ティカルの歴史

グアテマラ中部ペテン地方のジャングルにあるティカル
本来の王朝名は「ムタル」。都市名は「ヤシュ・ムタル」

 

マヤの歴史は大きく分けて、先古典期(紀元前1600〜後250年ころ)、古典期(後250〜900年ころ)、後古典期(後900〜16世紀前半)の3つに分けられます.
ティカルは先古典期の紀元前350年ころからノース・アクロポリスで神殿建築が始まり、後100年ころに「ムタル」王朝の初代王が即位したとされています。

マヤは古典期末の900年ころに各地の都市が一斉に終焉を迎える謎の滅亡があったことで有名ですが、実は先古典期末にも謎の滅亡があり、250年ころ、多くの都市が衰退し、滅んでいます。しかし、ティカルはこれを生き残り、4世紀には14代王チャク・トク・イチャーク1世(大ジャガーの足)のもと交易で急速に発展します。ティカルでは3世紀ころからメキシコ中央高原のテオティワカン文化が流入しており、このテオティワカンとの交易が隆盛を支えたと考えられているようです。 


 378年の政変
378年、ティカルで事件が起きます。378年の政変とも呼ばれます。そのころ、日本は古墳時代、人物埴輪が作られていたころです。ヨーロッパではゲルマン民族の大移動が始まっていました。 

数々の石碑等から読み取れるのは次の事実。

「378年1月31日、オチキン・カロームテ(西の大王)の称号を持つシヤフ・カックがティカルに『到着』。同日、14代王チャク・トク・イチャーク1世(大ジャガーの足)が『水に入る』。翌379年9月ヤシュ・ヌーン・アイーン1世が15代王として即位し、シヤフ・カックがその『優越王』となる。374年に即位した投槍器フクロウはシヤフ・カックのティカル『到着』を『目撃』(または『是認』)した。」

この後、ティカルではテオティワカンの戦士像やテオティワカン・ゴーグル(軍神のシンボル)が描かれたり、テオティワカン様式の土器が見られるなどテオティワカンの影響がより大きくなります。

マヤの言い回しは詩的過ぎて良くわからないですね。「水に入る」は死亡を意味するとのことですが、「到着」「目撃」とは?この一連の流れをどう考えるかで、現在、熱いバトルがマヤ学会では繰り広げられているらしいです。

下の写真がバトル発端の一つともいえる投槍器フクロウのマルカドール。テオティワカン特有の球技場のゴール・マーカーを模した記念碑で、投槍器フクロウに捧げられたものと考えられるのですが、これがティカルから発見されたのです。現在はグアテマラの国立考古学民族学博物館で展示されています。 
   

発見されたのは、ティカルの失われた世界南側のタルー・タブレロ様式(テオティワカンの建築様式)の建物。

投槍器というのはテオティワカン特有の武器で、槍をひっかけて遠くに飛ばす武器(棒の先にひっかける鉤のようなものが付いている)。中央のフクロウが投槍器を持っています。

この投槍器フクロウがヤシュ・ヌーン・アイーン1世の父であることは、多くの碑文や、ヤシュ・ヌーン・アイーン1世の墓から「投槍器フクロウの息子のコップ」と記されたコップが発見されていることから、ほぼ確定されているようです。また、彼がティカルの女性と結婚したことをほのめかす碑文も見つかっているそうです。しかし、投槍器フクロウはシヤフ・カックのティカル「到着」前に即位しているのでティカル以外の王であることも明らかです。では、一体、どこの王なのか?

 テキサス大学のスチュアート教授の説は、
「投槍器フクロウはテオティワカンの王で、臣下の将軍シヤフ・カックをティカルに派遣して、ティカル14代王チャク・トク・イチャークを処刑し、自分の子供であるヤシュ・ヌーン・アイーン1世を15代王とし、シヤフ・カックに若年の王を後見させたのだ」・・・・・というもの。シヤフ・カックの称号であるオチキン・カロームテが「西の大王」というのも、テオティワカンがマヤの西に位置するから、と考えるようです。確かにテオティワカンはティカルの西に位置しますが、その距離約1000キロ・・・・そのように離れた場所からの将軍派遣が本当にあったのでしょうか。

この論争の中で、投槍器フクロウのマルカドールと並んで重要とされるのが石碑31です。
石碑31はティカルのノース・アクロポリスの神殿33に埋もれていた古い神殿から発見されました。

オリジナルはティカルの博物館で展示されています。オリジナルの石碑は驚くほど保存状態がよく、繊細な毛彫りが見事で、とっても優美な印象を受けました。歴史的意義だけでなく、美術品としての価値もかなりのもの。

