイを紀元62年2月5日に大地震が襲いました。大噴火の前触れだったのかもしれませんが、当時のポンペイ市民はヴェスヴィオ山が噴火するとは思ってもいませんでした。死火山と信じ切っていたのです。そして、町が地震の復興に励んでいた79年8月24日、突然大噴火が始まりました。

火山灰に埋まったポンペイの発掘が始まったのは18世紀。未だ未発掘の部分もあります。
ローマ時代とはいえ一つの町ですから広大な遺跡です。人口は約1万2千人。
当時としては中規模の町だったそうです。遺跡にあった地図を撮ってみました。


火山灰の下から現れたポンペイの町を巡ります。

ポンペイの町はサムニウム人が築いた城壁に囲まれ、かっては6つの門がありました。マリーナ門から入って少し進んだところにある長方形の広場・フォロが町の中心。ジュピター神殿・アポロ神殿などの神殿やバジリカなどの公共的建物が並びます。フォロ付近はポンペイで最も古い場所であり、町はここから拡大しました。フォロからエルコラーノ門までの住宅街はアレクサンダー大王のモザイクで有名なファウヌスの家やヴェッティの家などの豪邸が点在する高級住宅街。また、フォロの南側から円形闘技場方向に延びるアッポンダンツァ通りは町の商店街。通りに面して居酒屋や洗濯屋などが並び、選挙広告も見ることができます。三角フォロの周囲には大劇場やイシス神殿。ローマ支配下の平和な時代になると城壁の外側にも多くの豪邸が建てられるようになりました。壁画で有名な秘儀荘はエルコラーノ門から墓地通りを歩いた先にあります。

遺跡をくまなく見るには1日では足りないでしょう。現在の入口はマリーナ門と円形闘技場付近にあり、マリーナ門からフォロ・豪邸を経て秘儀荘に至るルートが約2時間、円形闘技場からアッポンダンツァ通りを経てフォロ・豪邸・秘儀荘というルートが約3時間の観光となります。広大な遺跡なので、ここではフォロ周辺と三角フォロや円形闘技場までのアッポンダンツァ通り周辺を紹介し、ファウヌスの家・ヴェッティの家・秘儀荘は、ポンペイの秘儀荘と個人住宅で別にまとめました。

マリーナ門

一般的な遺跡観光はマリーナ門から始まります。


サムニウム人が築いた城壁に造られたマリーナ門。マリーナ門と言うだけあって、かっては近くに港がありました。マリーナ門から当時の港までは約1q。ポンペイはナポリ湾に面するとともに内陸交通手段であるサルノ川の河口にも位置していたことから、港に届いたローマへの荷物をアッピア街道に運ぶ拠点として栄えたのだそうです。門はアーチ型をしていて歩行者用と荷馬車等の動物用に分かれていました。ポンペイの建物の多くは噴火の際に降り積もった火山礫の重みで屋根が潰れてしまいましたが、このマリーナ門の屋根は噴火当時のものです。城壁の外にはローマ支配下に入って平和な時代となってから築かれた多くの建物が残っています。

城壁外の建物
 
 天井の残るマリーナ門



フォロ周辺

フォロ周辺は多くの建物があるので復元模型に建物の名前を入れてみました。


マリーナ門を入って真っ直ぐ進むと左手にアポロ神殿、右手にバジリカ

アポロ神殿



アポロ神殿は紀元前6世紀創建のポンペイで最も古い建物。エトルリア語の碑文も残っています。かっては宗教の中心地だったと思われますが、ローマ時代になるとアポロ信仰は廃れていきました。それでも歴史を感じさせる本殿の基壇や、その前の大理石の祭壇、本殿の周囲を取り囲む円柱は美しく、ベスビオ山の眺めも実に素晴らしい。近くで見たいところですが、実はここ数年ずっと修復中とのことで中に入れません。囲いの外から必死に撮りました。中庭を向いて、ブロンズ製のアポロとダイアナが向かい合う形で置かれています。遺跡にあるのはレプリカでオリジナルはナポリ考古学博物館にありますが、本来の場所に置かれた像はレプリカとはいえ素敵。

