トルファン
かって車師前国・麴氏高昌国・高昌ウイグル国の都だったトルファン
玄奘の大唐西域記はトルファンから始まります。
麴氏高昌国は玄奘のパトロンとも言える国でした。
2015年5月訪問

写真は高昌故城の宮殿址


トルファンは、かって敦煌から「十三日間」の距離にあったと言われました。中原から西域に入って間もない大きな街・国です。玄奘の大唐西域記も今のトルファン・高昌国から始まります。

現在のトルファンの街角


トルファンとは「オアシス」の意味。古くからシルクロードの交通の要衝にあるオアシス都市として栄えました。天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタクラマカン砂漠はシルクロードの難所であり、シルクロードはタクラマカン砂漠を避けるルートとして、砂漠の北にある天山山脈の①北を通る天山北路と②南を通る天山南路、③砂漠の南・崑崙山脈の北を通る西域南道に分かれますが、トルファンは天山山脈の東端南麓に位置することから、天山南路と天山北路を結ぶ要衝にあたるのです。

私達のツアーでは天山山脈の北のウルムチからトルファンまでバスで移動しました。
途中、綺麗に見えた天山山脈。


トルファン市近郊の遺跡を紹介します。


高昌故城

高昌故城入口。堅牢な外城


高昌故城は現在のトルファン市内から約40㎞ほど東にある城址です。紀元前1世紀、前漢の武帝の時代に匈奴を攻めるため西進した将軍が負傷した兵士をオアシスで休ませたのが始まりと言われます。その後、屯田兵が置かれ、後漢の時代には高昌壁と呼ばれる砦が築かれて西域の中継地とされました。

その後、5世紀に麴氏高昌国が興ると、国都として繁栄を極めるようになります。7世紀に玄奘が経典を求めてインドを目指した時の王は麴文泰(きくぶんたい)。仏教に深く帰依していた麴文泰は玄奘が西域の伊吾(現ハミ)に入ったことを知ると使者を出して迎え、この地で歓待します。当時の高昌国では仏教だけでなくゾロアスター教も信仰されていて、仏教を重んじた麴文泰は玄奘を高昌国に留めようとしますが、玄奘は断食して抵抗。玄奘の決意を知った王はインドからの帰り道に3年間高昌国に留まることを条件にインドを往復するための20年分の旅費を出しただけでなく、インドまでの24国の国王に玄奘の旅の安全を依頼する書面と献上品を用意します。
この麴文泰の破格の援助なくして玄奘が経典をインドから持ち帰ることは不可能だったのではないかと言われています。

高昌故城の地図が入口にありました。
ご覧のように高昌故城は、ほぼ正方形。東西約1600m、南北約1500m。
高昌故城は①外城、②内城、③宮城の3つから構成されています。
一番外側が外城。右の地図で、ぐるりと赤く城址を囲んでいるのが分かるかと思います。上の写真のように堅牢な造り。その内側になった内城は、今はところどころしか残っていません。
外城と内城の間には兵士が住んだということですが、寺の跡も残っています。内城の中では一般の人々が暮らしていました。そして、内城の更に内側に宮城があります。

麴氏高昌国は玄奘がインドから帰国する際には滅んでいましたが、この城はその後もウイグル族の高昌ウイグル国(高昌回鶻国)の都として栄えます。しかし13世紀に元に滅ぼされ、焼け落ちました。


まずは歩いて外城を抜け、高昌故城内に入ります。
広い遺跡なため、昔はロバ車で見学したそうですが、今はカートで移動。
延々と続く外城が見事です。外城の総延長は5.4㎞。高さは10m。
   


カートで移動中に内城が見えました。
残念ながら、ところどころしか残っていません。
農民が内城の煉瓦を綿畑の肥料に使ってしまったんだそうです。



東南小寺



仏塔が綺麗に残っています。
仏塔の前が仏殿があり、覗くと壁画がちょっとだけ残っていました。
高昌ウイグル国(高昌回鶻国)末期(12~13世紀)のものだそうです。

   


宮城

かっての宮殿の跡です。


玄奘が高昌国に入った時、王は侍臣とともに王宮の外で出迎え、奥殿に招き入れたといいます。当時の王宮は二階建ての楼閣で、豪華な帳幕を垂らしてあったそうです。現地ガイドさんは、玄奘が訪れた時のことを話すのだけれど、この宮城が何時の時代のものかは分かりません。
玄奘がインドから戻って、麴文泰との約束を果たそうとした時には、既に王は亡く、高昌国も滅んでいました。玄奘が訪れた時には唐との関係も良好だった高昌国ですが、その後、突厥と結び、唐に背いたため、唐の大軍に討たれたのです。麴氏高昌国の宮殿は、その時、破壊されたんじゃないのかなあ。高昌故城は、その後も元に滅ぼされるまで高昌ウイグル国(高昌回鶻国)の都として続いたのですから、この宮城は後のものなのではないかと思うのですが・・・。

