テルメズ
ウズベキスタン南部スルハンダリヤ州の州都テルメズ
テルメズとはギリシャ語の「暑い場所」という意味
アレクサンダー大王の時代からの歴史ある街です。
2015年9月訪問

写真はカンプル・テパから見たアフガニスタン国境方向


テルメズはウズベキスタン南部、アフガニスタンとの国境近くの街です。アフガニスタンとの国境を流れるのがアムダリヤ川。上の写真で糸のように横切っているのがアムダリヤ川です。川の向こうの緑はアフガニスタンの大地。
パミール高原から中央アジアの大地を西に流れ、かってアラル海に注いでいたアムダリヤ川。古代には「オクサス」と呼ばれたアムダリヤ川とシルダリヤ川の間には交易で有名なソグド人が住むソグディアナと呼ばれる土地。そして、更に北にはスキタイ系遊牧民の世界。アムダリヤ川は北方の遊牧民とペルシャの農耕民の世界の境界でもありました。

紀元前4世紀、アケメネス朝ペルシャと戦ったアレクサンダー大王は、この川を越え、シルダリヤ川まで兵をすすめます。大王がアムダリヤ川を越えたのはテルメズ近郊のカンプル・テパの近くだったと考えられているそうです。

カンプル・テパ



現在のテルメズ市街から、ほど近い場所
城壁のようなものが見えて来ました。カンプル・テパです。
城壁は近年復元されたもので、城壁の向こう側に遺跡が残っています。

テルメズの博物館で展示されていた遺跡復元模型。


カンプル・テパは、紀元前3世紀、グレコ・バクトリアの時代にアムダリヤ川に沿った丘の上に築かれた街。城塞部と市街地に分かれ、市街地を広く城壁で囲んだだけでなく、城塞部はアムダリヤ川の水を引いた堀で囲み、城壁で二重に守られていました。今は川から少し離れてしまいましたが、かってはカンプル・テパのすぐ手前をアムダリヤ川が流れていたと考えられています。

遺跡に近づくと、崖というか谷が迫っているのが分かります。
かって城塞部と市街地を隔てていた堀の跡です。ここに川の水を引いていたんですね。


アレクサンダー大王はアケメネス朝ペルシャとの戦いでペルセポリスを焼き、パサルガダエを破壊し、退却するダレイオス3世を追って軍を進めます。ところがダレイオス3世は配下のバクトリア総督ベッソスに捉えられ、なんと殺害されてしまいます。アレクサンダー大王は遺棄されたダレイオス3世の遺骸を丁重に葬り、ベッソスを追って東方に進撃。ベッソスはアムダリヤ川を越えて逃走し、その際、追撃から逃れようと川の船を全て焼却しますが、アレクサンダー大王は羊や牛の皮袋や筏を使って10万の大軍にアムダリヤ川を超えさせ、ベッソスを討ったと言われています。

アムダリヤ川を越えた場所にアレクサンダー大王は街を建設し、アムダリヤ川の古名オクサスにちなみアレクサンドリア・オクシアナと名付けました。アレクサンドリア・オクシアナはアフガニスタン北部のアイ・ハヌムとするのが有力ですが、このカンプル・テパだとする説もあるそうです。


市民が暮らした居住区はかなりの広さです。
600世帯が暮らしていたとか。



この遺跡がアレクサンドリア・オクシアナだったかはともかくとして、アムダリヤ川沿いのこの場所は、交易や軍事面で重要な場所だったのでしょう。

街の中には、かっては港もあったということで、
遺跡には港に通じていたという通路も残っていました。右の写真が、それ。この道を通って川に下りて行ったんだそうです。

アムダリヤ川によって栄えたカンプル・テパですが、その滅亡もアムダリヤ川によると考えられています。

というのも、この街は紀元後2世紀ころに放棄されるのですが、その理由が他国に攻められたということではなく、アムダリヤ川が街を浸食するようになったからと考えられるからです。
遺跡の中からは川の浸食で削られたと思われる住居跡が見つかっています。川の脅威から、この地は危険と判断されたというわけです。

