パカル王墓とパレンケの歴史

パレンケの碑銘の神殿から発見されたパカル王墓
マヤ世界で最初に発見された未盗掘の王墓でした。
パカル王墓とパレンケの歴史をまとめました。



写真はメキシコシティ国立人類学博物館に復元されたパカル王墓


パカル王墓

マヤの遺跡の中でも、その優美さで有名なパレンケ。宮殿近くの碑銘の神殿は元々多くのマヤ文字があることで有名でした。1949年にメキシコ人考古学者アルベルト・ルース・ルイリエールが神殿の床に12個の孔があることに気づきます。それから4年をかけて彼は埋められていた土砂を取り除き、ついに1952年6月13日、パカル王墓にたどり着きます。
マヤ世界初めての未盗掘の王墓。マヤのピラミッドは王墓ではないとする説が覆った瞬間です。


正面から見た碑銘の神殿
パカル王墓はここから発見されました。
9つの基壇からなります。9はマヤ世界で死後の世界を示す数。



現在、碑銘の神殿内のパカル王墓は見ることができません(登ることもできません)。代わりにメキシコシティの国立人類学博物館やパレンケ博物館で再現王墓を見ることができます。

残念ながら2014年の旅行でもパレンケ博物館を見ることはできませんでしたが、メキシコシティの国立人類学博物館をゆっくり見学できただけでなく、メキシコシティの国立宮殿で偶々開催されていたマヤ展で普段は見れないオリジナルの数々を見ることができました。

下の写真は、メキシコシティの国立人類学博物館マヤ室の中にあるパカル王墓の復元。博物館の目玉の一つでもあります。王の名前は正確にはキニチ・ハナーブ・パカル1世と言います。

墓室の天井はマヤ・アーチ。広さは9×4m。
棺は巨大な石灰岩から切り出されたもので、くり抜かれた中央部分に王の遺体が置かれていました。
王の遺体は一面の赤い水銀朱で覆われ、多くの翡翠製品で飾られていました。

碑銘の神殿を建設後、この巨大な棺を運び入れるのは不可能と考えられるので、おそらく、この棺が置かれてから碑銘の神殿を完成させたのだろうと考えられています。

棺の側面にはパカル王の両親を初めとする多くの王が彫られており、棺を蓋う石の蓋にはデニケンが「宇宙船を操縦する姿」と大騒ぎしたレリーフが彫られています。

もっとも、真面目なマヤ学では宇宙船とかではなく、亡くなった王が地下世界から再生する姿が彫られたものとするのが通説です。

人類学博物館では、この有名な石の蓋が良く見えないのが残念。
パレンケの博物館の方が石の蓋は良く見えるらしいです・・・。


パカル王の翡翠のマスクと翡翠の副葬品。オリジナルです(国立人類学博物館)。
再現王墓の手前に展示されています。マスクのオリジナルを見るなら人類学博物館、といった感じでしょうか。
この翡翠のマスクは1985年に一度盗難に遭っています。
   

左上の写真はマスクと首飾り部分のアップ。王の顔に漆喰などを塗り、その上に埋め込むようにしてマスクを形作ったと考えられています。発見当時バラバラになっていた翡翠片の組み合わせについて復元調査・実験を重ねた結果、現在の顔立ちとなったそうです。昔の復元では、もっと丸顔というか、どっしりとした顔でしたが、随分とハンサムになった気もします。
ちょっと分かりにくいかもしれませんが、王は口の中に翡翠の玉を含んでいます。

それだけでなく、王は手に翡翠の玉を握り、全ての指に翡翠の指輪をしています(右上)。マヤ世界では翡翠は黄金より貴重なものでした。首輪や胸飾り、ちょっと変わった耳飾りも豪華ですね。

なんとか石棺の蓋が撮れないかと頑張ったんですが無駄でした(左下)。
でも石棺の周囲の9人の王のレリーフは何とも言えない雰囲気。9は死の国の数。
   


この石棺と床の間に、2つの頭像が置かれていました。
普段、国立人類学博物館にレプリカが置かれていますが、マヤ展でオリジナルが展示されていました。
まずは、12歳で即位した時のパカル王の姿とされている頭像。パカル王妃との説もあるようです。
成人女性というよりは、幼さの残る少年のような気がするので、私は通説支持。
   


もう一つの頭像がこれ。同じくマヤ展で展示されていたオリジナル。
成人したパカル王の姿と言われています。
結構細面で、翡翠のマスクとの共通点もあるような気がしますし、幼い時の面影も残っているような・・・。
   

それにしても凄い写実力。
パカル王は603年生まれで683年に亡くなっています。
7世紀に、これだけの技術があったとは驚くばかりです。
日本だと飛鳥時代?止利仏師のころ?




