パレンケ

パカル王墓の発見で有名なパレンケ
チアパス高地北端の山の中腹に位置し、
遺跡の中をオトゥルム川が流れる美しい場所です。
2002年12月、2014年3月訪問。


写真は十字の神殿から見た宮殿・碑銘の神殿



パレンケという名はスペイン語で「柵に囲まれた砦」を意味するそうです。塔のある宮殿からの発想でしょうか。今ではパレンケはトクタンというところから来たクック・バラム1世が431年に即位したのに始まり、王朝名はバーカル(骨)、都市はラカムハ(大きな水)と呼ばれていたことも分かっています。

パレンケは碑銘の神殿からキニチ・ハナーブ・パカル1世の未盗掘の王墓が発見されたことで有名となりましたが、このパカル王と息子であるキニチ・カン・バラム2世の時に急速に発展しました。
現在遺跡で見ることのできる建造物の多くはこの2人の王により建てられたものです。

写真は宮殿内にあるパカル王が即位した際のレリーフ。母サク・クックが息子パカルにドラム型の王冠を手渡す様子が描かれています。

パカル王が即位する以前、パレンケはカラクムルからの度重なる攻撃を受け、弱体化していました。
そのような困難な時代にパカル王は12歳で即位します。
母の指導もあったのかパカル王はパレンケを立て直し、多くの建造物を建てました。当然それを賄う財力も確保したのでしょう。

パカル王治世下にはカラクムルとの抗争に敗れたティカル王の亡命を受け入れてもいます。
共通の敵ということでティカルとは仲良しだったみたいです。

仲良しといえば、コパン最後の王の母もパレンケの王女でした。



マヤの都市間の関係は、なかなか興味深いところです。
パカル王墓とパレンケの歴史については別にまとめてみました。パカル王墓とパレンケの歴史



頭蓋骨の神殿・神殿13・碑銘の神殿

パレンケの遺跡に入ると、まずは建ち並ぶ神殿群が迎えてくれます。



右手手前から頭蓋骨の神殿、茅葺屋根があるのが神殿13、その奥隣が碑銘の神殿です。


頭蓋骨の神殿というのは、神殿前に「ウサギの頭蓋骨」といわれるレリーフがあるから。

右の写真が、その「ウサギの頭蓋骨」。
どこがウサギなのか尋ねたら、前歯が大きいからですって。
実際は何なのか、よく分からないそうです。

このレリーフは階段を登ったところにあり、ちょっと分かりにくいかもしれません。

しかし、この頭蓋骨の神殿に登ると、碑銘の神殿の先にある宮殿が良く見えるので、登ることをお勧めします。



頭蓋骨の神殿から見た宮殿です。





頭蓋骨の神殿から降りて先に進むと、碑銘の神殿と神殿13。
最初に訪れた2002年は朝もやの残る幽玄な雰囲気でした。
この時の印象が非常に強いです。素晴らしかったなあ。足元はぬかるんでましたが。





そして、これが2014年3月。午後の陽射しの中の姿です。




碑銘の神殿はパカル王墓が発見されたことで有名ですが、隣の神殿13からも水銀朱で赤く染められた「赤の女王」と呼ばれる女性の墓が発見されています。
2002年当時、既にパカル王の墓は見学できなくなっていて、代わりに神殿13が公開されていましたが、2014年も変わりはありませんでした。茅葺の屋根の下が入口です。

「赤の女王」が誰なのかについては、パカル王の母サク・クックという説が有力ですが、パカル王の妻という説もあり、まだ決着はついていないとのこと。

下の写真は頭蓋骨の神殿(左)、神殿13内部(中央・右)。神殿内の狭い通路(中央)を進むと、赤く染まった石の棺(右)を見ることができます。水銀朱というのは貴重品なので、これだけ贅沢に水銀朱を使われた女性が高貴な人物だったことは間違いありません。

     



