ブハラ

サマルカンドと並ぶ古い歴史を持つブハラ
ソグド人達が築き、イスラム進出後はイスラムの中央アジアの中心地でした。
ティムール帝国滅亡後、ブハラ・ハーン国の首都だった街でもあります。
2007年8月訪問

写真はミル・アラブ・メドレッセとカリヤン・ミナレット


ブハラは、西のヒヴァから約500キロ弱、東のサマルカンドからは約270キロ(更に東のタシケントから約560キロ)という場所にあります。乱暴に言えばウズベキスタンの中央付近にあるといってもいいかもしれません。
ブハラの歴史は紀元前まで遡ります。もともと「ブハラ」というのはサンスクリット語の「ヴィハーラ(僧院)」から来ているらしく、アラブ人たちが入って来る前は、ソグド人達の繁栄の中心地でした。7〜8世紀の中国の本では「不花刺」として登場するとか(なんか、かっこいいですね)。
8世紀にはアラブが、その後はトルコが進出しますが、ブハラは中央アジアのイスラムの中心地として栄え続けます。13世紀にチンギス・ハーンに破壊されますが、ティムール帝国の下、徐々に復興します。ティムール帝国が衰退すると、ウズベク族のシャイバニ朝がティムール帝国を滅ぼし、ブハラを都とします。その後、ウズベキスタンには西にヒワ・ハーン国、中央付近にブハラ・ハーン国、そして東のフェルガナ盆地を中心にコーカンド・ハーン国が成立しますが、ブハラはブハラ・ハーン国の首都として繁栄を続けます。


カリヤン・ミナレット(カラーン・ミナレット)周辺

街のシンボルでもあるカリヤン・ミナレット(カラーン・ミナレット)
カリヤン・ミナレットはカリヤン・モスク、ミル・アラブ・メドレッセと隣接しています。
冒頭の写真ではミル・アラブ・メドレッセとの位置関係が分かると思いますが
カリヤン・モスクとの位置関係は右下の写真のとおり。
ミナレットを挟んでモスクとメドレッセ(神学校)が向かい合う形になります。

   

カリヤン・ミナレットは、砂漠の灯台とも言われた高さ46m、中央アジアで最も高いミナレットです。
建てられたのは12世紀。トルコ系のカラ・ハーン朝の建造物です。ご覧のように、このミナレットはほとんど色タイルが使われていません。煉瓦の組み方だけで繊細な模様を浮き出した美しくて独創的なミナレットです。
ミナレットとして街の人たちに礼拝を呼びかけるという本来の使用方法の他に、ここの明かりで砂漠を進むキャラバン達の目印になるように利用されたり、更には罪人を突き落とす処刑場としても利用されました。

面白いのは、13世紀にチンギス・ハーンがブハラを破壊したとき、ここを訪れたチンギス・ハーンが帽子を落としてしまい、帽子を拾おうとして思わず、この塔に頭を下げてしまったことから、「チンギス・ハーンに頭を下げさせた塔」として破壊を禁じた、という逸話があることです。実際、ブハラでチンギス・ハーンに破壊されなかった数少ないもののひとつのようです。

カリヤン・モスク



モスクは16世紀に建てられたもの。ティムール帝国を滅ぼしたシャイバニ朝の建造物です。モスクの門をくぐると、広い中庭があり、正面に美しい青いドームを持つ建物が、そして中庭を囲む形で回廊が廻っています。この回廊部分だけでなく、中庭をも使うと1万人が礼拝できるのだそうです。この回廊部分は208本の柱で支えられ、丸天井となっていて、屋根は288もの丸屋根で覆われています。この規模はサマルカンドのビビハニム・モスクにも匹敵するとかで、中央アジア最大級のモスクです。大きいだけでなく、品のある美しさです。

このモスクからミナレットに登ることができるということですが、ちょうどミナレットが修復中で登れませんでした。かなり見晴らしが良さそうだったので残念。

左下 青いドームとタイル模様が美しい。
右下 中庭・回廊の向こうにカリヤン・ミナレットとミル・アラブ・メドレッセが見えます。
   


ミル・アラブ・メドレッセ

逆光になってしまいましたが、モスクに向かい合う神学校を正面から見たものです。


16世紀に作られたメドレッセ(神学校)で、モスクの隣に作られたのは、礼拝の後、すぐに勉強に戻れるように、との考えからだとか。青いタイル、そして、何より2つの青いドームが印象的です。
地球の歩き方によると、3000人以上のペルシャ人奴隷を売って建築資金を作ったことから、「このメドレッセの土台は煉瓦と粘土ではなく、人々の涙と血と悲しみだ」と歴史家に記録されたか・・。

