国立考古学民俗学博物館
諸国の歴史

博物館にはグアテマラ各地のマヤ遺跡の出土品が数多く展示されています。
訪れるのが困難なマヤ遺跡の歴史を博物館の展示品でまとめました。

写真はピエドラス・ネグラスの玉座

2012年5月博物館訪問


ピエドラス・ネグラス

ピエドラス・ネグラスはウスマシンタ川流域有数の都市です。
メキシコとグアテマラの国境近くに位置し、
近くのヤシュチランと長年に渡り抗争を続けました。

ヤシュチラン王を捕虜とするピエドラス・ネグラス王(石板12)


ピエドラス・ネグラスのかっての都市名はヨーク(入口)、王朝名はアーク(亀)と言いました。同じくウスマシンタ川沿いにあったヤシュチランとは40qしか離れていません。ピエドラス・ネグラスとヤシュチランの抗争は4世紀ころから始まったと言われます。上の石碑12は518年のもので、右側に大きな頭飾りを付けて立つのがピエドラス・ネグラス王(支配者C)。左側に座る捕虜のうち、一番右側がヤシュチラン王結び目ジャガー1世です。

ヤシュチランは、この後、長い間、ピエドラス・ネグラスに勝つことができず、ウスマシンタ川流域の覇権はピエドラス・ネグラスが握ることとなります。

興味深いのは、このころ「オチキン・カロームテ(西の大王)」の称号を持つタホーム・ウカップ・トゥーンという人物がピエドラス・ネグラス王を支配していたという碑文が残っていること。つまり、ウスマシンタ川流域の国々の上にピエドラス・ネグラスが、そして、更にその上にオチキン・カロームテがいたということです。オチキン・カロームテという称号はティカルのシヤフ・カックのように極めて限られた人物にしか用いられず、「西」とはマヤ世界の西に位置するテオティワカンを意味するとの説も有力です。このあたりの歴史の謎はまだ解き明かされていませんが、かなり興味深い。

石板2


7世紀に入ってもピエドラス・ネグラスはウスマシンタ川流域を支配していたようです。しかし、685年の石板にはカラクムル王がピエドラス・ネグラスに影響を及ぼしていたかのような記録が残されているとのことなので、ティカルを破ったカラクムルがウスマシンタ川流域にも力を及ぼしていたのかもしれません。
更に8世紀に入るとパレンケがウスマシンタ川流域に力を及ぼし始めます。当時のパレンケ王は有名なパカル王の息子キニチ・カン・バラム2世。しかし、キニチ・カン・バラム2世の死後は今度はトニナーが隆盛・・・・ウスマシンタ川流域も騒がしくなっていきます。

下の石碑40は、そんな時代のピエドラス・ネグラス王(支配者4)により作られたもの。王が地下の墓に眠る母に血か香料をまいて、母の霊と交信する儀式を行っているところだそうです。

石碑40(746年)
   


博物館には、この後の王の石碑も展示されていました。
左下の石碑13は王が儀式で香をまいている姿。なかなか美しいレリーフです。この王はハ・キン・ショーク。支配者4の息子と考えられています。
右下はハ・キン・ショークの死後、781年に即位した支配者7の像。この像、ちょっと普通のマヤの像とは違うと思いませんか。立体的で自然な造形。古代マヤ王歴代誌の中では、他の古典期マヤの都市が停滞期に入ったのと異なり、ピエドラス・ネグラスでは芸術的創造が停滞・衰退するどころか、更なる改良が加えられていたことを示すもの、と紹介されていました。

石碑13(771年)
 
 石碑15(支配者7)


この支配者7の時代はピエドラス・ネグラスの芸術が花開いた時期と言われています。

下は玉座。古典期マヤで最も美しい玉座と言われています。


玉座の脚、天板には碑文が刻まれ、
背もたれは巨大な仮面を表わしているのだそうです。
そして、その目の部分には2人の人物のレリーフ。


支配者7の両親ではないかとのことですが・・・どちらが母親だろう?


戦勝記念の石碑も残っていました(石碑12)。
792年と794年の対ポニナー戦の勝利を記念したものだそうです。
   

なかなか美しい石碑なので、近くに寄って撮ってみました。

威圧的な王
 
王の臣下と、 裸にされ、怯える捕虜

ボナンパクの壁画を思い起こさせるようなレリーフです。

しかし、この勝利も実は臣下の働きによるものだったとのことで、徐々にピエドラス・ネグラスの力は衰えていったようです。

下の石板3は795年に作られたものですが、これはピエドラス・ネグラスの過去の姿。玉座に座る王と、その周囲に並ぶ王の臣下や来訪者たち。この来訪者の中にはヤシュチランからの一行の姿もあり、ヤシュチランがかってピエドラス・ネグラスに服従していたことを描いたものです。
実際には、この石板が作られたころはヤシュチランに対し、ピエドラス・ネグラスは劣勢になっていたのだとか。過去の栄光にすがった・・・という感じなのでしょうか。

石板3


結局、支配者7がピエドラス・ネグラスの最後の王となります。808年に王はヤシュチランの王の捕虜となりました。過酷な運命が王に待っていたことでしょう。しかし、勝利した王も、ヤシュチラン最後の王となり、古典期マヤの他の都市同様、ヤシュチランも滅ぶことになります。