碑銘の神殿はやはりパレンケの建物の中でも立派で風格があります。



神殿にはレリーフがあるそうですが遠くからはよく分かりません。
かっては美しい屋根飾りもありました。



写真を比べてみると2002年の方が乾期の初めだったせいか緑が濃い気がします。
2002年。宮殿から見た碑銘の神殿





碑銘の神殿から未盗掘のパカル王の墓が見つかったのは1952年のこと。中からは翡翠の仮面を始め豪華な副葬品とともに王の遺体が発見されました。棺の石蓋に彫られたレリーフは超文明好きな人達から宇宙船を操縦する人物だと評判を呼びましたが、学術的には、それまで王墓ではないとされてきたマヤのピラミッドから初めて発見された王墓ということで非常に意味があります。

この神殿はパカル王によって建築が始まり、王の死後、息子であるキニチ・カン・バラム2世によって完成され、パカル王の墓とされたと言われています。12歳で即位したパカル王は80歳で亡くなりました。実に68年もの治世でした。



碑銘の神殿と宮殿が両方入る形で撮ってみました。結構後ろに下がらないと撮れません。
両者の位置関係が分かるでしょうか。



そういえば2014年は遺跡内の芝生が随分ときれいになっていました。




宮殿

宮殿は遺跡の中央付近、一段高くなった基壇の上に築かれています。
碑銘の神殿前の広場に面した階段から登るのが一般的。
基壇の高さは約10m。登るのは結構大変です。



この基壇部分の地下にはパレンケ初期の建造物が埋もれているのではないかと考えられています。増改築の結果、次第に高くなり、更にそれを覆って現在の基壇ができたというわけです。

基壇の広さは100m×80m。現在見ることのできる宮殿はパカル王時代に建築が始まり、後の王たちが増改築を繰り返したものです。王や貴族のようなエリートたちの居住地区・行政地区だったと考えられています。


パレンケの宮殿で見逃せないのが美しいレリーフ。
入口の壁にも、やや保存状態が悪いもののレリーフが幾つも残っています。

     


宮殿の壁のレリーフには、こんな美しいものも残っています。

左は宮殿内の建造物Aと呼ばれる建物の外壁に描かれた支配者に敬意を示す2人の人物。同じようなものが全部で3つ残っていたので保存状態の良いものを写してみました。

座った人物は胸に手を置いて中央の支配者と思われる人物に敬意を示しています。
支配者は杖を持っていますが、これはマヤのK神の杖と言われるもの。

白い漆喰がまぶしいですが、かなり繊細なレリーフです。

古代マヤ王歴代史誌(創元社)によると、かっては宮殿の内外に多くの漆喰によるレリーフが飾られ、宮殿は神話的なモチーフや様々な人物像などで満ち溢れていたとのことです。

そして、漆喰には彩色が施されていました。
彩色は大部分が赤であり、細部に緑・黄色・青が用いられていたのだとか。

現在は「白い」パレンケですが、かっては多くの色彩とレリーフにあふれた、全く違う表情を持っていたわけです。


階段を登って宮殿に入ると、見事なマヤアーチを見ることができます。

マヤアーチは西洋で発達したアーチとは異なり天上に要石がありません。
そのため、疑似アーチとも呼ばれます。

簡単に説明すると、石材を左右から持ち送り式に積み上げたもの。天井部分は要石ではなく、単に頂上の空間を埋めるために石を置いただけとなっています。

マヤは天文・数学に優れていただけでなく、多くの神殿・ピラミッドを建て、その建築技術も決して劣ったものではなかったはずですが、アーチを発見することがなかったというのは不思議ですね。

パレンケの宮殿の特徴として、かなり部屋が広いということができると思います。
右の写真、偶然人が写ったのですが、人と比較して見ると、かなり広い空間であることが分かると思います。

このように広い空間が作れたのは、パレンケの場合、屋根飾りが透かし彫りのように軽くしているからなんだそうです。ティカルなどは巨大な屋根飾りを支えるために壁が厚くなったけれど、パレンケは屋根飾りが軽いから壁が薄くても大丈夫だった、ということですね。