今は遺跡から離れたところを流れるアムダリヤ川ですが、そもそも、アムダリヤとはアム(狂った)ダリヤ(川)という意味で、流れを頻繁に変えることで有名なのだとか。


川に削られた住居跡。床に埋められているのは壺。小麦や油を保管していました。
   



仏教遺跡群

テルメズはクシャーナ朝(紀元後1〜4世紀)の仏教遺跡が数多く残ることでも有名です。

写真はファヤズ・テパのストゥーパ


カニシカ王で有名なクシャーナ朝はイラン系遊牧民が築いた王朝です。インドで生まれた仏教は、この王朝の時代、保護を受け、一気に中央アジアに広がり、更に中国に伝わったと考えられています。テルメズ周辺にはクシャーナ朝の仏教遺跡が数多く残り、貴重な仏像等が出土しています。
テルメズの仏教遺跡は非常に見どころが多く、また出土品を展示する博物館や発掘にあたった研究所を訪れることもできたので、テルメズ周辺の仏教遺跡として独立してまとめました。
クシャーナ朝時代の仏教寺院はササン朝ペルシャによって多くが破壊されますが、7世紀に玄奘三蔵がインドを目指す際にテルメズに立ち寄った時は再び仏教が盛んになっていたといいます。



クルク・クズ(キルク・クズ)

玄奘三蔵が訪れた後、テルメズはイスラムが勢力を伸ばすようになります。
13世紀にはモンゴルに破壊されますが、14世紀のティムール朝以降、再び街は栄えました。


クルク・クズは9〜14世紀のテルメズの支配者の夏の離宮。40の部屋から成っていて、女戦士が居たとの伝説があります。クルク・クズとは40人の女戦士という意味なのだとか。離宮とはいっても、戦時には砦となることも考えて建てられているそうです。

テルメズの博物館にあった復元模型。2階建ての建物でした。



天井や床が抜け落ちていますが、なかなか見学すると楽しい
   


2階建てだったことが、良く分かります。



現地ガイドのセルゲイ氏撮影 美しいでしょ!!とのこと




博物館

テルメズ市街にある博物館


この博物館は2002年に街の建設2500年を祝うために建設されたもの。テルメズ周辺の出土品や遺跡の復元模型などを展示しています。展示品にはレプリカも多いのですが、展示方法に工夫が見られ、とても楽しめる博物館です。正直、地方の博物館としては、かなり頑張っている印象。
テルメズ周辺の仏教遺跡のファヤズ・テパについては、首都タシケントの歴史博物館が、かなり充実した展示をしていますが、ダルヴェルジン・テパについては歴史博物館の展示はいまいちなのでレプリカとはいえ、丁寧に展示しているこの博物館はありがたい。歴史好きにはお勧めの場所。

博物館1階の正面奥にはクシャーン朝カニシカ王時代のイメージ展示
既に述べたように、クシャーン朝時代にテルメズでは多くの仏教寺院が建てられました。
仏教関連の展示品は見ごたえがあります。

オールドテルメズのイメージ
 
 カニシカ王のコイン


テルメズ周辺の仏教遺跡からの出土品

 ファヤズ・テパ講堂中庭の水桶
(オリジナル)
 ダルヴェルジン・テパ出土の
クシャーナ朝の王子頭像(レプリカ)


 ダルヴェルジン・テパ居住区出土の人頭像
ギリシャ風の髪にインド風の顔立ち
 ズルマラ・ストゥーパ近くの溝から発見
カップルの像


日本人に馴染み深い姿の仏像
   


オールド・テルメズ出土。象と蓮(2〜3世紀)
仏教関連のものと考えられています。



博物館2階は先史時代からイスラム時代までの展示

 先史時代の岩絵
 ネアンデルタール人の少年

ウズベキスタンからもネアンデルタール人が発見されているとは驚き。


柱を飾っていた楽器を奏でる人物像
もろに「ヘレニズム」と言った感じ




ダルヴェルジン・テパ関連は結構充実しています。

 仏教に帰依したことで子供の病気が治った・・
仏教説話の壁画(レプリカ)
菩薩像
破損した仏像からの復元像。
 




テルメズ周辺は綿花の産地
山のように積まれた綿花を目にすることもできました。


テルメズの古名はタルミタ
ギリシャ語で「暑い場所」という意味ですが
私が訪れた9月は過ごしやすい天気でした。


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参考文献

興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国(森安孝夫著・講談社)
中央アジアの歴史 新書東洋史(間野英ニ著・講談社現代新書)
文明の十字路 中央アジアの歴史(岩村忍著・講談社学術文庫)
玄奘三蔵、シルクロードを行く(前田耕作著・岩波新書)

基本的には現地ガイドさんの説明を元にまとめています。