テオティワカン

メキシコシティから50キロほど北東に位置するテオティワカン
アステカ人の言葉で「神々の都」を意味します。
古代メソアメリカの超大国なのに詳しいことはほとんどわかっていません。
2003年1月、2004年8月、2014年3月訪問



上の写真は月のピラミッド頂上から見た死者の大通りと、その途中にある太陽のピラミッド。月のピラミッドに頂上まで登れた2003年の写真です。月のピラミッドの前にある月の広場から、3,2キロ先のケツァルコアトルの神殿・シウダデーラ(要塞)まで、幅40mの死者の大通りが一直線に伸び、その途中に無数の基壇・神殿が並びます。いわばテオティワカンの中心部。最盛期の都市の規模は20平方キロメートル以上にも及んだと言われます。

左の写真は遺跡内にあったマップを写したもの。
月のピラミッドとシウダデーラ(城塞)の間に太陽のピラミッドが位置することが良く分かると思います。

これらの建物の配置は計画的に行われています。

太陽のピラミッドは夏至の日に太陽が正面に沈むことで有名ですが、そのために死者の大通りは真北から東に15度25分ずらして造られています。

また、テオティワカンは83pを一単位としていて、建物の大きさや建物間の距離を83pで割るとメソアメリカの暦に関連する数字になるのだそうです。

その他にも、遺跡の中を流れるサンファン川は、わざわざ流れを変えて現在の位置にしているそうで、そこにも何か意味がありそうです。

紀元前500年ころには小さな祭祀センターに過ぎなかったテオティワカンは紀元前後から急速に発展し、後150年ころにはメキシコ盆地の人口の80〜90%が集中する大都市に成長します。
そのころの人口は3万との説もあれば、既に7〜10万人に達していたとの説もあるようです。

その後もテオティワカンは成長を続け、最盛期の450年ころには人口20万人を越える世界有数の都市となりました。


テオティワカンはマヤやモンテアルバンといったメソアメリカの他の国々に圧倒的影響力を持っていました。宗教的にも経済的にも他国を圧倒していたようです。軍事的に支配していたのか・・については謎のままですが。

しかし、650年ころ、テオティワカンは謎の滅亡を迎えます。当時のメソアメリカにテオティワカンを倒せるだけの勢力はなく、おそらく内部抗争・クーデターによるものだと考えられています。


下の写真は死者の大通りの南端、シウダデーラ(城壁)前から見た月のピラミッドと太陽のピラミッド
遺跡を貫く大きな道の突き当りが月のピラミッド。右側が太陽のピラミッドです。
死者の大通りも実に広い。


広大なテオティワカンの観光は南端のシウダデーラか北端の月のピラミッドから始めることが多いようです。
2014年はシウダデーラから観光は始まりました。



シウダデーラ(城壁)

遺跡入口から入ると、左下のように低い壁のような建造物が並んでいます。
そこを登ると、右下のような広い空間に出ます。この一角がシウダデーラ(城壁)。
   


シウダデーラというのは、もちろんテオティワカン時代の名称ではありません。スペイン人が付けた愛称みたいなものです。四角く囲まれた一角が外から見ると城壁のように見えたことから名付けられたものでしょう。

遺跡に右のような説明図がありました。

シウダデーラは1辺約400mの正方形をしています。
その4辺はテラスのようになっていて、そこに建造物が並びます。
そして、テラスに囲まれた空間は大きな広場となっています。

死者の大通りに面した西側から広場に入ることができ、その正面奥にケツァルコアトルの神殿。神殿の周囲には神官のものと思われる住居跡もあります。
実は、この神殿の周囲から150体を越える生贄の遺体が発見されています・・・・。


シウダデーラ内から見たケツァルコアトルの神殿。
う〜〜ん。完全に逆光になっている。少し加工しました。
手前に基壇があって多くの人が登ってますが、ケツァルコアトルの神殿はその奥。


正確にいうと、この基壇の奥の建物に登ってケツァルコアトルの神殿を見学します。



ケツァルコアトルの神殿

ケツァルコアトルの神殿は高さは20m、基底は60m。テオティワカンでは3番目の大きさとなりますが、太陽のピラミッドや月のピラミッドと比べると小さな小さなピラミッドです。