西の広場

宮殿に登って上の写真の部屋から奥に進むと、有名な塔があります。
そして、塔の左側に建物に囲まれた小さな広場があります。
ここは西の広場と言われています。

   

この西の広場に面した建物にも、レリーフが彫られているだけでなく、屋根にもレリーフが残っているのが分かります。かっては、さぞ綺麗だったんでしょうね。
ここのレリーフ、人物が座禅を組んでいるように見える(右上)ことから、瞑想の場とも言われているそうです。う〜ん。ちょっと無理がある気が・・・。
また、右上の写真の屋根部分、怪物のような顔がありますが、これは太陽神だそうです。





塔は、他のマヤ遺跡では見られないパレンケ独特の建造物といえると思います。

この塔の高さは15m。4階建てになってます。
物見台という説もあるようですが、天体観測塔とされるのが一般的のようです。

壁面が東西南北を指していることや、4階に星の観測に使ったと思われるテーブルがあること、踊り場に金星を表す文字があることなどが理由のようです。

また、この塔から見ると冬至の日には太陽が碑銘の神殿に沈むのだそうです。

この塔を建てた王が誰かはよく分かっていないようですが、パカル王や息子であるキニチ・カン・バラム2世より後の時代に作られたのではないかとのこと。

だとしたら、近隣との争いが激化したころなので、物見台としての機能も併せ持っていたのかもしれませんね。
見晴らしも素晴らしいらしいのですが既に2002年の時点で登れなくなっていました。もちろん2014年は入ることすらできませんでした。



この塔のある広場にはトイレや排水施設があります。宮殿内にはトイレが6個、蒸し風呂が2個もあり、水は地下水路を通って流れるようになっていました。考え抜かれた設計だったようです。



塔の裏手に来ました。

右の写真、左側の壁は塔の壁です。塔の2階も写っています。その右側に入口に金網が貼られた建物が写っていると思いますが、これはパカル王が建てた建物。

最初に紹介した王の即位儀式のレリーフが埋め込まれている建物です。
パカル王の後の王達は、ここで即位儀式を行ったと言われています。

残念ですが、2014年はパカル王の即位のレリーフは金網で保護されていて、良く見ることができませんでした。

2つの建物の奥に、もう1つの建物が見えます。
この建物、階段の上に2つの入口があるのが分かるでしょうか。

実は、この建物の左側の入口・塔側は、先ほどの西の広場に面しています。座禅のような姿の人物が彫られていた建物です。

そして、もう一つの右側の入口、ここを入ると、今度は東の広場に出ます。1つの建物が壁で2つの広間に分かれていて、それぞれ広場に面しているわけです。




東の広場

塔の裏手を進んで東の広場へ出ました。広い広場です。



宮殿内にいくつかある広場の中で最も大きいのが、この東の広場です。ここは捕虜が見せしめにされ、王に引き渡された場所と言われていて、失意の捕虜達のレリーフがあることで有名です。


上の写真の建物基壇部分にもレリーフはあるのですが、有名なのはこちらでしょう。
広場を挟んで上の写真のちょうど反対側を撮ったところです。
階段の両側にレリーフと、それを保護する屋根があるのが分かるでしょうか。



2002年から、およそ12年ぶりにパレンケを訪れて、一番変わったと思ったのがレリーフなどが綺麗になっていること。2002年は訪れたのが乾季の始めの12月で、まだ湿気も多かったのに対し、2014年は乾季の終わりの3月だったので、その違いもあったのかもしれませんが、現地ガイドさんによると、メキシコでは最近、随分と遺跡の修復が進んでいるのだそうです。