しかし、残念ながらティカルの博物館は写真撮影禁止。右の写真はメキシコシティの国立人類学博物館テオティワカン室のレプリカです。レプリカでも雰囲気は伝わるでしょうか・・・。

この石碑、正面にはマヤの豪華な衣装・装飾を着けた人物像が、左右の側面にはテオティワカンの衣装を着けた戦士像が彫られており、かってはテオティワカンとマヤの交流を示すものと考えられてきました。

しかし、マヤ文字解読が進んだ結果、左右側面のテオティワカン戦士風の人物が投槍器フクロウの息子であるヤシュ・ヌーン・アイーン1世で、正面のマヤ風の人物が、その息子であるシヤフ・チャン・カウィール2世であることが分かったのです。

この石碑背部にはマヤ文字が刻まれており、ティカル王家の血筋が女性を通して継承されていることを強調するような内容や、ヤシュ・ヌーン・アイーン1世の即位をシヤフ・カックが後見したこと、更には投槍器フクロウの死が記されているとのこと。


石碑31(レプリカ)のレリーフを撮ってみました。
     

博物館の照明の関係で、左の側面がちょっと見にくいですが、正面の人物と左右の人物の衣装等が全く異なる様式であることが分かります。正面は伝統的なマヤ風。左右はテオティワカン風。
加えて左のヤシュ・ヌーン・アイーン1世はテオティワカンの武器である投槍器を手に持ち、右ではテオティワカン・ゴーグル(丸メガネ)を付けたトラロック神の楯を持っています。
それに対し、正面のシヤフ・チャン・カウィール2世はマヤ風の頭飾りを右手で掲げています、でも、この頭飾りには投槍器フクロウのメダルが付けられているのだそうで・・・色々と複雑ですね。



投槍器フクロウは374年に即位して439年に死去しています。

もし、スチュアート教授の説が正しいのであれば、投槍器フクロウはテオティワカンで月のピラミッドが完成(400年ごろ今の姿になったとされています)した当時の王ということになります(ちなみに太陽のピラミッドが今の姿になったのは250年ころ)。テオティワカンの最盛期を築いた王と言ってもいいかもしれません。450年ころのテオティワカンは人口20万人、世界有数の都市でした。

写真はテオティワカン 月のピラミッド


謎の超大国テオティワカンでは王の名前も王朝の歴史も分かっていません。それが、遠く離れたマヤで最盛期の王と将軍の名前や業績が分かった、しかもティカル王朝はテオティワカン王の血も引くのだ、な〜んて、余りに面白すぎる説です。

シヤフ・カックはティカルだけでなく、ティカル周辺のペテン地方の多くの国で記録されています。特に、ティカルと当時争っていたワシャクトゥンでは支配層の大量虐殺というマヤでは極めて珍しいことも起きています。そうなると、テオティワカンがマヤを軍事的に支配していたのか、なんてことにも繋がりかねないし、実際、そのように主張している学者さんもいるみたいです。

ヤシュ・ヌーン・アイーン1世の肖像を拡大してみました。テオティワカン・ゴーグルを付けたトラロックの楯がよく分かるかと思います。右手にはテオティワカンの武器である投槍器も持っているし・・・。テオティワカン王の息子であることを意識した格好と考えるのが自然な気もします。

ヤシュ・ヌーン・アイーン1世のお母さんはティカルのお姫様だったみたいですが、テオティワカンの王子だったころの投槍器フクロウとの間にどんなロマンスがあったのでしょう。それとも血塗られた政略結婚だったのでしょうか。

もっとも、スチュアート説は余りに面白すぎるためか、当然反論もたくさんあって、ヤシュ・ヌーン・アイーン1世はティカルで幼少期を過ごしている科学的証拠もあるとか、シヤフ・カックはティカルの王族だとか、投槍器フクロウはテオティワカンではなく、未だ判明していない別の国の王であるとも言われています。

反対説を調べてたら、投槍器フクロウは「ホ・ノフ・ウィッツ」という国の4代王という記載があるとか。
テオティワカンの古さを考えると、投槍器フクロウが4代目であるという若い国をテオティワカンと同一視するのはおかしい・・・というのが反対説の論拠のひとつのようです。

でも、確か、テオティワカンでは300年ころに政変があったとする説が有力なはず・・・・・・。

テオティワカンのケツアルコアトルの神殿は200年ころに完成したのに、何故か300年ころに埋められています。これは、テオティワカンの有力者だったケツアルコアトルを信仰していた集団が政権交代により倒され、その勝者によってケツアルコアトルの神殿は埋められたのだ・・・という説が結構有力なのです。

