中部ギリシャとペロポネソス半島

歴史を語る多くの遺跡だけでなく
複雑な海岸線が生み出す美しい景色
野草の美しい春のギリシャを訪れました。
2017年3月〜4月

写真はナフプリオン


2017年3月末から4月初めにかけて、ギリシャ中部とペロポネソス半島を巡るツアーに参加しました。下の地図は大まかなものではありますが廻ったルートをピンク色で書いてみたもの。アテネからメテオラ、デルフィ、オリンピア、ミストラ、ミケーネ、エピダウロスを巡るツアーで、遺跡巡りが目的でしたが、遺跡以外のギリシャも十分楽しむことができました。主だった遺跡については独立してまとめましたが、紹介しきれなかったギリシャをもったいないので1つにまとめてみました。



現地ガイドさんによると ギリシャの国土は日本の約3分の1。人口は約1000万人
国民の約3分の1がアテネ近郊に暮らしており、アテネを一歩離れると田舎・・とのこと


アテネからメテオラまで

ギリシャ到着の翌日は移動日。
朝、アテナを出て、ひたすらメテオラを目指します。
アテネを出てまもなく、現地ガイドさんが「アテネ市民の浄水場の向こうがマラトン古戦場」と教えてくれましたが、残念ながら確認はできませんでした。しばらくしたら、雪山が見えてきました。



現地ガイドさんに聞いたら、エウボイア島(エヴィア島)の雪山だとのこと。
エウボイア島、随分と本土に近い。

それから間もなく、今度は「左手にテーベの町」とのアナンス

テーベ(テーバイ)


テーベ(テーバイ)と言えば数々のギリシャ神話の舞台となった町。ディオニュソス神の母セメレはテーベの王女ですし、オイディプス王の悲劇や、ヘラクレスの生地とされることなどが思い浮かびます。でも、現地ガイドさん曰く「今はジャガイモと綿花の田舎」。
古代ギリシャ有数の有力国だったテーベは、かってアレキサンダー大王の父フィリポス2世が人質として暮らした場所でした。後にフィリポス2世はギリシャを征服しますが、テーベには寛大な措置をとったと言います。しかし、フィリポス2世の死後、テーベとアテネは反旗を翻します。アレクサンダー大王はこれを鎮圧しますが、テーベに親近感を感じていた大王はテーベの裏切りが許せなかったらしく、テーベを徹底的に破壊しました。そのため、テーベには何も残っていないんだとか。


雲が多いのが心配。
しばらくエウボイア島を眺めながら北に進みます。
湖みたいですけど、ギリシャ本土とエウボイア島の間は海。


帰国後調べたら、エウボイア島は地震で本土から切り離されたのだとか。

しばらく走ると、次第に晴れて来ました。
エウボイア島と海が綺麗。



ラミアの町。エウボイア島に近いリゾート地だそうです。


ここで急遽下車観光

テルモピュライ



テルモピュライはラミアの町近くにある古戦場。

アテネが紀元前480年のサラミスの海戦で大国ペルシャに勝利したのは有名な話ですが、テルモピュライはその前哨戦ともいえる戦い。
迫るペルシャの大軍にギリシャ軍はテルモピュライで待ち伏せをかけることとします。かってのテルモピュライは今より海に近く、細い道しかなかったため大軍を待ち伏せするのに最適と考えられたわけです。

しかし、裏切者がペルシャに裏道を教えたため、テルモピュライのギリシャ軍は挟み撃ちの危機に陥ります。その時、スパルタ王レオニダスは他の多くのギリシャ軍を退却させ、自分は僅か300人のスパルタ軍とともにこの地に留まりました。
像の下に刻まれた文字は「モロ・ラベ(戦って取れ)」。スパルタ軍が戦死した王の遺体の返還をペルシャ軍に求めた時、ペルシャ軍が告げた言葉です。スパルタ軍は全員戦いを続け、結局、4日間の戦いで300人全員が玉砕しました。