上の写真で階段右側にあるレリーフの2002年の姿。カビなのか汚れが酷かった。




2014年3月の同じレリーフ。すっかり綺麗になっています。カビを洗ったのか、漆喰を塗ったのか・・・。




こちらは階段左側の捕虜たち。2002年は、ほとんど真っ黒だったのに・・・。




綺麗ですが、ちょっと白くし過ぎたような気もしますね。


私的には2002年のこれくらいの状態が好み。
これは広場反対側の建物基壇部分にあるレリーフの2002年の姿です。





このように宮殿は内部にいくつかの広場があり、広場の周囲に多くの建物、それらをつなぐ回廊、地下トンネルなど複雑な構造をしています。塔の右手から地下に潜ると、十字グループに面した宮殿横に出るなど、非常に分かりにくい。正直、2002年に最初に訪れた時は迷路のように感じました。2014年の2回目の訪問で、ようやく少し構造が分かったかな、といった感じ。

パレンケの宮殿では、いたるところに見事なマヤ・アーチが見られますが、他にも屋根が二重勾配になっているとか、パカル王が発案したといわれるT字型の窓とかも見ることができます。ベンチも残っていました。

     



他にも宮殿の周囲を歩くと、古い基壇と思われるものが公開されています。
左下などは大きなマスクです。
   




宮殿の見学を終えて、次は十字グループに向います。
写真は宮殿から見た十字グループ。



十字グループは少し小高い場所にあります。後ろは山のようになってます。
そういえば2014年3月のメキシコ旅行で唯一ホエザルの声を聞いたのはパレンケでした。
山が深いのでしょうね・・・。



パレンケは遺跡内にオトゥルム川という川が流れており、宮殿近くは地下水路になっています。
十字グループは、この川を渡ったところにあります。


オトゥルム川にかかる橋を渡って振り向いた景色。
十字グループに向かう途中から見た宮殿。2002年の写真です。




オトゥルム川を渡って十字グループに行く途中にも、実は遺跡があります。
でも、残念ながら今は公開されていません。
仕方ないので、そのまま十字グループに進みます。




十字グループ

パカル王の息子キニチ・カン・バラム2世が建てた神殿群は十字グループと呼ばれます。パカル王が80歳と長命だったため、息子のキニチ・カン・バラム2世は即位した時、既に48歳になっていました。彼の治世は18年間と決して長いものではなかったのですが、十字の神殿(十字架の神殿)・葉の十字の神殿・太陽神殿という3つの神殿を建てています。

葉の十字の神殿から見た太陽の神殿(左奥)と十字の神殿(手前右)。




十字の神殿

十字グループの中で最も巨大なのが十字の神殿(十字架の神殿)です。



この神殿の周囲からはパレンケ特有の香炉が大量に発見されていて、キニチ・カン・バラム2世の墓所があるのではないかと考えられていますが、まだ墓は見つかっていません。

この神殿を登った所はパレンケの撮影ポイント。宮殿や碑銘の神殿を撮影するのに絶好の場所です。父の眠る碑銘の神殿を見下ろす神殿を建てたキニチ・カン・バラム2世、父を越えたいと考えていたのでしょうか。



この十字の神殿はパレンケの撮影ポイントです。
神殿の頂上付近から見下ろした風景。
木立の奥に碑銘の神殿、宮殿。手前は神殿14。




手前は左から十字グループの太陽の神殿、神殿14。その裏手が碑銘の神殿。



宮殿をアップで撮ってみました。
ここからだと宮殿の裏手がよく分かります。
左手に階段がありトンネルのようなところが宮殿の地下への入口。
地下のベンチなどを見て、塔のあたりに出るという構造。





風景だけではなく、神殿にも見どころはあります。

まず、神殿の名前の由来になったレリーフ。神殿の名前の由来となった十字架のような形が中央に写っているのが見えるでしょうか。2014年も、このレリーフは状態が悪かったので2002年の写真のコントラストを調整してみました。実際には彫られているのは十字架ではなくマヤの世界樹であり、その右に成人の姿の王、左に少年の姿の王が彫られています。




