トゥーラ

メキシコシティの北65キロのところにあるトゥーラ
トルテカ族により築かれた都市です。
ケツァルコアトルの伝説やチチェン・イツァーとの関係が噂される遺跡です。
2003年1月訪問

写真はケツァルコアトル神殿の戦士の柱像(アトランテ像)


トルテカとは「博識な人」「芸術家」を意味します。テオティワカン衰退後、中央高原の覇者となったのがトルテカでした。トゥーラはトルテカによって築かれた都市で、800年から1150年ころにかけて栄えたとされています。

トルテカ人はケツァルコアトルを信仰していました。テオティワカンで一度権力闘争に敗れたケツァルコアトルを信仰する勢力が巻き返すことでテオティワカンは滅んだのだと考える説では、テオティワカンを滅ぼしたケツァルコアトルを信仰する勢力が新たに中央高原の覇者となったとしています。
しかし、トルテカはテオティワカン衰退後、ミシュコアトルという人物に率いられて北方から中央高原に進出したのであり、テオティワカン滅亡に加担したのだという説も有力です。

また、トルテカ人はユカタン半島のマヤにも影響を与え、チチェン・イツァーでは「トゥーラ」から逃れてきたケツァルコアトル王(ケツァルコアトル神と同一視された伝説の英雄王)が同国を治め、マヤとトルテカが融合した文明が花開いたとされています。

もっとも、「トゥーラ」というのは固有名詞というより、元々は「大都市」という意味なので、伝説のトゥーラと、ここトゥーラが同じかどうかは謎のようです。


ケツァルコアトル神殿



上の写真はトゥーラ遺跡にあるケツァルコアトル(トラウィスカルパンテクトリ)の神殿。トラウィスカルパンテクトリというのは「明けの明星」という意味で、ケツァルコアトル神のことでもあります。
基底部の一辺が約38m、高さ10mで、5層の基壇からなっています。

トルテカはケツァルコアトルを信仰していたといいますが、ここでも一番立派な建造物は、このケツァルコアトルの神殿です。一見しただけでも、チチェン・イツァーの戦士の神殿・千柱の間によく似ているのに気が付きます。

また、この神殿の基壇部分のレリーフもチチェン・イツァーとの類似が指摘されています。写真はジャガーと鷲のレリーフ。



チチェン・イツァーには心臓をつかむ鷲とジャガーのレリーフが彫られた「ジャガーと鷲の基壇」と呼ばれる建造物があり、このトゥーラのレリーフと、その類似性が指摘されています。この鷲が食べているのも心臓かもしれません。でも、チチェン・イツァーに比べてトゥーラの方が稚拙な印象を受けるのですが・・・。


下の写真はケツァルコアトルの神殿の北側に位置するコアテパントリ、「蛇の壁」。蛇の口の中から骸骨が顔を出しているという奇妙なレリーフが連続して描かれています。この蛇の姿、しっぱを上に跳ね上げていて、ちょっとチチェン・イツァーの蛇の柱に似ているような気がします。




他にもコヨーテのレリーフなどもありました。下の人物像は、ヘビの口から顔を出す人物像のようにも思えます。





遺跡を進んで、基壇部分から基壇上に登ります。

ケツァルコアトル神殿の頂上には、戦士の像と呼ばれる巨大な像が4体立っています。このちょっと直線的な人物像はみな戦士達で、高さは4、6mもあります(写真左下)。
この戦士達、胸には蝶のような形の胸飾りをつけ、刀や投槍器といった武器を身につけています。投槍器というのはテオティワカンに始まるメキシコ高原の武器ですね。好戦的だったというトルテカ人らしいといえます。横や後ろも、とても丁寧に彫られています。像の前には円柱の部分と思われるものも残っていました。美しいレリーフが残っています(左下)。

この像の後ろには角柱が残っており、そこにも美しい戦士のレリーフがありました(右下)。チチェン・イツァーの戦士の神殿前の角柱と似ているような気がします。

   


太陽の光が強すぎて、よく見えませんが、これはチャック・モール。
頭が取れているようです。




球技場



トゥーラの遺跡には球技場も残っています。結構大きいです。球技場は2つ残っていますが、そのうちの一つはメソアメリカではチチェン・イツァーに次ぐ大きさとのこと。トルテカの球技場は大きいのでしょうか。ユカタン半島のマヤの人に比べてメキシコ高原の人達は大柄とも聞きますが・・。


トゥーラには、他にも神殿ピラミッドと思われる建造物がありますが、2003年段階ではまだ修復が進んではいませんでした。全体を見るには1時間半から2時間くらいあれば足りたと思います。

遺跡の中にはチチェン・イツァに通じるものが幾つもあるのですが、チチェン・イツァーに比べて見どころは少ないというのが本音。元々は、かなり大きな都市だったと思われますし、修復が進めば印象も変わってくるのかもしれませんが。影響を与えたという方が稚拙な印象なのは何故でしょう。チチェン・イツァーに伝わって洗練された、ということなのでしょうか。相変わらず謎が多いです。



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参考文献

図説古代マヤ文明(河出書房新社ふくろうの本 寺崎秀一郎著)
古代メキシコ 日本語版(ボネーキ出版社)メキシコ国立人類学博物館にて購入

現地ガイドさんの説明によるところが多いです。