ブッダ・ガヤー

お釈迦様が悟りを開いた地ブッダ・ガヤー
ガウタマ・シッダールタは、ここで悟りを開き、仏陀となりました。
四大仏跡の一つである成道の地は世界遺産にもなっています。
2005年12月、2012年12月訪問

写真はマハーボーディー寺院


29歳でカピラヴァストゥの王宮を出て出家したシッダールタは、当時の大国マガダ国で2人の仙人の下で修業します。シッダールタは2人の師の説く禅定の境地にはすぐに達しますが、それは自身の求める悟りではないと考え、苦行によって悟りを目指すこととします。苦行の地はマガダ国の首都から70キロほど南西の尼連禅河(にれんぜんが、ナイランジャラー河)のほとりでした。

この時の苦行について、お釈迦様は後に「眼窩はくぼみ」「腹皮に触れようとすると脊柱をとらえてしまった」と語っています。パキスタンのラホール博物館の「釈迦苦行像(断食するシッダールタ)」は、その頃のお釈迦様の姿を表現したものでガンダーラ彫刻の最高傑作とも言われています。

   

鬼気迫る姿です。実際の苦行も凄まじいものだったのでしょう。シッダールタの激しい苦行は有名になり、5人のバラモンが彼を崇拝して集まります。しかし、6年の苦行の後、シッダールタは苦行では悟りを得ることができないと考え、苦行を捨て中道の道を行くことを決意します。苦行で衰弱したシッダールタを介抱したのが村の長者の娘スジャータでした。

苦行を捨てたシッダールタを見て5人のバラモンは離れていきますが、シッダールタは尼連禅河に近いウルビラという森の菩提樹の下で瞑想に入り、ついに悟りを開きます。35歳の時でした。
その成道の地に建つのがマハーボディ寺院です。ブッダ・ガヤーでお釈迦様の足跡を巡りました。



尼連禅河(ナイランジャラー河)

スジャータ村近くの橋の上からの風景です。
乾期の尼連禅河には水がほとんどありません。
シッダールタは悟りを開く前に、この河で沐浴をしたと言いますが、乾季ではちょっと無理っぽいです。
スジャータ村の近くからはシッダールタが悟りを開く前に修行した前正覚山が見えるということですが、
実は2005年に訪れた時も、2012年に訪れた時も、どちらも前正覚山は見えませんでした。
ただ、悟りを開いた地に建つマハーボディ寺院は良く見えます。



シッダールタが苦行を捨てることにしたきっかけは、この河の堤を行く農夫が歌う「弦が強すぎると切れる。弱いと弱いで、また鳴らぬ。程ほどの調子にしめて、上手にかき鳴らすがいい」という民謡を耳にしたことにあると伝えられます。シッダールタは王宮での贅沢な享楽的な生活も、禁欲的な激しい苦行も、どちらも極端なことは正しくないと考え、中道を行くことを決意し、苦行を捨てます。



スジャータ村

苦行を捨てることにしたシッダールタですが、体は衰弱し切っていました。
衰弱していたシッダールタに乳粥をふるまい、介抱したのが村の長者の娘スジャータです。
インドで乳粥を食べてみましたが、甘くて、こってりしたお菓子風味のお粥でした。
彼女の名前にちなんで、今では村の名前もスジャータ村と呼ばれています。
スジャータの家があったという場所に建てられたストゥーパが近時発見され、修復整備されていました。

   

かなり大きなストゥーパです。グプタ朝(4〜6世紀)のころ建てられ、その後、パーラ朝(8〜12世紀)に増築されたものと考えられています。煉瓦製で、かっては煉瓦の上に漆喰が塗られ、一番下には木の柵が作られていたということでした。

ストゥーパを見学していたら、村人が「スジャータがシッダールタに乳粥を捧げた場所がある」というので見に行くことになりました。ストゥーパから10分くらい歩いたところに、その寺院はありました。

     

スジャータは木の神に供養しようと乳粥を持ってきて木の下にいたシッダールタに会ったと言われていますが、村人によると、その木がこのガジュマルの木なんだとか・・・。う〜〜ん。無理があり過ぎる。

祀られている像から見ても、最近建てられた寺院のようです。仏教徒の観光客が増えたんで村で作ったんでしょうか。ただ、シヴァ寺院のすぐ裏にあるので、古来から何らかの聖地と言われていた場所なのは間違いないのかもしれません。

   