ここで準備のための時間を稼げたことがアテネのサラミスの海戦の勝利に繋がったと言われ、レオニダスは現在もギリシャの国民的英雄とされています。

現地ガイドさん曰く、ペルシャ戦争に負けていたら、今のヨーロッパはなかった。
確かに・・・。

レオニダス王の像の向かいには小高い丘があって、300人のスパルタ兵が眠っています。



丘に登ると墓碑か記念碑のようなものがありました。


ここに刻まれている言葉は「ラケダイモン、命令に従い戦い、ここに眠る」とのこと。スパルタの正式名称はラケダイモン人の国といいます。スパルタの心意気を示したものなんでしょう。
ちなみに、スパルタのみを戦わせるものかと、この地に留まって共に戦ったテスピアイ人の墓もレオニダス王の像のそばに建っています。なお、テーベも留まったもののペルシャに寝返った模様。


テルモピュライには他にも面白いものがあると現地ガイドさんが連れてってくれたのがこちら。
なんと温泉です。

 滝のように流れる温泉
 ギリシャ式温泉の楽しみ方

ギリシャは日本には負けるものの地震国だそうで、その反面、火山や温泉もあるのかも。

野に咲く花も美しい。
   


ラミアを抜けると海を離れて内陸部へ。一つ山を越えたところで休憩
ドライブインで旗が見事にはためいていました。



休憩の後は、ギリシャ屈指の広さと言うテッセリア平原を延々走ります。
いい加減飽きてきたころ、変な山が見えました。先史時代の住居跡があるそうです。



変な山が見えてから間もなく奇岩が聳えるメテオラが見えて来ました。
メテオラ観光の拠点カランバカの町に到着です。長い移動でした。



翌日は一日メテオラを満喫
メテオラについて詳しくはこちら



メテオラからオリンピア

メテオラをゆっくり観光した翌日はデルフィに立ち寄ってオリンピアまで移動。
今回のツアーで最長の移動距離です。

デルフィはパルナッソス山の斜面に築かれている遺跡です。
ラミアまで戻ってから、次第に山の中に入って行きました。雪山が綺麗。


現地ガイドさんがデルフィの近くにアテネのスキー場があるんだと力説してました。
結構、高い山が多いんですね。

いつの間にやら気が付くと延々と続くオリーブ畑。遥かにコリンティアコス湾が見えて来ました。
コリンティアコス湾はギリシャ本土とペルポネソス半島を分ける海です。


それにしても凄い量のオリーブ。現地ガイドさんはオリーブの利点を延々語ります。

そして再び山の斜面を登り、デルフィ観光拠点の町へ



デルフィ遺跡の観光の前に博物館を見学。



博物館前に残る見事なモザイク。
   


デルフィは品格を感じさせる遺跡。でも基本廃墟なので、先に博物館を見学したのは正解でした。
デルフィについて、詳しくはこちら



デルフィを離れ、車はコリンティアコス湾に沿って西に進みます。
複雑な海岸線。近くの町が海の向こうに見えます。雪山はパルナッソス連山でしょうか。


結構長いこと海沿いを走ったんですが、景色が綺麗で飽きない。



雪山も写ってるんですが、分かるでしょうか。なんともいえないのどかさ。
誰か別荘買って・・と盛り上がりました。でも、行くの大変だよね。


対岸にペロポネソス半島が見えて来ました。



ギリシャ本土とペルポネソス半島を結ぶハリラオス・トリクピス橋。


この橋はアテネ・オリンピックに合わせて建設されたもの。現地ガイドさんは、それまではフェリーだったんでフェリー業界がストしたんだとか、バスだと65ユーロもかかるんだ、信じられない、とか色々語っていましたが、やっぱりペロポネソス半島にとっては本土と繋がることは悲願だったんじゃないのかなあ。なかなかに美しい橋でもあります。対岸はペロポネソス半島最大の街パトラ。

