コパンの歴史と石彫博物館 美しい丸彫りの彫刻で知られるコパン。 遺跡内の石彫博物館にはコパン出土品のオリジナルが展示されています。 コパンは1年を365.2420日とする暦を7世紀に算出するほど天文学においても優れていました。 そのため、コパンのイメージは芸術と学問の都といったところ・・・ 昔は写真の祭壇Qも天文学会議を記念したものと考えらえていたそうですが、 今では、マヤ文字の解読により、祭壇Qがコパン歴代16人の王の姿を彫ったものであることや 王朝の歴史がかなり詳細に分かってきています。 コパンの歴史を石彫博物館の展示品を中心にまとめてみました。
壁の漆喰彫刻も見事です。 オリジナルのロサリラ神殿は今も神殿16の地下に原形をとどめたまま埋まっています。 右から左へ、11代・12代王・13代王・14代王。 この王達の時代にコパンは最盛期を迎え、そして一挙に転落することになります。 一番右の11代王ブッ・チャンは578年に即位しました。 当時マヤ中部ではティカルとカラクムルの抗争が始まっています。 ティカルでは562年のダブルバード王の敗北でモニュメントが作られない時代に入っていました。 しかし、コパンはこの争いには巻き込まれなかったのか 11代王ブッ・チャンは49年の長い治世を送っています。 下の写真は11代王ブッ・チャンの石碑P。王は双頭の蛇の笏を掲げています。 王の両手の横に大きく口を開けた蛇が刻まれ、その口から神が顔を出しています(左下)。 王はジャガーの腰巻の上に貝殻の装飾を付けています(右下)。 次の12代王煙イミシュは更に長い治世を誇りました。 煙イミシュは628年に15歳で即位し、695年に亡くなるまで実に67年間も王位にありました。 マヤでは長寿は非常に尊ばれ、彼は「5カトゥンを生きた王」と尊敬されました。 (カトゥンはマヤの暦の単位で1カトゥンが約20年) 彼の時代、コパンはマヤ南東部の大国として繁栄したようです。 彼は従属国キリグアで儀式も行っています。 写真は煙イミシュ王時代に作られたコパンの傑作の1つ。 水鳥が魚をくわえています。流水の表現も見事。 時代は不明ながら、やはり有名なコウモリのレリーフも、ここで紹介します。 死後の世界に住んでいるコウモリなんだそうです。なんか、コワイ。 続く13代王が有名な18ウサギことワシャクラフーン・ウバール・カウィール。 即位は695年。これはティカルのハサウ・チャン・カウィール1世がカラクムルにようやく勝利した年です。 抗争に明け暮れていたティカルと違い、繁栄を謳歌していたコパンで18ウサギは即位しました。 そして、18ウサギは丸彫りとも高浮彫りとも言われる独自の芸術様式を完成します。 丸彫りとは彫りの深い立体的な彫り方のこと。 写真は石碑A。横から見ると、丸彫りの素晴らしさがより分かりやすいですね。 王の額には、かって翡翠が埋め込まれていたとか。 また、この石碑には古典期マヤの四大都市の紋章文字も刻まれています(右下)。 コパン(下から3番目右側)、カラクムル(下から2番目右側) ティカル(下から2番目左側)、パレンケ(一番下、左側) 大国ティカル・カラクムルとコパンを並べた王の自信が感じられます。 18ウサギは自分の像を建てまくり、多くの建造物を築きました。 アクロポリスの東広場周辺の多くの神殿も18ウサギが建てたものだそうです。 下の写真は神殿22。18ウサギが瞑想をした場所とも言われています。 これは天上界・地上界・地下界を表しているそうです。 地下界の骸骨は分かりやすいですね。地上界は天を支えるバカブ神。 天を支えるバカブ神といえば、頭像も展示されていました。 神殿11にあったとのことなので16代王の時代のものでしょうか。 遺跡でも、このバカブ神の頭像は見かけました。 18ウサギに話を戻します。 18ウサギが建てた建造物の中で有名なのは古典期マヤ最大の球技場でしょう。 この球技場はコンゴウインコが数多く刻まれていることで有名です。 コンゴウインコはコパンのシンボルだったんでしょうね。初代王の名前にもコンゴウインコは入ってますし。 球技場の両側に建てられた建物 多くのコンゴウインコで飾られています。