実は、このモスクもメドレッセも1920年にソ連の爆撃で破壊されたものを、ウズベキスタンの人たちが修復したものです。メドレッセの方はソ連時代も中央アジアで数少ない神学校として許されていたそうですが、モスクの方は倉庫にされていたというからひどい・・・。独立後のいまはモスクも本来の姿に戻って信仰の場として使用されており、神学校内部は見学できません。ただ入口付近の天井には創建当時のオリジナルが残っています。



タキ

ミル・アラブ・メドレッセのすぐ裏手にタキというバザールがあります。
ミナレットやメドレッセの2つの青いドームが写っているので位置関係が分かりやすいかも。


タキというのは大通りの交差点をドーム状の屋根で覆ったバザールのこと。かっては、宝石商で賑わっていたとのことで、ラクダが通れるように天井も高くなっています。ブハラには、このようなタキが幾つも残っています。今はほとんどがお土産屋さん。レーニンの旗とかロシアの勲章?らしきものや、スパイスなどを売っていました。
このタキを抜けると、ウルグベク・メドレッセとアブドゥールアジス・ハーン・メドレッセが向かい合って建っています。 


ウルグベク・メドレッセ



ウルグベク・メドレッセは15世紀に建てられたもの。ウルグベクというのはティムールの孫でティムール帝国第4代の皇帝であると同時に科学者として有名だった人物。教育に力を注いだということで、このメドレッセを始め、各地に多くのメドレッセを残しました。このメドレッセは中央アジア最古のものだそうです。



アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセ

   

アブドゥールアジス・ハーン・メドレッセはウルグベク・メドレッセより200年も経って17世紀に作られたもの。ブハラ・ハーン国時代の建造物です。その時代背景からインドのムガール帝国やオスマントルコの影響も見られると言われています。(そういえばムガール帝国もティムールの子孫が拓いたんだよね)
こちらのメドレッセの内部も今はお土産物屋さんになっていました。おじさんがウズベキスタンの楽器で弾いてくれた島歌はステキでした。



マコギ・アッタリ・モスク



舌を噛みそうな名前ですが「マコギ」というのは「穴の中」という意味。実際に、このモスクは1936年に砂の中から発見されたもので、周囲の地面より5mも低いところに建っています。
昔、ブハラにアラブの勢力が入って来る前、ここにゾロアスター教の寺院があり、アラブが入ってきてからモスクとなったものの、その後も何回か破壊と修復が繰り返されたらしい。
写真正面は12世紀の入口。写真右には5m高い16世紀の入口があります。内部に入ると地下のゾロアスター教寺院の跡を覗くことができますが、正直、暗くてあんまりよく分かりませんでした。



チム

この後、チム(ティム)と呼ばれる屋根つき市場へ。タキが交差点の上に屋根を葺いて建物になっているのと違って、これは道に面した建物内部が市場になっている、というもの。
どこの市場にも屋根があります。陽射しの強い地方だから、人の集まる場所に屋根が付けられたんでしょうね。このチムはアブドゥールアジス・ハーンのチムという名前。さっき見学したメドレッセと同じ人が作ったもののようです。

今はシルク・バザールになっていてウズベキスタン独特のアトラスという鮮やかな柄のシルクを作ったり(実演してる)、売ったりしていました。
アトラスというのは左下の写真のように原色で超派手。水面に写る日没時の太陽の光りを写したもの、とか色々と由来があるらしいけれど、余りに鮮やかでめまいがしそうです。ウズベキスタンの人たちはこの柄で普段着を作っています。負けないのは凄い。
ウズベキスタンのお土産としては、さっきのアトラスという柄のシルクの他に、スザニという布が有名。右下の写真がそれ。この模様は刺繍。もちろんハンドメイド。各地独特の模様や色があるそうです。

   



ラビ・ハウズ

幾つかのタキを抜けるとキャラバンサライがありました。その前に池があって、周囲には椅子が置かれ地元の人たちの憩いの場となっていました。

ここはラビ・ハウズ。ハウズとは「用水池」。
ブハラでは、かっては人々の生活のために多くの池が作られたのだそうです。

衛生状態は決して良いものではなかったものの、人々にとっては洗濯をしたり、集まる大事な場所でした。人工的なオアシスみたいなものといっていいでしょうか。
ただ、かっては200近くあったハウズも、今では6つしか残っていないのだそうです。