 ダイアナ
 弓を引くアポロ

かってはダイアナも弓を持っていたのだと思います。


バジリカ



アポロ神殿と道を挟んで向かい側にあるのがバジリカ。裁判や商取引の場所で、二重に並ぶ円柱が見事。かなり大きな長方形の建物で、広さは24m×55m。柱がみんな同じ高さなのは、69年の地震の後、修復中だったからだそうです。この建物からはフォロに行くこともできます。

バジリカから見たフォロ方向。


フォロ

バジリカから出たところ。フォロの南端にあたります。並んでいるのは行政機関の建物。


フォロの南側はお役所街。演説台もありました。

そして目を北側に向けると広大な広場の先に見えるジュピター神殿とヴェスヴィオ山


フォロはポンペイの政治・宗教・経済の中心となっていた広場。38m×157mの長方形の広場でポンペイの全市民を収容できる大きさでした。フォロはサムニウム人の時代から築かれていて、それをローマ支配になってから手を加えたもの。サムニウム人の時代は広場の周囲の円柱は凝灰岩で作られましたが、ローマ時代になって石灰岩で二段の柱廊が建設されました。豪華ですね。

ローマ時代の柱廊
    

フォロの南側にはバジリカ、役所、会議場が並び、北側にはジュピター神殿。そして、東側には商業・経済に関係する建物と神殿、西側はアポロ神殿と接し、その先は穀物倉庫となっています。

ジュピター神殿と、その両脇にある凱旋門


まず、フォロの東側の建物を南から北に進む形で紹介します。

エウマキアの建物

 入口部分
 入口の装飾浮彫

フォロの南東にあるエウマキアの建物は、羊毛職人組合名義で女神官エウマキアが皇帝アウグストゥスへの忠誠を誓い奉納したものだそうです。建物はほとんど残っていませんが、入口の大理石製の浮彫彫刻が見事です。エウマキアは縮絨と洗濯業をしていたそうですが、女神官でありながら商業活動もしていたというのは面白い。当時の女性は参政権はありませんでしたが、相当な力をもった女性もいたのですね。


ウェスパシアーノ神殿

皇帝ウェスパシアヌスに捧げられた神殿。大噴火の時は建築途中でした。
ウェスパシアヌス帝はローマのコロッセオを着工した皇帝です。

祭壇(生贄台)が美しい
 
 牛が生贄に捧げられるシーン


マケルム(市場)



市場だった場所。建物の壁に僅かにフレスコ画が残っています。
   

上手く撮れなかったんですが、食べ物の壁画もあるんです。売り物の絵だったのかな。


フォロの西側は南はバジリカと接し、修復中で入れないアポロ神殿も横から覗くことができます。
ちょっと衝撃的なのが穀物倉庫。今は出土品の倉庫になっているのですが・・・
噴火の犠牲者の石膏像が置いてあります。

祈るしかなかったのか・・・
 
鎖で 繋がれて逃げられなかった犬

ポンペイを埋めていた火山灰に空洞が多く見られることから、空洞に石膏を流し込んだところ現れたのがこれらの犠牲者の姿。逃げ遅れ、火山性の毒ガス等により死亡した犠牲者の上に火山灰が降り積もり、長い時が犠牲者の姿の空洞を作っていたのです。彼らの最後を思うと胸が詰まります・・・。この穀物倉庫以外にも遺跡の色々なところに犠牲者の石膏像が置かれています。