その新しい政権・王朝が「ホ・ノフ・ウィッツ」だとしたら、ぎりぎり年代が合うような気がしますが・・。


まあ、テオティワカン以外のティカルに優越する強国が未だにジャングルのどこかに埋もれているかもしれない・・・というのも、それはそれでわくわくする話。「ホ・ノフ・ウィッツ」はどこなのか・・・。


左はマヤ風の頭飾りを掲げるシヤフ・チャン・カウィール2世の上半身のアップ。

投槍器フクロウの息子とされるヤシュ・ヌーン・アイーン1世の治世下ではテオティワカン文化の影響が強かったものの、その息子であるシヤフ・チャン・カウィール2世の治世下ではマヤ回帰が見られたようです。

この石碑は、シヤフ・チャン・カウィール2世によるマヤ回帰の宣言なのでしょうか。

しかし、シヤフ・チャン・カウィール2世の時代にティカルによって新しく王朝が開かれたと考えられているコパンとキリグアにはティカルだけでなくテオティワカンの影響が強く見られます。

コパン初代王のキニチ・ヤシュ・クック・モはティカル出身と考えられていますが、なぜか後世には必ずテオティワカン・ゴーグル(丸メガネ)を付けた姿で描かれました。

それだけでなく、コパン初代王はシヤフ・カックと同じオチキン・カロームテの称号を持っていました。

テオティワカンとマヤ・・・想像が膨らみます。
 




カラクムルとの抗争

シヤフ・チャン・カウィール2世から約百年後の562年、従属国を従え繁栄を誇っていたティカルが「星の戦争」で大敗し侵略を受けます。時の王は21代ワク・チャン・カウィール(ダブルバード)。この王は亡命から帰還して即位したかのように読める記録があり、この王の少し前には僅か6歳で即位した女王もいるので、もしかしたらティカルにお家騒動があり、そこにつけこまれたのかも・・。

この時、ティカルに侵攻したのは、かっての従属国カラコルとその背後にいたと思えるカラクムル。ティカル同様、先古典期からの老舗国であったカラクムルはティカルを破った後、次第に隆盛し、反対にティカルは130年間もの間モニュメントが作られないという衰退期に入ります。


写真はティカルの宿敵カラクムルの建造物2
体積としては古典期マヤ最大の規模を誇ります。


562年の敗北から約80年後、ティカルの王族と思われるバラフ・チャン・カウィールがドス・ビラスに新たな王国を築きます。元々は弱体化していたティカルがパシオン川流域の交易を押さえるためにバラフをドス・ピラスに派遣したと考えられるのですが、なんとバラフは敵国カラクムルと組んでティカルを攻撃するようになります。「裏切り」です。

右の写真はバラフの肖像が刻まれた石碑9。
現存する唯一のバラフの肖像だそうです。

バラフとティカル王位を争ったのではないかと思われる25代王ヌーン・ウホル・チャーク(楯頭蓋骨・バラフと兄弟とする説も有力)はティカルで「最も多くの星が交差した」時代の王と言われ、この王の治世下でカラクムルとの戦いが繰り返されました。

657年にはティカルが負け、ヌーンはパレンケに亡命。その後、ヌーンは672年にドス・ビラスを攻撃してバラフを追放。
しかし、677年にはカラクムルに負けドス・ビラスを撤退・・・と戦いに明け暮れたヌーンは679年にカラクムルに大敗北して以降、記録から消えることとなります。

これにより、カラクムルはマヤ最強の大国としての地位を固めます。

しかし679年の大敗北から16年後の695年、ヌーン・ウホル・チャークの息子であるティカル26代王ハサウ・チャン・カウィールがカラクムル王ユクノーム・イチャーク・カックの「楯と槍を打ち落と」し、カラクムルの守護神を「捕える」という大勝利をおさめます。


この大勝利により、ティカルは息を吹き返します。ハサウはコンプレッソ・双子ピラミッド建築複合とも呼ばれる新しい様式の神殿建設を始めるとともに、グランプラザの1号神殿・2号神殿、グランプラザを眺める場所にある5号神殿も建設しました。それだけの富を回復したのでしょう。

興味深いことに、ハサウの治世下はテオティワカン回帰が強く見られるらしいです。

ティカルの有名な1号神殿(左の写真)のリンテルにはカラクムルへの勝利の儀式を行うハサウ王が描かれましたが、そのハサウ王はテオティワカン風の姿で彫られているそうです。

テオティワカンが滅亡したといわれるのは650年ころで、ハサウの父ヌーン・ウホル・チャークの時代と考えられます(日本では大化の改新が645年ですね)。
このハサウのテオティワカン回帰についてはテオティワカンからの避難民が流入したからとか、テオティワカンの威光を利用したとかの説があるそうです。