ここはその残ったハウズの一つで、地元の人たちが木陰でお茶を楽しんでいます。
木の中には15世紀にハウズが作られたときに植えられたクルミの木も4本残っているらしい。

それにしても、ここにあるラクダの像はふたこぶらくだです。アヤズ・カラの近くにいたラクダはひとこぶらくだだったんで、現地ガイドさんにウズベキスタンのラクダはどっちなんだと聞いたら、ひとこぶらくだということでした。
だったら、なぜ、ここのラクダはふたこぶなんだ、と聞いたら、現地ガイドさんはちょっと困った顔をして、中国からの隊商はふたこぶらくだで来てたからだ、と言っておりました。

ちょっと苦しい言い訳のようにも思えるけど、かってはシルクロードを越えてきたふたこぶらくだもブハラの街にはたくさんいたのかもしれません。



ナディール・ディバンバギ・ハナカ

ラビ・ハウズの周囲には多くの建物があります。
これは、ラビ・ハウズのすぐ隣に立つナディール・ディバンバギ・ハナカ。
   

ハナカというのはモスクに併設された巡礼宿。結構、横から見てもしっかりした建物です(右)。17世紀(1619年)にナディール・ディバンバギによって建てられました。ブハラ・ハーン国時代の建造物です。ナディール・ディバンバギはアブドゥールアジス・ハーン(さっき見たウルグベクのメドレッセに面したメドレッセやチムを建てた王様)の大臣だったそうです。



ナディール・ディバンバギ・メドレッセ

ナディール・ディバンバギの建てたもので有名なのは、このメドレッセでしょう。
ラビ・ハウズを挟んでハナカの反対側に建っています。
ハナカ完成の3年後の1622年に完成しました。



このメドレッセは、ご覧のとおり真ん中には人の顔が描かれた日輪。それを挟むようにして飛ぶ2羽のフェニックス、おまけにフェニックスが爪でつかむ白い鹿まで描かれています。
イスラムでは偶像崇拝は禁止されています。それにもかかわらずイスラムの神学校にこのような図柄を描いたのは何故なのか・・・。

もともと、日輪の中の人の顔というのはゾロアスター教の影響のようです。ブハラには、かってペルシャ系のソグド人が多く住み、イスラムが入って来る前はゾロアスター教が盛んだったと言うので、その影響なのでしょうか。それに、フェニックスはウズベキスタンの国章にも描かれている鳥なので、この地の人たちには伝統的な絵柄といえるのかもしれませんが・・。

このメドレッセは最初はキャラバンサライとして建築が進められ、完成したとたんに「メドレッセ」と宣言された、とも言われています。そこまでして、この図柄を描きたかったのかなあ。他の本には、彼はキャラバンサライのつもりだったんだけど建築中の建物を見たハーンがメドレッセと勘違いして彼の信仰心を誉めたので、引くに引けなくなってメドレッセにした、という説もあるみたいですが・・・。

左はメドレッセ正面入口。  右は中庭から見た入口。こちらにもフェニックスが描かれています。
   



ラビ・ハウズとメドレッセの間にあるフッジャ・ナスレッディン像
ひょうきんな顔してるけどウズベキスタンの一休さんともいうべきとんちで有名な学者さんです。



フッジャ・ナスレッディンという人のとんち話はたくさんあるみたいですが、現地ガイドさんが教えてくれたお話は、ティムールから「自分は天国に行けるか」と尋ねられて、「天国なんかはつまらないところだ。チンギスハンやアレクサンダーが待っているから地獄に行ったら」と答えたというもの。気骨のあるところが人気なのでしょうね。



アルク城



アルク城はイチャン・カラの城壁を大きくしたような感じ。イチャン・カラのように曲線的な城壁が続いています。
ただ、このお城の場所はブハラ発祥の地といわれています。なんでも、伝説では3000年前にペルシャの方からやってきた王子がこの国の姫と結婚しようとしたものの、姫から「変わった形のお城を作ってくれないと嫌」と言われて作ったお城が最初だとか。
現在残っている城はブハラ・ハーン国時代のもの。ほとんどが18世紀のものです。中に入ると見晴らしはいいですが、ロシアに徹底的に破壊されていて、モスクなどがかろうじて残っているだけ。