このピラミッドは200年ころに完成していたものの、なぜか300年を過ぎたころ、覆い隠されてしまったと考えられています。写真の左にもピラミッドを覆っていた壁が写っていますが、これが外側の建物。つまり、ケツアルコァトルの神殿を覆った建物に登って、そこから発掘されたケツァルコアトルの神殿を見る、ということになるわけです。階段を登って、そこから下りて神殿に近づきます。



このピラミッドには非常に奇妙な点が数多くあります。そもそも、なぜ覆い隠されてしまったの?というのも大きな疑問ですが、ピラミッドの形も太陽のピラミッド・月のピラミッドとは大きく異なります。SFチックな太陽のピラミッド・月のピラミッドと違い、このピラミッドは無数のレリーフで飾られていて、ちょっとごてごてした感じ。



繰り返し現れる2つのレリーフのうち、首の周りに羽根(花のようにも見えます)があるのがケツァルコアトルだということは争いがありません。しかし、もう一つの丸メガネについては多くの説があります。かっては雨神トラロックとされていました。丸メガネはテオティワカン・ゴーグルとも言われるほどテオティワカンでは繰り返し描かれるモチーフで、雨神トラロックのトレードマークだからです。

しかし、私が最初に訪れた2003年1月にはトウモロコシの神と聞きましたし、2014年3月に訪れた時には、戦争の蛇とかトラロックの帽子をかぶるシパクトリ(ワニ)との説明を聞きました。


ケツァルコアトルと丸メガネの間に白く見えるのは貝のレリーフ。貝は水のシンボル。



よく見ると基壇の下にも羽毛のあるヘビのレリーフが彫られています。
これも、羽毛のあるヘビ、ケツァルコアトルでしょう。
ヘビの顔がよく分かるかと思って撮ってみました。



このピラミッドが埋められた原因としてケツァルコアトルを信仰する集団と他の集団との間に衝突があったのではないかと考える説があります。ケツァルコアトルを信仰していた集団が政争に敗れ、この神殿も埋められたと考えるわけです。

ここからは私の妄想なのですが・・・。
ティカルの石碑に彫られる「投槍器フクロウ」がテオティワカンの王ではないかとの学説があります。反対説は投槍フクロウが「ホ・ノフ・ウィッツ」という国の4代王という記載があることからテオティカワンのような古い国の王のはずがないとするのですが、このケツアルコアトルの神殿が埋められた時期にテオティワカンの政権が変わったとしたら説明がつくような・・・。 
(投槍器フクロウとティカルの歴史はこちら

投槍器フクロウは374年に即位し、439年に死亡したとされます。もし、テオティワカンの王ならば、月のピラミッドを今の形にし、テオティワカンの最盛期を築いた王となるのですが・・・・・。

私の妄想はともかく、後の650年ころのテオティワカン崩壊についても、この宗教対立が背景にあったのではないかと考える説もあるようです。
ケツァルコアトルを信仰していた集団が力を盛り返し、クーデターを起こしたのだというのです。

真相は闇の中。テオティワカンは謎ばかり。

右の写真はケツァルコアトルの神殿付近からの遺跡の眺め。手前に写っているのはシウダデーラの基壇と住居跡。



ツアーではシウダデーラから月のピラミッド近くの駐車場まで車で移動しました。
なんせ広い遺跡ですから。5分以上かかったんじゃないかな。
月のピラミッド近くの駐車場で降りて進むと下の写真のような景色が見えて来ました。


あれ、昔はこんなだったかなあ。
どうやら10年の間に発掘・修復が進んだようです。

左下の写真、上はケツァルパパロトルの神殿、下はジャガーの宮殿。
右下はその手前の住居跡。大規模に修復・復元されていました。
   

住居跡を通ってジャガーの宮殿へ。



ジャガーの宮殿



ここはジャガー神崇拝の場所だったと考えられています。上の写真のようなジャガーの壁画が幾つか残っています。保存状態の良い壁画を写してみました。

ジャガーは羽根の頭飾りをつけています。ジャガーの背中からしっぽにかけて白い丸い模様が連なっていますが、これは貝殻の装飾。そして、ジャガーは羽毛のある貝のラッパを吹いています。羽毛のある貝は隣接する地下神殿にもレリーフが残っています。ラッパからは血か水が滴り落ちています。ラッパから出ている渦巻きは音を表しています。ほら貝を吹くと雨が降ると考えられていたそうです。