気を取り直して、フォロの中心であるジュピター神殿

ジュピター神殿



ジュピター神殿は元々はジュピター(ギリシャ名ゼウス)に捧げられた神殿でしたが、ローマ支配下に入るとローマの三神ジュピター(ゼウス)、ユノ(ヘラ)、ミネルヴァ(アテネ)に捧げられる神殿となりました。基壇の高さは4m、縦横37×17mの立派な神殿でしたが、大噴火の時は大地震の後の修復中だったそうです。かって神殿には神官しか入れず、人々は外から拝んでいました。

ジュピター神殿から北の凱旋門を通ると道の先に門が見えて来ます。

カリゴラの門



カリゴラの門の手前に浴場があります。

フォロ浴場

フォロ浴場は小さいながらポンペイで最も洗練された浴場とされています。
運動場・脱衣所・冷浴室・温浴室と分かれており、特にぬるま湯浴場の装飾が見事

湯浴室の美しい天井とテラモン(男像柱)
 
 天井を支えるテラモン(男像柱)

当時の人たちは季節ごとに入浴方法を変えていたそうです。贅沢ですね。

手足を洗う巨大な洗面器
 
 大理石の湯船

フォロ浴場の近くには休憩所があり軽食も摂れます。
ここを拠点に、観光ルートを考えると良いかもしれません。
ファウヌスの家やヴェッティの家を見ようと思えば、そのまま北に進むことになりますが
アッポンダンツァ通りを見ようと思ったら、フォロの南側に戻る必要があります。

アッポンダンツァ通り周辺

アッポンダンツァ通りはフォロの南から町の東サルノ門までの通り。両脇に商店が並ぶ商店街。

フォロ入口にある車止め
フォロ内は車両通行禁止でした
 
 通りに置かれている公共の水場
アッポンダンツァ女神の装飾

アッポンダンツァ女神は豊穣の女神。ポンペイには全部で44の公共の水場があったそうです。
水場の装飾が全て違うので待ち合わせの時の良い目印になったのだとか。


ポンペイの道は車道と歩道に分かれていました。車道には横断歩道的な石まであります。
横断歩道の石は荷馬車の幅を考えて置かれていました。

歩道と車道が分かれた通り
 
飛び石状の横断歩道


アッポンダンツァ通りをフォロからちょっと行ったところで南に折れると三角フォロ

三角フォロ



三角フォロの周囲には大劇場や小劇場があります。
行きたかったけど時間がなくて足を伸ばせませんでした。大劇場の外壁が見えてます。

三角フォロのすぐ隣、大劇場の北にあるのがイシス神殿

イシス神殿



現地ガイドさんは行くのを予定してなかったみたいなんですけど、イシス神殿のことを聞いたら足を伸ばしてくれました。
でも残念ながら閉まっていて中には入れません。外からなんとか写真を撮りました。

イシス神殿はエジプトの女神イシスを祀る神殿。この神殿からは美しいイシス女神像も見つかっていて、ナポリの考古学博物館で展示されています。本来エジプトのオシリス神の妻だったイシス女神がローマ風の姿で彫られていますが、右足を一歩前に出しているところなどはエジプト風ですね。エジプトの神であるホルス像やアヌビス像も置かれていたそうです。

この神殿はポンペイの下層階級にエジプトの信仰が広まった紀元前2世紀ころに建てられました。62年の大地震の際には、かなり破壊されたのだそうですが、他の神殿とは異なりいち早く修復されたということで、かなり保存状態が良く、屋根は失われたものの神殿の壁と入口付近の円柱が残っています。

イシス女神は女性に人気があり、男性にはミトラ神が人気だったそうです。

多神教時代のローマは実に宗教に大らかです。

考古学博物館にはイシス神殿の復元模型もありました。
大劇場との位置関係も良く分かります。



アッポンダンツァ通りに戻り、道なりに進むと様々な店舗が現れます。

実はポンペイには売春宿も数多くありました。
ナポリ国立考古学博物館には秘密のお部屋があり、売春宿の壁画も展示されています。
自粛しますが、まあ、日本の秘宝館みたいな感じ?