ボロ・ハウズ・モスク

アルク城の前は広い道を挟んで公園になっています。
道を渡ってすぐのところにボロ・ハウズ・モスクがありました。



ボロ・ハウズというように、ここにもハウズ(用水池)があり、それに面してモスクが建てられています。このモスク、本来はハーン(王様)専用。昔はお城から赤い絨毯をモスクまで敷いて、そこを通ってハーンが礼拝に訪れたんだそうです。
モスクはアイヴァン形式になっています。アイヴァンというのはテラスのようになっているところに、屋根を支えるような柱がある形式。
このアイヴァン、栗の木でできた柱が20本あり、その柱がハウズに写るところから街の人はこのモスクを「40本の柱」と呼んでいます。このモスクは、今では街の人たちが使っているとのこと。

左はモスクの脇に立つミナレット。16世紀に建てられました。
右はモスクのアイヴァン。
   



チャシュマ・アイユブ

ボロ・ハウズからちょっと行ったところにチャシュマ・アイユブはあります。



チャシュマ・アイユブの「チャシュマ」は「泉」、「アイユブ」は旧約聖書に出てくる預言者ヨブのこと、つまり、「ヨブの泉」ともいうべき場所。なんでも預言者ヨブが杖でつついたら、ここから泉が出た、といわれているそうです。日本も弘法大師の同じような伝説があるし、世界中で似たような伝説はありますが、周囲が砂漠のブハラでは特に泉は有難かったらしく、この建物は何回も建て増しを繰り返しています。

横から見ると分かりやすいので横から写真を撮ってみました。まず、一番左のとんがり帽子の塔があるところが12世紀に最初に作られたところ、その次に窓のある塔があるところが14世紀にティムールが増築したところ、そして一番右側が16世紀にブハラの太守が増築したところ。
建物の中にはブハラの水利施設の説明が展示されています。本当に、ここでは水が貴重なんだなということがよく分かります。

帰る時、この建物の入口のところに火を燃やした跡があるので聞いたら、ゾロアスター教徒が火を焚いた跡とのことでした。今でもゾロアスター教徒がいるんですね。
ちなみに、この建物の隣には三日月を模した近代的なモニュメントがあり、これはイマーム・アリ・ブハリという神学者のモニュメント。ムハンマドの言行録(ハディース)を集めて6000語録を作った偉い人なんだそうです。



イスマイル・サマニ廟

チャシュマ・アイユブからまっすぐ歩くと公園に通じるのだけれど、その公園の中にイスマイル・サマニ廟はあります


小さな素焼き煉瓦の建物ですが、煉瓦を組み合わせて装飾されていて、とても綺麗。
ガイドさんによると陽射しの変化で様々に表情を変えるんだそうです。

もともとは9世紀にブハラを支配していたサーマーン朝のイスマイル・サマニが父親のために建てた廟で、後に一族の霊廟となったもの。

実はこの建物、中央アジア最古のイスラム建築なのだそうです。

ブハラはチンギス・ハーンによって13世紀に破壊しつくされたため、それ以前のものはほとんど残っていません。でも、この建物は13世紀には既に砂で埋もれていたので破壊から免れたのだそうです。
その意味ではマコギ・アッタリ・モスクと似ていますが、この廟は20世紀まで発見されなかったのだそうです。

学術的にも貴重なものなんだろうけれど、ここを3回廻ると幸せになれるんだそうで、思わず廻ってしまいました。



チャル・ミナル

他の見どころから少し離れた旧市街の東にチャル・ミナルはあります。



旧市街東の住宅街の細い道を歩いていくと、このチャル・ミナルに出ます。

チャル・ミナルというのは4本のミナレット、という意味。トゥルクメニスタンから来た商人が建てたメドレッセだったということだけど、今はこの部分しか残っていません。商人が建てたものなので、ハーンや大臣の建てたものに比べると小さいけど、かえってかわいい美しさ。この4本のミナレットは彼の4人の娘を意味しているとか。ちなみに4本のミナレットはみんな微妙にデザインが違います。



民族舞踊とファッションショー

ブハラでの夕食は民族舞踊とファッションショーを見ながらのものになりました。
ショーは、あの日輪と顔の絵のあるナディール・ディバンバギ・メドレッセの中庭で行われます。

薄暗くなる時刻から始まって、夜が更けるまで・・・・・。見ごたえのあるショーでした。
シルクロード満喫、という感じ。

 
 


多くの民族が入り乱れる歴史の街。
しかし、街並みは奇妙に調和が取れています。
これがシルクロードの魅力なのでしょうか。


シルクロードの遺跡に戻る

ウズベキスタンの遺跡に戻る




参考文献

世界遺産を旅する10(近畿日本ツーリスト)
イスラムの誘惑(新潮社)
21世紀世界遺産の旅(小学館)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。