ジャガーの上に交互に描かれているのは、雨神トラロックの仮面と年を表す象形文字だそうです。トラロックと一緒に描かれているというこは、やはりジャガー神は雨と関係があるのでしょう。オルメカ以来の伝統ですね。


ジャガーの宮殿には他にもこんな壁画がありました。
かわいいジャガーと思ったら、単なるジャガーの絵ではなさそうです。



左下のような解説図がありました。確かに良く見るとジャガーの下に人の手があります。
ジャガーの仮面??ジャガーと人間が合体???
   



地下神殿(羽毛のある貝の神殿)

ジャガーの宮殿から地下神殿・羽毛のある貝の神殿に進むことができます。この神殿はケツァルパパロトルの宮殿の基壇の下から発見されたもので、ケツァルパパロトル宮殿の下にあります。

基壇の下から発見されたことから、ケツァルパパロトルの宮殿より古い時代の神殿跡ということになります。

マヤでは古い神殿の上に新しい神殿を建てていくということが行われました(これは何故か南米アンデスでも見られます)し、テオティワカンの月のピラミッドも古い神殿の上に何回も増築が重ねられたことが分かっていますが、ここでは、そのような建築が行われていたことを実際に見て確認することができます。

埋もれていたせいでしょうか、レリーフや壁画の保存状態が良く、かってテオティワカンの建物が美しい色で彩られていたことがよく分かります。

左は4枚の花弁をもつ花のレリーフと、羽毛のある貝のレリーフ。

色も綺麗に残っています。

それにしても、貝に羽根を付けるというのは、どのような発想なのでしょう。

また、この神殿では基壇部分に黄色いくちばしから青い水が流れ出している緑色のオウム(?コンゴウインコ?)が描かれています。


ちょっと角度を変えて撮ってみました。
この神殿、埋もれていたものを公開しているので結構狭い。
   
オウム(コンゴウインコ?)は下の方に居ます。

アップで撮ってみました。
オウム?の表情が豊かで面白い。おそらく雨乞いに関係しているのだと思います。
   



ケツァルパパロトルの宮殿

ケツァルパパロトルの宮殿は月のピラミッドの西側に位置します。この宮殿は1962年に破壊された状態で発見されましたが、慎重な復元の結果、中庭の列柱に美しいレリーフがあることが分かりました。レリーフは美しい尾羽を持つケツァルとパパロトル(蝶)が合体した神話上の動物ケツァルパパロトルと考えられ、このレリーフからケツァルパパロトルの宮殿と呼ばれています。




中庭を囲む列柱にケツァルパパロトルが彫られています。屋根飾りも綺麗。


宮殿と呼ばれていますが、実際には神官たちが生活した場所ではないかとのことです。この中庭に水を張って、星の観測をしていたとの説もあるとか。

霊鳥ケツァルと蝶を合体させたことにどのような意味があるのか、具体的な意味は不明とのこと。
ただ、蝶はマヤでは戦争で死んだ戦士の魂を運ぶと言われ、後のアステカでは雨の前触れと言われたのだそうです。

この中庭、以前は中に入って自由に写真を撮ることができたのですが、2014年3月には中庭内に入れないようになっていました。昔に撮った写真も使って説明します。

   

左は横を向いたケツァルパパロトル、右は正面。ちょっと愛嬌がありますね。
左のレリーフでは黒曜石が目に埋め込まれていますが、おそらくは胴の両脇の円形にも埋められていて、蝶の羽根を模していたのではないかと思われます。右のレリーフでも目には黒曜石が埋め込まれていたのでしょう。宮殿には黒曜石以外にも雲母などもはめ込まれていたそうです。