ステファノの洗濯屋



服屋であり洗濯屋でもあった建物。かなり大きな豪邸です。

室内を飾る壁画
 
 洗濯をした水槽。洗剤はなんと尿。

ここの壁画は鳥さんが印象的
   

通りを歩いていると家の入口から中が見えたりします。

入口に描かれた猛犬注意のモザイク?ポンペイでは実に多くの犬のモザイクが見つかっています。


室内のモザイクも素敵です。
中央にある雨水を溜める水槽があるアトリウムという部屋が当時の住居様式



ララーリオのテルモポリオ



テルモポリオとは居酒屋のこと。通りに面してカウンターが設けられ、人々がワインや食事を楽しみました。カウンターの穴はワインの壺をはめ込むためのもの。ここからは一日の売り上げと思われるお金も見つかっています。ここがララーリオのテルモポリオと呼ばれるのは先祖信仰のために捧げられた小礼拝堂ララーリオのなかでも見事なものが残っているから。下の写真がララーリオ。

守護神ゲニウス、祖神ラレス、蛇神、商いの神メルクリウス、酒の神ディオニュソス



通りに面してカウンターを持つテルモポリオがいくつも現れます。みな、それぞれ個性的。

 大理石が綺麗なカウンター
 店の奥に犬のフレスコ画発見


通りには選挙ポスターというか選挙広告も書かれています。
「マルコバルコさんに投票してくれることをお願いします」とのこと



軒先から古代の人が現れそうです。


更に進むと壁画が美しい住宅もありました。

ヴィーナスの家



建物の中を進み、中庭を越えると見事なフレスコ画が現れます。
左から、軍神マレス、貝に乗るヴィーナス、そして美しい庭の景色


貝の上のヴィーナスは当時人気の絵柄。
ナポリ国立考古学博物館で似た壁画を見ることもできます。


それにしても美しいですね。人気があったのも納得です。

 ヴィーナス左側の軍神マルス
 美しい庭の景色


サルノ門の手前で南に折れると大運動場と円形闘技場

大運動場



運動場の隣が円形競技場

円形闘技場



円形闘技場は紀元前80年にポンペイがローマの支配下に入った年に建設されました。町の人々が集っても混雑しないように町外れに建設されたのだそうです。収容人数2万人。
ここでは猛獣のショーや剣闘士の戦いが繰り広げられ、当時の最大の娯楽場だったと言って良いかもしれません。通路には猛獣の檻を下すための車止めの穴も残っています。

右はポンペイ出土の壁画、円形闘技場と隣の運動場が描かれています。
ポンペイの円形闘技場は闘技場としてはかなり古い様式で、出入口の階段が外側に設けられているのが特徴とのことですが、壁画でも、それが良く分かります。

それだけでなく、この壁画が貴重なのは歴史的事件が描かれていること。59年にポンペイ市民と隣町市民との間で応援合戦の末、流血事件が興り、円形闘技場は一時営業停止となりました。円形闘技場の中で喧嘩をしているような様子が描かれています。
62年の大地震の後は再び上演されるようになりましたが、大噴火により、この円形闘技場も埋もれることになります。

円形闘技場内部
身分の高い人は下の席に、身分の低い人は上の席で見学したそうです。



大噴火で時が止まった町。
ところどころに置かれた犠牲者の姿は痛ましい限りですが
遺跡好きなら大興奮せずにはいられません。


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参考文献

ポンペイ 古代の遺跡を再現 日本語版 ARCHEOLIBRI(遺跡で購入)
ポンペイ 今日と2000年前の姿 日本語版 CASA EDITRICE PERSEUS(遺跡で購入)
ナポリと南イタリアを歩く 小森谷賢二・小森谷慶子著 新潮社 とんぼの本
世界遺産ポンペイの壁画展(2016年−2017年)
血塗られた神話 森本哲郎編 文春文庫ビジュアル版

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。