コパンの歴史と石彫博物館

美しい丸彫りの彫刻で知られるコパン。
遺跡内の石彫博物館にはコパン出土品のオリジナルが展示されています。
コパンは1年を365.2420日とする暦を7世紀に算出するほど天文学においても優れていました。
そのため、コパンのイメージは芸術と学問の都といったところ・・・

昔は写真の祭壇Qも天文学会議を記念したものと考えらえていたそうですが、
今では、マヤ文字の解読により、祭壇Qがコパン歴代16人の王の姿を彫ったものであることや
王朝の歴史がかなり詳細に分かってきています。

コパンの歴史を石彫博物館の展示品を中心にまとめてみました。



 写真中央で左側に座るのが初代王。これに向い合い、中央右側に座るのが16代王。
初代王が16代王に王権の象徴である笏を手渡しています。

初代王の名はキニチ・ヤシュ・クック・モ。
(キニチ:太陽神 ヤシュ:最初の クック:ケツァル モ:コンゴウインコ)
(キニチ・ヤシュというのは初代王としての尊称的なものらしいので、以下はクック・モと呼びます)

祭壇Qのクック・モがテオティワカン・ゴーグル(丸めがね)をつけているのは分かるでしょうか。
後世にクック・モが描かれる時はテオティワカン・ゴーグルが目印のようになっているみたいです。



祭壇Q上部には碑文が刻まれています。


この碑文によると・・・

「クック・モは426年9月5日、王権の象徴であるカウィールの笏を受け取り、王位についた。
そして、3日後の同月8日、王朝創始の家を訪れた。この時、キリグアの初代王も同行した。
それから152日後の427年2月4日、クック・モはコパンに『到着』した。」

テオティワカン・ゴーグルをつけていることから、当然、テオティワカンとの関係が問題になりますが
クック・モは墓が発見されており、科学調査の結果、ペテン地方北部出身者と分かっているそうです。

ペテンといえばティカル。

426年当時のティカルは16代王シヤフ・チャン・カウィール2世(嵐の空)の時代。
彼の祖父である投槍器フクロウはテオティワカンの王ではないかと言われています。

まあ、投槍器フクロウが本当にテオティワカンの王なのかについては論争中ではありますが
当時のティカルにテオティワカンの影響が強かったことは間違いありません。
そして、クック・モをティカル出身者とするのが今日の有力説のようです。

なお、古い時代のクック・モはテオティワカン・ゴーグルが描かれません。
下の写真はモット・モット神殿から発掘された墓石(左)とレプリカ(右)。
モット・モット神殿は神聖文字の階段のある神殿26の地下に埋もれていた神殿です。
テオティワカン・ゴーグルなしの初代王(左)と2代王(右)が向かい合って座っています。
   

レプリカを拡大してみました。

初代王クック・モ。ご覧のとおり丸メガネはしていません。

クック・モの称号はオチキン・カロームテ(西の大王)と言うのですが、この「西」とは、マヤの西に位置するテオティワカンを意味するとの説も有力です。

クック・モはタルータブレロ(テオティワカン様式)のフナル神殿とティカルの影響の強いヤシュ神殿を建てました。本当にテオティワカンとティカルとの関係が深い王です。

クック・モが即位後訪れた王朝創始の家がテオティワカンにあるのかティカルにあるのかは不明です。テオティワカンのピラミッドのどれかかも・・・妄想が膨らみます。

フナル神殿の奥深くからは豪華な翡翠に飾られた老齢の男性の遺体が発見されており、その人物が初代王クック・モその人とされています。
クック・モの体には多くの戦いの傷跡が残り、特に右手の怪我は酷かったそうです。

クック・モのようにオチキン・カロームテという称号を使用できたのはティカルのシヤフ・カックなど、マヤ世界でも極めて限られていました。歴戦の勇士ならではの称号だったのでしょうか。

クック・モが建てた神殿は後の王達によって増改築が続けられ、クック・モが眠るフナル神殿は神殿16に、ヤシュ神殿は神殿26になっていきます。


2代キニチ・ポポル・ホルはコパン中心部を整備し、球技場を建設しました。

また、クック・モが建てたティカル様式のヤシュ神殿の上にモット・モット神殿を築き、謎の女性をテオティワカン様式で埋葬します。その墓碑が初代王と2代王が向き合う写真の石碑でした。

2代目になってもテオティワカンの強い影響があったようですが、一体、埋葬されていた女性は誰なんでしょう・・・・。
2代王が残した別の石碑には初代王クック・モの名前の他にティカルのシヤフ・カックの名前も彫られているそうです。
本当に、色々と謎が多いです・