上の写真は神殿内に造られた小さな部屋の奥にあるのですが、その部屋の手前にも見事なレリーフがあります。

ただ、ここのレリーフも撮るのは非常に難しい・・・。


右の写真は神殿入口右側にある煙草を吸う老人のレリーフとして有名なものです。

これは喫煙を描いた最古のレリーフなのだそうです(煙草の起源はメソ・アメリカです)。

コントラストなどを少し調整してみたのですが、見えるでしょうか。

左を向いた人物が煙管のようなもので煙草を吸っています。煙草の煙が上と下に流れているところも彫られているのですが・・・・。

煙草を吸っているのは冥界の神だという説もあれば、神官だという説もあるようです。

そして、この煙草を吸う老人のレリーフと対になっているのが、神殿を建てたキニチ・カン・バラム2世の姿。

写真に撮ると、どうも良く写らない。肉眼で見る方が良く見えたような気がします。。


アップの方が写るかと思って撮ってみました。
左下がキニチ・カン・バラム2世、右下が煙草を吸う老人。

   



葉の十字の神殿

葉の十字の神殿は太陽の神殿と向かい合う形で小高い丘の上に建っています。

小さな建物でマヤアーチが綺麗に見えますが、どうやらそれは前壁が崩落したからのようです。

内部にはトウモロコシが十字の形で表されている十字架の神殿に似たレリーフがあり、名前の由来となっています。挑戦はしてみましたが、残念ながら、うまく写真に撮ることはできませんでした。

十字グループのレリーフも宮殿のレリーフのように修復をして欲しいものです。

2002年に訪れた時、現地ガイドさんが、ここの音響効果について実験してくれました。

葉の十字の神殿と向い合って建つ太陽の神殿の間は結構距離があるのですが、2つの神殿に登って声を掛け合うと、大きな声を出さなくても、よく聞こえるのです。

マヤの人達の技術は凄いですね。

どのような原理になっているのでしょうか。


挑戦したものの上手く写らなかったレリーフ。2014年の失敗作。




2002年の写真を少し調整したところ、
左の少年王の姿がかすかに浮かび上がりました。





太陽の神殿

十字の神殿を挟んで、葉の十字の神殿に向かい合って建つ太陽の神殿。こちらは保存状態がかなり良く。屋根飾りが綺麗に残っています。右隣にある屋根がない建物が神殿14。この神殿の裏、川を挟んで碑銘の神殿があります。




太陽の神殿内のレリーフ。少しは見えるでしょうか。
ここでは真ん中に丸い楯と槍、右に成年の王、左に少年時代の王。





太陽の神殿はキニチ・カン・バラム2世が建てたものですが
その隣の神殿14は弟のキニチ・カン・ホイ・チタム2世が建てたものです。
ここに残るレリーフは死の世界にいる兄と母なのだそうです。




実は、このキニチ・カン・ホイ・チタム2世は近隣のトニナーの捕虜となります。
王が捕虜となったことにより、パレンケは衰退していきます。
パレンケの繁栄はパカル王とキニチ・カン・バラム2世の2代の儚いものでした。




球技場

十字グループから宮殿の横を通って球技場へ。



この球技場の先にも北グループという建造物群がありますが、残念ながら時間切れ。




パレンケが終焉したのは9世紀
放置された宮殿は旅人などが雨風をしのぐ場所となりました。

それを思うと儚いパレンケの栄華なのですが
パレンケは実に魅力に満ちた遺跡です。
美しいだけでなく、かっての霊気が残っているような・・・
なんとも言えない雰囲気がある場所です。
2度訪れたけれど、機会さえあれば、また行きたい。



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参考文献

古代マヤ王歴代誌(創元社 サイモン・マーティン/ニコライ・グールベ著 中村誠一監修)
古代マヤ文明(河出書房新書ふくろうの本 寺崎秀一郎著)
マヤ文明・密林に栄えた石器文化(岩波新書 青山和夫著)
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき著)
メキシコ国立人類学博物館・日本語版・ボネーキ出版社
マヤ三千年の歴史・日本語版・ボネーキ出版社
古代メキシコ・日本語版・ボネーキ出版社


現地ガイドさんの説明を元にまとめています。