どうせならスジャータをもっと可愛く作って欲しかった・・・。


のどかな風景の中を歩いてストゥーパに戻ります。


次は、いよいよマハーボーディー寺院です。



マハーボーディー寺院

スジャータの供養により体力を回復したシッダールタは尼連禅河で沐浴後、近くの森の菩提樹の木の下で瞑想し、ついに悟りを開きます。仏陀の誕生です。王宮を出て6年、35歳の時でした。

成道の地は、古来から仏教徒によって敬われ、前3世紀にはアショカ王が菩提樹の下のお釈迦様が座られた場所に砂岩製の金剛法座を置き、仏塔を建てました。

紀元後5〜6世紀にグプタ朝が菩提樹と金剛法座を祀る寺院を建築し、7世紀には現在とほぼ同じ姿になっていたといいます。
このマハーボーディー寺院は現存する最古の仏教寺院でもあります。

インドで仏教が衰退した後は、ミャンマーの歴代王が修復にあたったといいますが、12世紀にイスラムにより破壊され、その後はヒンズー教寺院として細々と続いていたそうです。

1883年カニンガムが調査・修復し、1947年に州が買い取り、州とヒンズー教・仏教の共同管理となり、1992年から、ようやく仏教の単独管理下に置かれるようになりました。

寺院は入口で靴を脱いで預けなくてはなりませんが、境内は仏教徒により清潔に保たれていて、靴下がひどく汚れるということはありません。
インドの観光地はゴミだらけなのが普通ですが、ゴミ一つ落ちていない清浄な空間です。



寺院は一見石造りのように見えますが、実際は煉瓦製で漆喰が塗られているのだそうです。人が入れるのは2階までで、その上は南インドのヒンズー教寺院に良く見られるような塔のような屋根となっています。高さは52m。中央の塔を4つの小さな塔が囲んでいます。


寺院内に祀られている仏像は11世紀のパーラ朝のもの。毎日衣を変えています(左下)。
本堂周囲は仏塔や数々の仏で飾られていました。

     


仏教施設は右回り(時計回り)に礼拝するのが礼儀です。時計回りに歩いて寺院の裏手に出ると柵で囲まれた菩提樹があります。この柵の中がシッダールタが悟りを開いた場所です。

シッダールタが悟りを開いた時の初代菩提樹は枯れてしまっていて、今の菩提樹は初代から分けられたスリランカの菩提樹から挿し木したもの。周囲は金剛法座を礼拝する世界各国の仏教徒で賑わっています。2005年に比べて随分人が増えていました。




仏足石も置かれています。

   


反対側に廻って菩提樹と金剛法座を見てみました(左下)。
右下は柵の間から苦労して撮った金剛法座。

   


寺院を取り囲む欄楯にはレリーフが彫られています(左下)。
現在のものは、ほとんどがレプリカですが、見ていくと面白い。ただ、人が多すぎますね・・・。
金剛法座の少し先に地面に蓮の形の石が置かれている場所があります(右下)。
悟りを開いてから3週目に仏陀が歩いた所に蓮の花が現われたという伝説に基づきます。

   

実は悟りを開かれて仏陀となられたお釈迦様は、この地に7週間留まったと言われています。最初の1週間は菩提樹の下で悟りを深め、2週間目は近くの小高い丘に移って悟りを開いた場所を見ながら、更に瞑想を続け、3週目は悟りを開いた場所と2週目に瞑想をした場所の間を行ったり来たりしながら、瞑想を続けていたのだそうです。
悟りを開かれた後も、それを体系化するのに時間がかかった、ということなのでしょうか。仏教と言う大宗教の成立が7週間というのは長いのか、短いのか・・・。

下の写真はマハーボディ寺院を入口から左側から撮ったもの。右端の小高い丘の上に白い小さな寺院がありますが、ここが2週目にお釈迦様が瞑想していた場所です。かって,この一帯は森の中だったということですから、丘から悟りを開いた場所の菩提樹も良く見えたのでしょう。



マハーボディ寺院の境内には、お釈迦様が7週間を過ごした場所が全て残されていて(正確には1か所は場所が異なるようですが)、その場所を巡りました。

右の写真はマハーボディ寺院の正面、入口の階段を下りてすぐのところにある柱。

ここは5週目にお釈迦様がバラモンと会話した場所です。
この柱はアジャパラ・ニグローダと言い、ニグローダという木があった場所なのだとか。

この地で、お釈迦様はバラモンに対し、人は生まれではなく善行によって尊くなると説きます。
カーストを初めて否定した画期的な教えです。

順番が少しずれましたが、4週目には、お釈迦様はマハーボディ寺院の入口から見て右側で因果応報について考察を深めたといいます。
そこには神々がお釈迦様のために小屋を建てたのだとか。