2代王は、更に、クック・モが眠るフナル神殿の上にイェーナル神殿・マルガリータ神殿を建てたことが分かっています。

2代王が建てたマルガリータ神殿にも高貴な老齢の女性が埋葬されていました。

彼女の墓からはテオティワカン様式の土器とコパンでも有数の豪華な副葬品が発見され、科学的調査の結果、コパン出身者と判明しました。

この女性がクック・モの妻と考えられています。
初代王クック・モは地元の女性と結婚したんですね。

2代王は母も丁重に葬ったようです。



下の写真は右から左に3代王・4代王・5代王・6代王の姿


3代王から6代王にかけては、まだ詳しいことは分かっていないみたいです。
4代王はクック・モの建てたヤシュ神殿の上にパパガヨ神殿を建てました。


次は右から左に7代王・8代王・9代王・10代王。
このころの王のことは少し分かってきています。


まず、7代王(一番右)は睡蓮ジャガーと呼ばれます。
彼は504年に即位し、534年にはカラコルの石碑に名が刻まれました。
カラコルは現ベリーズにあった国で、コパン王の名がそこまで届いていたことになります。
(カラコルはティカルの従属国でしたが、後にカラクムルにつき、ティカルに反旗を翻します。)


一番左の10代王は月ジャガーと呼ばれています。
彼は有名なロサリラ神殿を建てました(後の神殿16)。
クック・モが建てたフナル神殿の上には多くの王が神殿を建てましたが
この神殿は完全な形で残っていました。
王朝創始者クック・モに捧げられた神殿と考えられています。
写真は石彫博物館の目玉であるロサリラ神殿の原寸大レプリカ。




背面



ロサリラ神殿は「太陽の神殿」とも言われるほど太陽神のモチーフが多く描かれているとか。
蛇の口から顔を出している神様(左)とか、大きな顔(右)がそれなんでしょうか?
   


壁の漆喰彫刻も見事です。


オリジナルのロサリラ神殿は今も神殿16の地下に原形をとどめたまま埋まっています。



右から左へ、11代・12代王・13代王・14代王。
この王達の時代にコパンは最盛期を迎え、そして一挙に転落することになります。


一番右の11代王ブッ・チャンは578年に即位しました。
当時マヤ中部ではティカルとカラクムルの抗争が始まっています。
ティカルでは562年のダブルバード王の敗北でモニュメントが作られない時代に入っていました。
しかし、コパンはこの争いには巻き込まれなかったのか
11代王ブッ・チャンは49年の長い治世を送っています。

下の写真は11代王ブッ・チャンの石碑P。王は双頭の蛇の笏を掲げています。
王の両手の横に大きく口を開けた蛇が刻まれ、その口から神が顔を出しています(左下)。
王はジャガーの腰巻の上に貝殻の装飾を付けています(右下)。

   
見事な彫りですが、まだ丸彫りの立体感はないです。


次の12代王煙イミシュは更に長い治世を誇りました。
煙イミシュは628年に15歳で即位し、695年に亡くなるまで実に67年間も王位にありました。
マヤでは長寿は非常に尊ばれ、彼は「5カトゥンを生きた王」と尊敬されました。
(カトゥンはマヤの暦の単位で1カトゥンが約20年)
彼の時代、コパンはマヤ南東部の大国として繁栄したようです。
彼は従属国キリグアで儀式も行っています。


写真は煙イミシュ王時代に作られたコパンの傑作の1つ。
水鳥が魚をくわえています。流水の表現も見事。



時代は不明ながら、やはり有名なコウモリのレリーフも、ここで紹介します。
死後の世界に住んでいるコウモリなんだそうです。なんか、コワイ。




続く13代王が有名な18ウサギことワシャクラフーン・ウバール・カウィール。
即位は695年。これはティカルのハサウ・チャン・カウィール1世がカラクムルにようやく勝利した年です。
抗争に明け暮れていたティカルと違い、繁栄を謳歌していたコパンで18ウサギは即位しました。
そして、18ウサギは丸彫りとも高浮彫りとも言われる独自の芸術様式を完成します。

丸彫りとは彫りの深い立体的な彫り方のこと。
写真は石碑A。横から見ると、丸彫りの素晴らしさがより分かりやすいですね。
王の額には、かって翡翠が埋め込まれていたとか。
また、この石碑には古典期マヤの四大都市の紋章文字も刻まれています(右下)。
コパン(下から3番目右側)、カラクムル(下から2番目右側)
ティカル(下から2番目左側)、パレンケ(一番下、左側)
大国ティカル・カラクムルとコパンを並べた王の自信が感じられます。

   



18ウサギは自分の像を建てまくり、多くの建造物を築きました。
アクロポリスの東広場周辺の多くの神殿も18ウサギが建てたものだそうです。


下の写真は神殿22。18ウサギが瞑想をした場所とも言われています。
これは天上界・地上界・地下界を表しているそうです。
地下界の骸骨は分かりやすいですね。地上界は天を支えるバカブ神。



天を支えるバカブ神といえば、頭像も展示されていました。
神殿11にあったとのことなので16代王の時代のものでしょうか。
遺跡でも、このバカブ神の頭像は見かけました。