今のコンゴウインコのイメージだと、綺麗とか、可愛い・・・ですが 足の爪といい、猛々しさを感じます。近くで見ると凄い迫力。 球技場のマーカーもコンゴウインコの頭です。 これはレプリカ。何とも言えない迫力。 しかし、球技場完成から4か月後の738年4月、18ウサギは突然死を迎えます。 18ウサギが後見して即位の儀式を行ったキリグア王に斬首されるという屈辱的な死でした。 建国時からコパンの従属国だったキリグアがなぜこのような行動に出たのか。 単なる下剋上でしょうか。このころカラクムルの王の名がキリグアの石碑に現れるといいますが・・。 キリグア王カック・テイリウ・チャン・ヨアート(カワク空)はその後14代王を名乗ることから、 コパン13代王だった18ウサギの地位を継承しようとしたとの説もあり、 中村誠一教授は二人は親子だったのではないかとの説を唱えています。 真相は不明ながら、18ウサギの死によりコパンはいっきに沈み、キリグアが隆盛します。 当時のマヤの王は神と同一視されていたので、斬首されれば権威の失墜は甚だしかったのでしょう。 国王の権威が低下し、18ウサギ王以降の王は苦労したようです。 そのためか14代王カック・ホプラフ・チャン・カウィールの時代には貴族との共同統治制度に変化しています。 写真はポポル・ナという貴族との合議を行った建物 王権の象徴である「ござ」と9つの州の首長・貴族との合議を表す9の字が飾られています。 博物館ではコパン遺跡近郊のセプルトゥーラスからの出土品も展示されています。 セプルトゥーラスは貴族たちの住居跡と言われています。 写真は「書記の家」 「書記の家」を飾るレリーフと、家の前に置かれていた「書記」と呼ばれる人物像。 「書記」は右手に筆を、左手に貝殻のインク壺を持っています。 書記の家の他にも、貴族の家が幾つか展示されていました。 貴族の家を飾る人物像。とても美しく、貴族の財力を感じさせます。 下の写真は貴族が使用していたベンチ。レリーフが見事。 貴族の力の増大は王の権威の低下とセットなのでしょう。 そんな流れの中、15代王は神聖文字の階段を完成させ、復興に努力したようです。 16代王は母がパレンケ王家出身であり、他国の権威にすがった感もあります。 ティカル王もパレンケに亡命したりしてますが、コパンとパレンケも仲が良かったんですね。 遠いパレンケから輿入れした王女は、どのような気持ちだったのでしょうか。
パレンケ王女の息子でもある16代王の時代にはキリグアとの和睦も成ったようです。 そして、16代王は神殿16を完成させ、最初に触れたようにコパン歴代の王を刻んだ祭壇Qを置きました。 16代王は初代王から王権の象徴を受け取る姿を彫ることで王権の正当性を強調しようとしたのでしょう。 祭壇Qの下にはそれまでの15人の王に捧げたのか15匹のジャガーが埋められていました。 神殿16の下には王朝の創始者キニチ・ヤシュ・クック・モが眠っています。 16代王はコパン王国の復興を父祖に願ったに違いありません。 しかし、結局、16代王が記録の明らかなコパン最後の王となります。 16代王が葬られた神殿18からは「創始者の家の倒壊」で始まる碑文が発見されています。 キニチ・ヤシュ・クック・モが即位後訪れたという王朝創始の家のことでしょうか。 それともコパン王朝の終焉を意味するのでしょうか。 ウキト・トークという人物が17代王になろうとしたものの、彼は僅かの間しか力を持てなかったようです。 彼は祭壇Qを真似て16代王と向かい合う自身の姿を彫りましたが、他の面は未完のまま・・・。 未完成の祭壇Lは博物館にも収蔵されず、球技場のそばに置かれています。 コパン(遺跡)を見る 中米の遺跡に戻る 参考文献 マヤ文明を掘る コパン王国の物語(NHK BOOKS 中村誠一著) 古代マヤ王歴代誌(創元社 中村誠一監修) 古代マヤ文明(河出書房新社 ふくろうの本 寺崎秀一郎著) マヤ文明(中公新書 石田英一郎著) マヤ文明(岩波新書 青山和夫著) 古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき著) ナショナルジオグラフィック日本版・2007年8月号 |
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