中庭以外も復元・修復が進んでいました。
左下 柱の上には木材を渡して天井を造っていたようです。抽象的な壁画も残ってます。
右下 月のピラミッド側を向く宮殿入口。
   



月のピラミッド

ケツァルパパロトル宮殿から広場に出ると、目の前に月のピラミッド。
凄い存在感です。


月のピラミッドはテオティワカンの北の端に位置します。高さ46m、底辺は150m×140m。テオティワカンでは2番目の大きさのピラミッドですが、最も大きな太陽のピラミッドより高い場所に建てられているため、頂上の高さはほぼ同じだそうです。
月のピラミッドは100年ころに小さな神殿が建てられたのが始まりで、その後増築を重ね、400年ころに現在の姿となりました。テオティワカンは月のピラミッド周辺から発展していったそうです。



ピラミッドの前にはタルータブレロ様式の基壇が幾つも並びます。
なんとも、かっこいい・・・・。

月のピラミッド頂上から見下ろした月の広場(2003年)


月のピラミッドの正面・月の広場を取り囲むように多くのタルータブレロ様式の基壇が建ち並んでいます。この基壇上で神官が儀式を執り行ったと考えられ、ここが重要な祭祀の場だったことが想像されます。これらの基壇にはティカルやモンテアルバンのものもあるのが分かっています。

月のピラミッドで行われた祭事にメソアメリカ各地の都市国家が参加していたわけです。テオティワカンのメソアメリカにおける影響力の大きさを物語るものですね。それだけでなく、月のピラミッドからはマヤ人貴族と思われる生贄も見つかっているそうです。

月のピラミッド周辺の全体像を見たければ太陽のピラミッドにも登るべきでしょう。
太陽のピラミッドから見た月のピラミッドと月の広場


月のピラミッドの広場側正面に付属の基壇があり、更にその左右に月の広場を取り囲むように多くのタルータブレロ様式の基壇が建ち並んでいることが分かります。

しかし、この月のピラミッドで祀られていた神については、はっきりとは分かっていません。そもそも、太陽のピラミッド・月のピラミッドという名称自体、テオティワカン滅亡数百年後に訪れたアステカ人が遺跡の巨大さに驚き、神々がここで太陽と月を造ったと考えたことに基づく、いわばニックネームのようなものです。アステカの人々は遺跡の巨大さから神が造った都と考え、テオティワカン(神々の都)と名付け、建ち並ぶ基壇を墓と考えてメインロードを死者の大通りと名付けました。



テオティワカンの宗教については色々な説があり、多くの神々の存在も確認されています。ただ、私としては最初に訪れた時の現地ガイドさんから聞いた「ピラミッドは山と関係があると思う」という説に魅力を感じています。月のピラミッドは上の写真のように背後に山を背負っています。後方の山に雲がかかると必ず雨が降る。そこで、雨を祈るためにピラミッドを建てたのではないかとのこと。ピラミッド頂上にはかって雲母で飾られた神殿があったそうです。月のピラミッド前から巨大な水の女神(チャルチウトリクエ・翡翠のスカートの女神、トラロックの妹で妻)の石像が発見されていることからも、この説はかなりいい線を行っているのではないかと思います。

また、月のピラミッドから太陽のピラミッドを見ると太陽のピラミッド後方の山の稜線と太陽のピラミッドの稜線が同じことに気が付きます(下の写真をご覧ください)。山を意識してピラミッドが造られていることは間違いないのではないでしょうか。





第17号基壇の壁画

月のピラミッドから太陽のピラミッドに向かう途中、死者の大通りに面した基壇の壁画に描かれたジャガーを見ることができます。頭の部分が損なわれているのが残念ですが、ジャガーの爪など凄いですよね。この壁画も、新しい基壇に覆われていたため、このように良い保存状態が保たれました。昔は基壇にも壁画が描かれていたわけですね。





太陽のピラミッド



太陽のピラミッドはテオティワカン最大のピラミッド。高さは65m、基底は222m×225m。エジプトのクフ王・カフラー王のピラミッドにつぐ世界3位の大きさです。高さこそクフ王のピラミッドの2分の1ほどですが、基底の大きさはクフ王のピラミッドと並びます。エジプトのピラミッドとは違い、安定感のある、それでいてどこかSF的なフォルムです。かっては頂上に神殿が築かれていました。