18ウサギに話を戻します。
18ウサギが建てた建造物の中で有名なのは古典期マヤ最大の球技場でしょう。
この球技場はコンゴウインコが数多く刻まれていることで有名です。
コンゴウインコはコパンのシンボルだったんでしょうね。初代王の名前にもコンゴウインコは入ってますし。

球技場の両側に建てられた建物


多くのコンゴウインコで飾られています。

建物正面のコンゴウインコ
 
 建物の角を飾るコンゴウインコ

今のコンゴウインコのイメージだと、綺麗とか、可愛い・・・ですが
足の爪といい、猛々しさを感じます。近くで見ると凄い迫力。

球技場のマーカーもコンゴウインコの頭です。
   


これはレプリカ。何とも言えない迫力。



しかし、球技場完成から4か月後の738年4月、18ウサギは突然死を迎えます。
18ウサギが後見して即位の儀式を行ったキリグア王に斬首されるという屈辱的な死でした。
建国時からコパンの従属国だったキリグアがなぜこのような行動に出たのか。
単なる下剋上でしょうか。このころカラクムルの王の名がキリグアの石碑に現れるといいますが・・。

キリグア王カック・テイリウ・チャン・ヨアート(カワク空)はその後14代王を名乗ることから、
コパン13代王だった18ウサギの地位を継承しようとしたとの説もあり、
中村誠一教授は二人は親子だったのではないかとの説を唱えています。

真相は不明ながら、18ウサギの死によりコパンはいっきに沈み、キリグアが隆盛します。
当時のマヤの王は神と同一視されていたので、斬首されれば権威の失墜は甚だしかったのでしょう。
国王の権威が低下し、18ウサギ王以降の王は苦労したようです。

そのためか14代王カック・ホプラフ・チャン・カウィールの時代には貴族との共同統治制度に変化しています。
写真はポポル・ナという貴族との合議を行った建物



王権の象徴である「ござ」と9つの州の首長・貴族との合議を表す9の字が飾られています。




博物館ではコパン遺跡近郊のセプルトゥーラスからの出土品も展示されています。
セプルトゥーラスは貴族たちの住居跡と言われています。

写真は「書記の家」



「書記の家」を飾るレリーフと、家の前に置かれていた「書記」と呼ばれる人物像。
   

「書記」は右手に筆を、左手に貝殻のインク壺を持っています。



書記の家の他にも、貴族の家が幾つか展示されていました。



貴族の家を飾る人物像。とても美しく、貴族の財力を感じさせます。
   



下の写真は貴族が使用していたベンチ。レリーフが見事。
   



貴族の力の増大は王の権威の低下とセットなのでしょう。
そんな流れの中、15代王は神聖文字の階段を完成させ、復興に努力したようです。

16代王は母がパレンケ王家出身であり、他国の権威にすがった感もあります。
ティカル王もパレンケに亡命したりしてますが、コパンとパレンケも仲が良かったんですね。
遠いパレンケから輿入れした王女は、どのような気持ちだったのでしょうか。

15代カック・イピヤフ・チャン・カウィール
通称、煙貝王
 
神殿11に通じる階段の下に置かれた石碑
 16代ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート
通称、夜明けの空王

神殿18に彫られたレリーフ


パレンケ王女の息子でもある16代王の時代にはキリグアとの和睦も成ったようです。

そして、16代王は神殿16を完成させ、最初に触れたようにコパン歴代の王を刻んだ祭壇Qを置きました。
16代王は初代王から王権の象徴を受け取る姿を彫ることで王権の正当性を強調しようとしたのでしょう。
祭壇Qの下にはそれまでの15人の王に捧げたのか15匹のジャガーが埋められていました。
神殿16の下には王朝の創始者キニチ・ヤシュ・クック・モが眠っています。
16代王はコパン王国の復興を父祖に願ったに違いありません。

しかし、結局、16代王が記録の明らかなコパン最後の王となります。
16代王が葬られた神殿18からは「創始者の家の倒壊」で始まる碑文が発見されています。
キニチ・ヤシュ・クック・モが即位後訪れたという王朝創始の家のことでしょうか。
それともコパン王朝の終焉を意味するのでしょうか。


ウキト・トークという人物が17代王になろうとしたものの、彼は僅かの間しか力を持てなかったようです。
彼は祭壇Qを真似て16代王と向かい合う自身の姿を彫りましたが、他の面は未完のまま・・・。
未完成の祭壇Lは博物館にも収蔵されず、球技場のそばに置かれています。






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参考文献

マヤ文明を掘る コパン王国の物語(NHK BOOKS 中村誠一著)
古代マヤ王歴代誌(創元社 中村誠一監修)
古代マヤ文明(河出書房新社 ふくろうの本 寺崎秀一郎著)
マヤ文明(中公新書 石田英一郎著)
マヤ文明(岩波新書 青山和夫著)
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき著)
ナショナルジオグラフィック日本版・2007年8月号