ドス・ピラス

ドス・ピラスはパシオン川とサリーナス川に挟まれたペテシュヴァトゥンという地域に位置する小さな都市です。

635年、ティカルの王族バラフ・チャン・カゥイールがドス・ピラスの支配者となります。

ティカルは562年にカラクムルとカラコルの連合軍に敗れて以降、暗黒時代に入っており、おそらくパシオン川の交易を確保するために王子を派遣することが必要だったのでしょう。

ところが、バラフはティカルの宿敵カラクムルの配下となり、ティカルを攻撃するようになります。
当時のティカル王はヌーン・ウホル・チャーク(楯頭蓋骨)。ヌーンとバラフは兄弟だったとする説が有力です。

ドス・ピラスから発見された碑文には、バラフはカラクムルに敗れて追放され、カラクムル配下になることでドス・ピラスへの帰還を許された、そしてカラクムルからティカルを攻め、王を殺すことを命じられた、と記されているそうです。

それにしても祖国への裏切り、バラフの胸中はいかばかりだったか・・・右の石碑9はバラフの唯一の肖像画だそうです。


バラフはティカルへの攻撃を繰り返し、679年の戦いでティカルはカラクムルとドス・ピラスの連合軍に大敗し、ヌーンは戦死したのか、その後歴史から消えます。これによりカラクムルはマヤ最強・最大の国家となり、ドス・ピラスも繁栄を謳歌するようになります。バラフの息子の時代がドス・ピラスの黄金期でした。

しかし、679年の大敗北から16年後の695年、ヌーンの息子である26代ティカル王ハサウ・チャン・カウィールがカラクムル王ユクノーム・イチャーク・カックの「楯と槍を打ち落と」し、カラクムルの守護神を「捕える」という大勝利をおさめます。これによりティカルは一気に息を吹き返し、ドス・ピラスも繰り返しティカルからの攻撃を受けることとなります。

そして、761年、ドス・ピラスは双子都市だったアグアテカに撤退。アグアテカも810年ころには火をかけられ、滅びました。

石碑11はバラフ後の王の姿を刻んだものと思われますが、調べても誰なのかは分かりませんでした。

石碑11
   




ナランホ

ナランホはグアテマラとベリーズの国境近くの遺跡です。
ティカルとカラコルの中間に位置していました。

   

ナランホはティカルとカラクムルの抗争に巻き込まれたのか、一度は滅んだ国です。


元々はカラクムル陣営だったようなのですが、カラクムルに背いたのか、631年のカラクムルとの戦いに敗れると、王は「食べられて」しまいます。

その後、ナランホはティカルからカラクムルに鞍替えしたカラコルを攻撃し、勝利するのですが(カラコルに100年近くの停滞期をもたらすほどの大勝利でした)、戦いで疲弊したのか、王家は断絶してしまいます。

そんなナランホを再興したのがドス・ピラスのバラフ王の娘である「6の空」女王。彼女は682年8月27日にナランホに「到着」します。

この「到着」というのはマヤ世界では王朝の創始や再興を意味するみたいです。どういう経緯で彼女がナランホの復興を期待されたのかは不明ですが、6の空女王は、以後、辣腕をふるい、ナランホをマヤの強国に帰り咲かせます。

6の空女王と、その息子であるカック・ティリウ・チャン・チャーク王の時代がナランホの最盛期でした。

石碑2はカック・ティリウ・チャン・チャーク王の姿を刻んだもの。なかなか美しい石碑で説明図より男前です。綺麗だったので拡大してみました。



カック・ティリウ・チャン・チャークは693年に僅か5歳で即位します。実権を握っていたのは母である6の空女王だったようです。興味深いのはカック・ティリウ・チャン・チャークがカラクムル王に従属していると記された碑文があること。母方の祖父バラフ同様、カラクムルに従属していたわけです。6の空女王のナランホ再興もカラクムルの意向が働いていたのでしょうか。王が即位してから2年後にカラクムルはティカルに大敗しますが、その影響はナランホに及んだのでしょうか。

石碑22もカック・ティリウ・チャン・チャーク王を刻んだもの。14歳のカック・ティリウ・チャン・チャークがジャガーのクッションの玉座に座っている姿だそうで、王の頭飾りに王の名前を表わす文字が記されているのだそうです。このころも実権は母が握っていたんでしょうね。

   

カック・ティリウ・チャン・チャーク王の後の王達になると、ナランホは再び勢いを無くしていきます。
744年のティカルの攻撃により、ナランホ王は捕えられ、その後30年モニュメントが建てられませんでした。最後の王の記録は820年。ナランホの終焉ころから近くのシュナントゥニッチが栄え始めますが、ナランホの従属国だったシュナントゥニッチも長くは続かなかったようです。



王国の歴史を知ると石碑が一層素晴らしく見えて来ます。
遺跡にも行ってみたいし、博物館も再び訪れたい。


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参考文献

古代マヤ王歴代誌(創元社 中村誠一監修)
ナショナルジオグラフィック日本版・2007年8月号
マヤ文明(岩波新書 青山和夫著)
古代マヤ・アステカ不可思議大全(草思社 芝崎みゆき)