ティカルを復活に導いたハサウ王は没後1号神殿の下に豪華な副葬品とともに葬られました。

現在の1号神殿はハサウが建築した神殿をハサウの墓所とするため、息子であるイキン・チャン・カウィールが改築したと考えられています。

そして、1号神殿の屋根飾りにはハサウ王の座像が刻まれました。



ハサウ王の豪華な墓はティカルの博物館とグアテマラ国立考古学民俗学博物館の特別室に復元されています。下の写真は後者のもの。骨はレプリカですが、副葬品の翡翠は本物です。



翡翠はマヤで最も価値あるもの。
この首飾りは、なんと3.9キロもの重さがあるとか。



ハサウの息子で27代王となったイキン・チャン・カウィール1世は、カラクムルや、その配下の国々を破っていきます。

その結果、カラクムルは次第に力を失い、ティカルはマヤ第一の強国としての地位を確固たるものとしました。

イキンは、ティカルの1号神殿、4号神殿、6号神殿等、多くの建造物を建立しています。

4号神殿はマヤで最も高い建造物と紹介されることが多く、テオティワカンの太陽のピラミッドとほぼ同じ高さ。

写真はその4号神殿のリンテルからイキン像のアップ。グアテマラ国立考古学民俗学博物館で展示されています。

カラクムルの従属国エル・ペルーに対する戦勝記念として作られたもの。

なかなかに意志の強そうなお顔をしております。

首飾りも豪華。ハサウの首飾りに似てますね。


ガラスが光ってしまって残念なのですが、4号神殿のリンテルの全体像


イキンはティカルの最盛期を築いた王と言っていいと思います。8世紀のティカルは人口6万を越えていたと言われます。

イキンの墓は4号神殿の下にあるのではないかと期待されているそうで、近い将来、ハサウ以上に豪華なイキンの墓が発見されるかもしれません。


 イキンの後、彼の子供たちが王位を継ぎました。
28代王の名前は分かっていませんが、父イキンが建造を始めた6号神殿を完成させています。

29代王もイキンの息子で、28代王の弟と見られています。
彼は投槍器フクロウの息子と同じヤシュ・ヌーン・アイーン(2世)という名を名乗りました。
   

 写真はセントラル・アクロポリスから発見されたヤシュ・ヌーン・アイーン2世の宮殿での生活を描いた彩色土器(グアテマラ国立考古学民俗学博物館特別室)。右がワニの頭飾りをつけた王。左は妻?この王は双子ピラミッド建築複合・コンプレッソQとRを建築しました。


その後、古典期マヤの他の王国と同じようにティカルも徐々に衰退していきます。9世紀には31代王「暗い太陽」が3号神殿を建てましたが、これが最後の大規模な建造物となりました。
ティカルで確認される最後の王は33代、ティカルが放棄されたのは10世紀のことだそうです。




 グアテマラ国立考古学民俗学博物館

これまでもグアテマラ国立考古学民俗学博物館の収蔵品を紹介してきましたが、同博物館にはティカル室も設けられています。それだけでなく同博物館の中でも貴重なものを集めた特別室の展示品もその多くがティカルの出土品です。

特別室の中でも特に豪華なのが、この翡翠の仮面。マヤでは王国ごとにこのような仮面を持っていたらしいのですが、この豪華さはティカルの栄華を物語るものでしょう。凄い迫力。 メキシコで買ったマヤの本にはティカルの墳墓160号から出土とありますが、誰の墓から出たのでしょうか。
   


翡翠の工芸品には繊細な美しさを感じさせるものも多いです。
下の写真は、トウモロコシの神の衣装を着けたイキン・チャン・カウィールか、彼の息子を象った翡翠の容器。円筒形の木の周りに翡翠の破片を翡翠の針で固定したもので、ハサウ・チャン・カウィール1世の墓からも似たような翡翠のモザイク容器が発見されているそうです。余りに見事なので、方向を変えて撮ってみました。

   



 最後に、残酷だけど美しいレリーフ
後ろ手に縛られた捕虜が彫られた祭壇。
博物館中庭付近に展示されていました。

 


 以上は、あくまで2012年のグアテマラの旅を記念した私的なまとめです。
マヤ学は凄い勢いで進んでおり、数年後は全く通説が変わってしまうかもしれません・・・。

その時は、また行ってみたいものです。


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 参考文献

古代マヤ王歴代誌(創元社 中村誠一監修)
ナショナルジオグラフィック日本版・2007年8月号
マヤ文明(岩波新書 青山和夫著)
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき)


参考論文

11EBのEntorada−AD378のティカルの政変−(佐藤孝裕)