 本土側から見た橋
通行料は高くても気持ち良い

この場所に橋が架けられたというのは、おそらくこの場所が一番海峡が狭いからなんでしょう。なんでも、この近くでかってオスマントルコとベネツィアの海戦が行われたそうです。軍事的にも重要な場所だったんでしょうね、本土側にもペロポネソス半島側にも海に面したベネツィアの砦が築かれていました。現地ガイドさん曰く、ともかくベネツィアは砦を造るのが上手いんだそうです。

思いっきり逆光ですが本土側の砦
 
 ペロポネソス半島側の砦

ペロポネソス半島に来ました。
パトラにはイタリアと結ぶフェリーもあるそうです。
パトラから海沿いに南下して、ピブロスから東に進むとオリンピアです。
後半寝ちゃった。


オリンピアからナフプリオン

オリンピアの朝。2つの川に挟まれたオリンピア。朝霧が幻想的。



オリンピア遺跡はピンク色のハナズオウが実に見事でした。
博物館も素晴らしかった。今回の旅で一番感動したのはオリンピアかもしれない。
オリンピアについて詳しくはこちら
 


ピンク色のハナズオウだけでなく、薄紫の藤の花も目に付きました。
ギリシャの藤の花は日本より房が短いみたい。
ホテルの庭
 
 オリンピア遺跡近く


オリンピアからペロポネソス半島南部のミストラへ。
途中のなんとものどかな風景。アルカディアって、ここらへん?もっと北??


ひたすら、のどか。

途中から最近できたばかりという高速道路を使って車は順調に進みます。
そして、道を南に折れ、ペロポネス半島南部のスパルタへ。
タイゲトス山脈が見えて来ました。


古代スパルタでは生まれたばかりの赤ん坊を長老が審査し、
合格しなかった赤ん坊はタイゲトス山の洞窟に捨てられたと言われています。
ペロポネソス半島の覇者スパルタが近い。

もっとも次の目的地はスパルタではなく近くの城壁都市ミストラ。ビザンティン時代の都市遺跡。
ミストラ遺跡の駐車場。山の頂上の要塞や斜面に築かれた城壁が見えます。
城壁都市ミストラについて詳しくはこちら



ミストラ遺跡から見下ろすスパルタの町



スパルタ郊外の山の斜面にある城壁都市ミストラは敵の攻撃に備えた城壁が幾重にも街を囲んでいることで有名なのですが、古代スパルタは逆に城壁を持たないことで知られていました。

スパルタでは、強い戦士こそが城壁だとされていたのです。さすがスパルタ教育発祥の地。

「時を経てスパルタを訪れた人は昔の名声を嘘だと思い、アテネを訪れると当時の実力の倍に見るだろう」と昔から語られていたそうですが、実際、観光で賑わうアテネとは対照的に現在のスパルタはミストラ観光の際に通過するだけの町となってしまっています。

スパルタの町のサッカー場の前にレオニダス王の像が建っていました。このサッカー場の近くに古代スパルタの遺跡があるものの、ミストラ建設の際に石材として持ち出されたため、遺跡にはほとんど何も残っていないとのことでした。

スパルタはペロポネソス半島の覇者であり、サラミスの海戦後、増長し切っていたアテネをペロポネソス戦争で破った存在なのに・・・

ほとんど何も残っていなくても、古代スパルタ遺跡に行ってみたかった。


スパルタからは高速道路のおかげで結構早くナフプリオンに着きました。
ナフプリオン郊外のホテルに宿泊。
丘の上に築かれたベネツィア時代の要塞が部屋のベランダから見えました。


黄色い花は菜の花と春菊の花だそうです。


ナフプリオンからアテネ

ナフプリオン

ナフプリオンのシンタグマ(憲法)広場


ナフプリオンはペルポネソス半島北東部に位置する港町。ペルポネソス半島はアテネに近い北東部が半島のようになっていて、アルゴリコス湾が深く入り込む形をしていますが、ナフプリオンは、その付け根部分に位置します。