そして、5週目にここでバラモンと会った後、6週目にはマハーボディ寺院の入口から見て左側にある池で瞑想します。
この池の位置だけが実際の場所とは違うということでした。
本当は、もう少し遠くにあったのをカニンガムが寺院境内に復元しちゃったんだそうです。


4週目の場所に移動します。
寺院の右側には多くの奉納塔が並び、多くの仏教徒が瞑想しています。
神々が小屋を作ったという場所には小さなお堂が建てられていました(右下)。

   


私たちが訪れた日は、物凄い数のチベット僧が集まっていました。
なんとチベットの高僧カルマパ17世の説法がある日だったんです。
2005年も「間もなくダライ・ラマが近くで説法を行うのでチベット僧が集まり始めている」と聞きました。
もしかしたら年末年始にはチベットの高僧がブッダガヤで説法が行うことになっているのかもしれません。

   

中国から亡命したカルマパ17世は次世代のチベット亡命者の中核になるとされている高僧です。
チベット語の説法は理解不能ですが、同じ場に居合わせることが出来たのはありがたいことです。



今度は寺院の左側に移動。
アショカ王柱(左下)の奥に池があり、ちょっと変わった像が置いてあります(右下)。

   

この像は6週目にお釈迦様が瞑想中に激しい豪雨が襲った際、竜王ムチャリンダが自分の体でお釈迦様を守ったという伝説に基づくもの。竜王の名からムチャリンダ池と呼ばれています。
日本でも、寺院の天井画に龍が描かれていることがありますが、あの龍はこのお釈迦様を守ったムチャリンダなのだそうです。

7週目にお釈迦様が過ごしたとされるのが、マハーボディ寺院の左側にあるラ・ジャタナ。
欄楯で囲まれていて看板が立っています。

ここで2人のミャンマー人の商人がお釈迦様に乳粥の供養をし、最初の在家信者になります。
ミャンマーの人たちは、最初の在家信者がミャンマー人だったということを大変な誇りにしているそうです。

7週間に渡って悟りを深めたお釈迦様でしたが、自身の得た悟りを人々に説くことについて、当初は消極的だったといいます。
人々に理解されるか、疑問に思ったようです。

この時、梵天・ブラフマーがお釈迦様の前に現れ、説法を懇願したと言われます。有名な「梵天勧請」です。
梵天勧請は3回繰り返されたと言われ、ついに、お釈迦様は人々に説法を行うことを決意します。
有名な梵天勧請の場所がどこかは分からないようですが、おそらくブッダ・ガヤーのどこかだったのでしょう。

お釈迦様は初転法輪の地、サールナートに向かいます。



夜のマハーボディ寺院

マハーボディ寺院は夜間はライトアップされています。
昼の賑わいとは違って、神秘的な美しさ。




昼間は目立たなかった場所まで美しい。



本堂だけでなく、小さなお堂も照らされていました。
   


金剛法座周辺。夜になっても多くの信者たち。
   


とても静かです。仏教徒ならではの静かさ。
   



ブッダ・ガヤーは仏跡巡りのハイライトでしょう。
かってはマハーボーディー寺院の中まで物売りが付きまとって五月蠅い限りでしたが
現在は物売りは中に入れないようで、静かに観光ができます。
代わりに世界各地からの仏教徒が増えました。
仏教徒っていうのは実に静かなものですね。
寺院を一歩出ると町は喧騒にあふれていました。



生誕の地(ルンビニ)       故郷(カピラヴァストゥ)
初転法輪(サールナート)
伝道の地・王舎城(ラジギール)  大学(ナーランダ)
伝道の地・祇園精舎・舎衛城(サヘート・マヘート)と奇跡の地(サンカーシャ)
釈尊最後の旅(ヴァイシャーリー〜クシナガラ)

南アジアの遺跡に戻る



参考文献

「仏陀誕生の地 ルンビニは招く」(パサンダ・ビダリ著)
「ブッダの生涯」(新潮社とんぼの本 小林正典・三友量順著)
「ブッダの生涯」(創元社「知の再発見」双書 ジャン・ボワスリエ著)
「原始仏教」(NHKブックス 中村元著)
「原始仏典」(ちくま学芸文庫 中村元著)
「『ブッダの肉声』に生き方を問う」(小学館101新書 中野東禅著)


基本的には添乗員さんの説明を元にまとめています。