パレンケの歴史

パカル王が僅か12歳で即位したことは頭像のところで述べましたが、実はパカル王が即位した7世紀前半、パレンケは危機に瀕していました。それを立て直したのがパカル王と息子達。
現在パレンケで見ることのできる建造物の多くはパカル王と、その息子により建てられています。



パレンケの王朝は「バーカル(骨)」と呼ばれており、4世紀ころから始まったと言われています。
初代王は「トクタンの支配者」とも名乗っており、どうやらトクタンという場所から来て王朝を開いたらしいのですが、未だにトクタンが何処かは分かっていません。

この初代王の時代はティカルにシヤフ・カックが現われた少し後で、コパンやキリグアの王朝が始まったのとほぼ同時期。もしかしたら背後に何か一連の動きがあるのかもしれません。シヤフ・カックの名はパレンケの王宮にも記載があるそうです。

その後、パレンケは何代もの王が続くのですが、カラクムルが562年にティカルを破った後、カラクムルの勢力拡大の影響をパレンケも受けるようになります。

すなわち、パカル王が誕生する前の599年、そしてパカル王が僅か8歳の611年に相次いでパレンケはカラクムルの侵略を受け、大打撃を受けます。
カラクムルからパレンケまでは250キロ。マヤ世界で最長距離の侵略だったといいます。時のカラクムル王は「渦巻きヘビ」。川の水位が低くなる乾期の終わり、4月の侵攻でした。
599年の侵略ではパレンケの3守護神が奪われ、611年の侵略後は男性の血統者が途絶えたのではないかとも言われています。
一言でいえば大敗北が続いたわけです。


キニチ・ハナーブ・パカル王


パカル王が即位したのは、2度目の大敗北から4年後の615年のこと。12歳で即位したパカル王はパレンケ復興の期待を担っていたに違いありません。


右の写真はパカル王が宮殿内に建てた建物に埋め込まれているレリーフ。

双頭のジャガーの玉座に座ったパカル王が母サク・クックから王冠を受け取る姿を描いています。

ここでの王は少年ではなく成人した姿で描かれていますが、何か意味があるのでしょうか。

パカル王の母サク・クックはパカル王が即位するまでの中継ぎ的な女王だったとも言われており(最近では否定する説もあるようです)、おそらく王が即位した後もしばらくは若い王を補佐していたと思われます。

このレリーフのある部屋は、パカル王の後の王達が即位する際、その儀式の場として使用されたそうです。

宮殿入口から見ると、有名な塔の裏手にあたります。

2014年には残念ながらレリーフは金網で覆われてしまっていました。

写真は2002年に撮影したものです。


それにしても、わずか12歳で国運を担わされたパカル王は大変だったでしょうね。パカル王の妃はパレンケの起源と言われるトクタンから嫁いでいるそうです。なんとなく、そんなところからも、パレンケ再興の期待を担わされているような気がするのは考えすぎでしょうか。

しかし、パカル王は期待に応え、パレンケを復興していったようです。

659年にはカラクムルの従属国だったサンタ・エレナの王と貴族達を6人を捕虜にしており、パレンケの宮殿内にある東の広場には捕虜達の姿がレリーフとして残されています(左)。

捕虜が手を胸に置いているのは服従のあかし。

しかも、このころにはカラクルムの侵攻を受けたティカル王ヌーン・ウホル・チャークがパレンケを訪れていたらしく(亡命?)、ティカルと関係も興味深い。対カラクムルということで同盟みたいな関係だったんでしょうか。

パカル王の詳細な業績は分かっていませんが、彼が精力的に宮殿内の多くの建物を建てたこと、80歳という長命を誇ったことは分かっています。

マヤ世界では長命は非常に敬われました。

80歳という長命を誇ったことは、パカル王の治世が他国からの影響を受けず、安定し、強固なものであったことの何よりもの証であるようです。



キニチ・カン・バラム2世

パカル王が80歳で亡くなった後、王となったのはパカル王の息子であるキニチ・カン・バラム2世でした。
宮殿の東南側に位置する十字グループの神殿群はキニチ・カン・バラム2世が建てたものです。
写真は宮殿から見た十字グループ