ナフプリオンは天然の良港に恵まれていることから、古代から要塞が築かれました。現在もベネツィア時代の要塞が丘の上、街中、港の中と3カ所も残っています。

現在のナフプリオンはミケーネ遺跡やエピダウロス遺跡の観光の拠点であると同時に、ベネツィア時代の雰囲気ある街並みが残ることから、アテネ市民の日帰り観光地としても人気の街なのだそうです。

そして、忘れてはならないのが、ギリシャ共和国独立時に最初に首都とされたのが、この街だったこと。
独立戦争時、ギリシャ独立軍は要塞に立て籠もるオスマントルコ軍を包囲し、オスマン軍が降伏した後は、防御に優れた要塞を臨時政府の拠点としました。正式に首都とされたのは1829年。その後、1834年にアテネが首都となるまでの5年間、この街がギリシャ共和国の首都だったわけです。

湾内のベネツィア要塞
 
 港町らしく猫も多い。


左手の赤いクレタ様式の柱がある建物は独立時の国会。現在は銀行。



アテネ市民の日帰り観光地とのことですが、確かに雰囲気ある街並み。
   


ナフプリオンは遺跡巡りの拠点となる街です。
ツアーに入っていたミケーネ遺跡とエピダウロス遺跡の他に、自由時間にティリンスにも行きました。

ミケーネ遺跡


ミケーネとティリンスについて詳しくはこちら 
 エピダウロス遺跡


エピダウロス遺跡について詳しくはこちら

朝9時からエピダウロス・ミケーネの順で観光して、お昼を食べてからアテネに向けて出発
近くにはギリシャ神話の舞台であるアルゴスやコリントスもあります。
コリントス遺跡には行きたかったなあ・・・


コリントス運河

コリントス運河は1893年に完成したエーゲ海とコリンティアコス湾を繋ぐ運河。

ペロポネソス半島のペロポネソスとはペロプスの島という意味ですが、この運河の開通でペロポネソス半島はギリシャ本土から切り離され、名前通りに島といっても良い場所となりました。

運河の全長6343m、高さ80m、幅23m。
鉄道と道路の橋がかかってます。

橋の上を普通に歩いて渡ることができて、ギリシャ本土とペロポネソス半島を行ったり来たりできるのですが、高所恐怖症にはちょっと厳しい。

恐る恐る覗き込んでみると高さもさることながら、こんな狭くて大丈夫なのかと心配になります。

実際大型の貨物船などは通れないんですって。古代からペロポネソス半島を大回りしてデルフィに通うのは大変だったことから、何回も運河開削が試みられたそうです。しかし、やっと運河開削となった時には、余り実用性を発揮できなくなっていたというのは皮肉な話。今では観光船が通ったり、ここでバンジージャンプをしたり、という観光のための運河になっているようです。


ギリシャ本土に戻って来ました。海沿いの道をアテネへ。
ペロポネソス半島が遠ざかります。




コリントス運河からアテネまでは車で1時間半ほどでした。

アテネのホテルから見たアクロポリス



ギリシャ、遺跡の本場といった感じ
行きたいところが、まだまだたくさんあります。
2回行ったくらいじゃ、全然足りない。
現地ガイドさんに、また来ると約束してしまった・・・
宝くじ、買おうかしら。


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参考文献

古代ギリシャ・時空を超えた旅(2016年東博展覧会図録)
図説ギリシャ・エーゲ海文明の歴史を訪ねて 周藤芳幸著 ふくろうの本
図説ギリシャ神話・神々の世界篇 松島達也著 ふくろうの本
図説ギリシャ神話・英雄たちの世界篇 松島達也・岡部紘三著 ふくろうの本
古代ギリシャがんちく図鑑 柴崎みゆき著 バジリコ株式会社

基本的に現地ガイドさんの説明に基づいてまとめています。
テルモピュライの戦いの「モロ、ラベ」については
投降を呼びかけたペルシャ軍に対し、レオニダス王が「来りて、取れ」と答えた・・・
という説が有力みたいですが、現地ガイドさんの説でまとめてみました。