前に立つと、その巨大さに圧倒されます。階段は現在、全部で248段。かなり急な所もあります。
テオティワカンの標高は約2300m。実はペルーのマチュピチュと余り変わりません。あんまり頑張ってしまうと、結構、体にきます。

   

太陽のピラミッドという名前は前にも書いたアステカの神話に基づくものですが、夏至の日に太陽はこのピラミッドの真上を通り、正面に沈みます。このピラミッドは太陽の動きを計算し尽して築かれているのです。偶然とはいえ、名前のとおり太陽との関係が非常に強いピラミッドです。

それだけでなく、このピラミッドは地下に洞窟が発見されており、洞窟を地下世界の入り口と考え、神聖視したメソアメリカ共通の世界観との関係が指摘されています。メソアメリカでは洞窟から人々が生まれたとか、洞窟は冥界・地下世界とこの世を結ぶ聖なる場所と考えられていました。この洞窟については元々信仰の対象だった洞窟の上にピラミッドが築かれたとする説が有力ですが、ピラミッドの下にわざわざ人工の洞窟を掘ったとの説もあります。


太陽のピラミッドからは周囲の建築群も見下ろせます。
かっては多くの建造物が建ち並んでいたのが分かります。
テオティワカンはメソアメリカ各地の人々が暮らす国際都市でもありました。
   


j実は2014年3月に訪れた時は太陽のピラミッドの頂上まで登ることはできませんでした。春分の日が近いことから規制が行われていたんです。太陽のピラミッドは現在メキシコ有数のパワースポットということで春分の日には多くの人々が押しかけるんだそうです。そのために色々と規制されるんだとか。オレンジ色の立ち入り禁止の網がちょっと興ざめ。




現地ガイドさんの話によると、最近、太陽のピラミッドも痛みがみられるので、近い将来は登頂制限が一般的になるかもしれないとのこと。月のピラミッドも結局途中までしか登れなくなってしまったし、十分あり得る話です。行くなら早いうちですね。


名残惜しいですが、土産物屋の立ち並ぶ道を通って駐車場に向います。





テオティワカンは余りに整い過ぎていて面白くないという人もいるそうです。でも、私はメソアメリカで別格の遺跡だと思います。これだけの存在感、規模、計画性、それでいて謎だらけ。

遺跡からの出土品も素晴らしいものが多く、メキシコシティの国立人類学博物館テオティワカン室を始め、遺跡内の博物館も見ごたえがあります。しかも、面白いのは遺跡とはまた違うテオティワカンが見えてきて、ますますテオティワカンが分からなくなってしまうこと。

テオティワカンの歴史が謎なのは、文字が使われてはいたものの長文が発見されておらず、まだ解読されていないから。投槍器フクロウも、まだまだ謎の人物で、具体的な支配者像も見えてきませんし、そもそも、どのような民族による都市なのかも分かっていません。最近はケツァルコアトルの神殿の下からも洞窟が見つかったそうです。いつかテオティワカンの謎が明かされる時が来るのでしょうか。謎が明かされて欲しいような、ミステリアスなままででいて欲しいような・・・。



テオティワカンの博物館を見る

中米の遺跡に戻る





参考文献

世界の神話百科 アメリカ編(原書房 D・M・ジョーンズ/B・L・モリノー著)
古代マヤ王歴代誌(創元社 サイモン・マーティン/ニコライ・グルーベ著 中村誠一監修)
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき著)
図説古代マヤ文明(河出書房新書ふくろうの本 寺崎秀一郎著)
沈黙の古代遺跡 マヤ・インカ文明の謎(講談社+α文庫 増田義郎監修)
黄金帝国の謎(文春文庫ビジュアル版 森本哲郎編)
埋もれた古代文明の謎(東京書籍 吉村作治監修)
世界遺産を旅する11(近畿日本ツーリスト 長谷川悦夫監修)

参考論文

11EBのEntorada−AD378のティカルの政変−(佐藤孝裕)