パカル王が長命であったため、息子であるキニチ・カン・バラム2世が即位したのは48歳の時でした。即位後の王は建築王といってもいい程、多くの建造物を建てます。パカル王墓が埋まっていた碑銘の神殿を完成させたのもこの王でしょうし、十字グループの十字の神殿・太陽の神殿・葉十字の神殿を692年に同時に完成させたのもキニチ・カン・バラム2世です。

パカル王の長い治世による恩恵を受け、パレンケ最高の繁栄を享受したのはキニチ・カン・バラム2世だったかもしれません。王はウスマシンタ川南岸の多くの都市の優越王であり、近隣のトニナーを攻撃し、勝利していました。

この王の時代で特徴的なのが香炉です。神の顔に多くの装飾を施した大きな香炉はパレンケ特有のもので、十字の神殿の周囲から大量に発掘されました。


左下は国立人類学博物館、右下はマヤ展の展示品。

   



キニチ・カン・ホイ・チタム2世

キニチ・カン・バラム2世の跡を継いたのは弟のキニチ・カン・ホイ・チタム2世。即位したときには57歳と高齢でした。この王も精力的に建築に励みますが、711年、近隣のライバル国トニナーの攻撃を受け、捕虜になってしまいます。

下の写真はマヤ展で展示されていた捕虜となった王を描いたレリーフ。トニナーで発見されたもので、王は翡翠の首飾りをしているものの、腕には縄がかかり、不自然な姿勢をとらされています。



王が捕虜となったことで、以後、パレンケは衰退期を迎えます。キニチ・カン・ホイ・チタム2世がトニナーの捕虜となってから、次の王が即位するまでには10年もの時間がかかりました。その間、キニチ・カン・ホイ・チタム2世が生きていたのか、パレンケに戻れたのかは不明です。

10年後に即位したのは、キニチ・アーカル・モ・ナーブ3世。この王の父はキニチ・カン・バラム2世やキニチ・カン・ホイ・チタム2世の兄弟なので、王はパカル王の孫ということになります。

キニチ・アーカル・モ・ナーブ3世は美しいレリーフを残しています。国立宮殿のマヤ展で入ってすぐのところに展示されていたのが、このレリーフでした。中央に今は亡きパカル王を描き、パカル王の左右にキニチ・アーカル・モ・ナーブ3世と王の息子を描いています。右端と左端にいるのは神ということでした。偉大なパカル王との血筋を強調したかったのでしょうか。




上のレリーフをアップしたものです。
   


キニチ・アーカル・モ・ナーブ3世はパレンケの復興に力を注いだようですが、この王の時代には貴族たちが力を持つようになっていたことが分かっています。前王がトニナーの捕虜になったことによる王の権威の低下によるものでしょう。

キニチ・アーカル・モ・ナーブ3世の後は息子のキニチ・ハナーブ・パカル2世が即位しています。偉大なパカル王と同じ名前を持つパカル2世の時代には王女が遠いコパンに嫁ぎました。当時のコパンはワシャクラフーン・ウバーフ・カウィール(18ウサギ)王がキリグアに殺害され、王権が衰退し、貴族が力を持つようになっていた時期でパレンケとの共通点を感じます。

彼女の息子がコパン最後の王となりますが、パレンケも9世紀前半には放棄されました。



最後にマヤ展で展示されていたパレンケ出土の漆喰のマスク。
多くの本で紹介されている優品です。
思索的な表情が素晴らしい。



パレンケの芸術性の高さを示す一品ではないでしょうか。



ティカルやカラクムルのような大国ではなかったものの
パレンケの優美さはマヤ屈指のものだと思います。



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参考文献

古代マヤ王歴代誌(創元社) 中村誠一監修
マヤ文明・密林に栄えた石器文化(岩波新書) 青山和夫著
図説古代マヤ文明(河出書房新社) 寺崎秀一郎著
メキシコ国立人類学博物館・日本語版・ボネーキ出版社
マヤ三千年の歴史・日本語版・ボネーキ出版社
古代メキシコ・日本語版・ボネーキ出版社
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社) 芝崎みゆき著