再びカートに乗って移動します。

西南大仏寺

非常に大きな建物が見えて来ました。仏教寺院だそうです。
手前にも多くの建物が残っていました。


かなり厚い壁を抜けて内部に入ります。
正面には主殿が見えます。



主殿の正面には大きな仏塔があります。
かっては大きな仏像が置かれていたのでしょう。
光背の形の窪みが残っています。



主殿には仏塔が置かれていて、仏塔の周囲を巡ることができます。

正面には大きな光背の形の窪みがありましたが、他の三方にも幾つもの壁龕が残っていました。かっては、この壁龕の一つ一つに仏像が納められていたのでしょう。

玄奘はインドを旅立つ前、一か月間に渡り、この地で仁王般若経の講義をしたと言います。
現地ガイドさんは、この大寺で玄奘が講義を行ったと説明していましたが、案内文を見ると、高昌ウイグル(高昌回鶻国)時代の建物だそうです。時代が合いませんね。

玄奘の講義には新しく帳幕を張って、三百余人分の席を設け、国王はじめ大臣、高僧達が聴聞したと言いますから、大きな広い場所で講義を行ったのは間違いないのでしょう。

もしかしたら、日本でも法隆寺とか古い寺が残っているわけだから、由緒ある寺として同じ場所に高昌ウイグル(高昌回鶻)時代に建て直されたのかもしれませんが・・・。


この大寺も主殿前の礼拝所の周囲は僧坊となっています(左下)。
珍しいのは入って右側にある円形の建物(右下)。
   


説法堂



この丸い建物は案内文によると「説経堂」。僧が説法をした場所と考えられています。現地ガイドさんは、ここで玄奘が説法をしたと言っていましたが、たぶん、時代が違うと思います。

ただ、面白い建物なのは間違いありません。かっては、ドーム型の屋根がついていたそうです。雨が降らないトルファンでは屋根は平たく造ると言いますから、わざわざドーム型にしたのは音響を考えてのことでしょうか。内部に小さな壁龕がありますが、かっては小さい仏像を壁龕に置いたのだそうです。

   


玄奘が招かれた宮殿がどこだったのか
玄奘が講義を行ったのはどこだったのか
今となっては定かではありません。
でも、この高昌故城のどこかだったことだけは確かです。
玄奘が、この地を歩いていたと思うだけで、結構、ロマンです。



大寺を出た正面は巨大な城壁でした。
これは内城だそうです。


このあとカートで入口に戻りました。
ざっと1時間くらいの見学でした。
徒歩でゆっくり見学できたら楽しそうですが、5月でもかなり暑かった。




アスターナ古墳

アスターナ古墳はトルファン市内から東南へ約36㎞のところに位置する墓地群です。
高昌故城の北郊にあり、現在500近い墓地が発見されています。

多くは6~7世紀の麴氏高昌国時代のもので、右の写真のような参道と地下の墓室という構造をしています。
この墓地には基本的に夫婦で葬られました。公開されているのは210号、215号、216号という3つの墓地だけなのですが、そのうち210号には夫婦のミイラも残っています。
215号・216号には壁画も残っています。

墓地には葬られた人々の生没年月日や生前の事跡を記した墓誌が置かれただけでなく、多くの副葬品も納められました。
絹本や木傭・土傭、多くの布地などが発見されていて「地下博物館」とも評されているそうです。

当時の人々の習俗を知ることができる貴重な副葬品はウルムチの新疆ウイグル自治区博物館でも数多く展示されていました。


216号の壁画(ウルムチ新疆ウイグル自治区博物館の写真展示)
人物は金人・石人などと書かれていて、儒教の教えを表わしているそうです。



215号壁画(絵葉書)花と鳥が描かれています。
新疆には居ない鳥が描かれていることから商人の墓と考えられています。



新疆ウイグル自治区博物館の展示品

伏義・女媧図 
中原の影響で副葬品として流行したそうです。
 
 彩絵馬夫木俑
こちらは完全に西域の風俗



交河故城

交河故城はトルファンの西約16㎞のところに位置する城址です。名前通り2つの川に挟まれた高さ30mの台地の上に築かれた城で、天然の要塞とも言える地形のため城壁がありません。


交河故城は柳の葉のような形をしていて、南北約1㎞、東西の最大幅は約300m。

3000年前に人々が野生動物から逃れるために住み始めたのが最初と言われ、前漢時代、紀元前108年から紀元後450年にかけて車師前国の都とされました。

麴氏高昌国時代になると都は高昌故城に移りますが、交河故城には交河郡城が築かれ、その後、唐、高昌ウイグル(高昌回鶻)の城として元に滅ぼされるまで使用され続けました。

現存する建物は唐代以降に築かれたものが多いとのことですが、中国でただ一つ残る漢代からの都市遺跡であると同時に、世界最大・最古級の版築で築かれた都市遺跡です。
広さこそ高昌故城には及びませんが、保存状態が全体的に良く、実に見ごたえがあって面白かった。遺跡好きにはたまらない場所です。

写真は交河故城南門に通じる坂道。


坂道の手前に断崖を使って大きな地図が書かれていました。
右下の南門から入ります。



南門


巨大な南門
交河故城の建物は土を固めて造る版築という建築法で建っています。

この南門からは幅3mの中央大通が北に向って通っています。
城に入ってすぐは大きな建物が多く、案内板では「大型院落区」とありました。
居住区のようです。
   


しばらく進むと道が東西に分かれます。
西を進むとすぐに大きな建物が見えて来ました。
後で分かりましたが、東に進むと官署区に出ます。

南部仏寺


大きな建物です。見張り台との説もあったけれど、今ではお寺とされているとのこと。
更に道を進むと「寺院区」とあるところに出ます。多くの寺院があったようです。

   


寺院区を進むと正面に立派な建物が見えて来ました。

中央大塔


塔の基壇が残ります。
この塔の裏手に進むと、大きな建物が見えて来ます。



大仏寺

案内板によると4世紀に建てられた寺院だそうです。
随分と古い寺院です。車師前国時代でしょうか。
凄い大きな建物で、思い切り後ろに下がらないと全景は撮れません。


内部も広い。
広い広場のようになっていて奥に大殿があります。
現地ガイドさんは広場のようなところを礼拝所と言っていました。
礼拝所の手前部分には、かって左右に鐘楼があったそうで方形の基壇が残っています。




礼拝所の周囲は僧坊になっています。
   


 礼拝所の鐘楼の基壇
 厨房


大殿に進むと、内部に塔がありました。



塔には壁龕があります。なんと壁龕に仏像が残ってます(右下)。
   



大仏寺の裏手東西にやや小さめの寺院、西北仏寺と東北仏寺があります。

西北仏寺
大仏寺に比べれば小さいものの、かなり大きな建物です。
5世紀に建てられ、9~10世紀に改築されたそうです。



この寺の内部は面白かった。
中央に奥殿があるのですが、その左右から通路があって後ろを通ることができます(左下)。
キジル千仏洞の中央柱窟を思い出す構造です。
周囲は僧坊のようですが、地下室もありました(右下)。
   



東北仏寺

少し離れたところにある東北仏寺
こちらはお寺に通じる参道の左右に建物があったようです。
案内板を撮り忘れましたが、門のような印象を受けます。



内部に入ると正面に塔が残り(左下)、周囲は僧坊になっていました(右下)。
僧坊には井戸のようなものも残っています。
   


東北仏寺から更に北に進むと塔林があります。

塔林


ちょっと分かりにくいかもしれませんが、中央の塔の周囲にも小さな塔があります。
小さな塔は25基で1組となっていて、全部で4組。
中央の塔と合わせると、実に101もの塔があるわけで、まさに「塔林」です。

遺跡のかなり北まで来ました。今度は遺跡の東側を見学しながら南門に戻ります。


東門

現地ガイドさんが「是非見せたい」と連れて行ってくれた東門
修復してあって、かっての門の様子がよく分かります。



 かっては木製の門でした。
門の上に複数の井戸
 
 門と向かい合う物見の部屋


その後、遺跡を見渡せる見晴台へ
左奥に大仏寺が、右奥に東北仏寺と塔林の塔が見えます。


この見晴らし台の付近には赤子の墓地があります。
すぐ近くが官署区(かっての役所街)なのに、なぜ赤子の墓地があるのか、謎だそうです。


官署区

中国の団体さんが来たので、ちょっと待ちました。


官署区は階段を下りて見学します。かっては1階にも建物があったものの、壊れてしまって地下室しか残っていないんだそうです。トルファンは火州と呼ばれるほど暑い場所。クーラーが普及する前は日中は4時間から7時間も昼休みがあった・・・つまり日中は仕事にならなかったほどだったそうで、昔の人は地下室を作って、地下の涼しいところで仕事をしていたんだそうです。ちゃんと上には明かり取りもあって、色々と工夫の跡が見えて面白い。

   

ここから南に戻ると南部仏寺付近に出て、南門に戻ります。
交河故城、凄い面白かった。
遺跡好きには絶対おすすめ。


トルファンは実に見どころが多い。

火焔山とベゼクリク千仏洞は別にまとめました。

シルクロードの遺跡に戻る

中国の遺跡に戻る




参考文献

玄奘三蔵 岩波新書 前嶋信次著
玄奘三蔵、シルクロードを行く 岩波新書 前田耕作著
シルクロード・新疆仏教美術 新疆大学出版社
新疆国寶録 新疆人民出版社漢文発行所

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。