カピラヴァストゥ

釈迦族の都カピラヴァストゥ
お釈迦様がシッダールタ王子として過ごした地
ネパール説とインド説、2つの場所を訪れました。
2012年12月、2013年1月訪問

写真はネパール・ティラウラコットの王宮跡


お釈迦様、ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)は釈迦族の王であるスッドーダナ王(淨飯王)と后であるマーヤー夫人(摩耶夫人・マヤデヴィ)の長男として生まれました。シッダールタ王子が出家するまで過ごした釈迦族の都がカピラヴァストゥです。

カピラヴァストゥがどこなのか、についてはネパール説(ティラウラコット)とインド説(ピプラハワ)の争いがあり、インド説は「聖なる仏舎利、釈迦族の仏舎利」と書かれた壺がピプラハワのストゥーパから発見されたことを根拠としています。
しかし、発掘調査の進んだ現在ではシッダールタ王子が過ごした釈迦族の都はネパールのティラウラコットで、インドのピプラハワはカピラヴァストゥがコーサラ国に滅ぼされた後、生き残った釈迦族が移り住んだ場所である、という説が有力となっているようです。


ティラウラコット(ネパール説)

ルンビニから西へ約25キロ。ネパール説でカピラヴァストゥとされるティラウラコットの遺跡入口です。
この地をカピラスヴァストゥとする看板が立っていました。



看板の左にカピラヴァストゥの全体像が写っています。カピラヴァストゥは城壁都市。東西約450m、南北約500mに渡る城壁が周囲を取り囲む都市でした。この城壁の中にシッダールタ王子が暮らした王宮などがあったわけです。
少し城壁都市としての規模が小さい気もしますが、釈迦族の国は当時コーサラ国の支配下にある弱小国であったといいますし、2500年前ということを考えると、この規模が相当かもしれません。


西門

遺跡入口を入ってすぐに西門があります。
ここはカピラスヴァストゥと外を分かつ西の城門があった場所です。



西門の脇をみると、城壁がずっと続いているのが分かります。かっては高い城壁がカピラヴァストゥと外を隔てていたのでしょう。城壁の外には堀もあったそうです。

お釈迦様、ガウタマ・シッダールタはルンビニで生まれた後、生後7日目に母を亡くしたため、母の妹マハー・パジャーパティーに育てられます。
マハー・パジャパティは父王スッドダーナの第二妃となっていました。

シッダールタ王子を懐胎した際、母マーヤー夫人は白象が胎内に宿る夢を見、夢占いにより誕生する子は転輪聖王(全世界を治める理想的君主)もしくは仏陀となるとされましたが、更に生後まもなく、アシタ聖人からもシッダールタ王子は仏陀となると予言されます。
アシタ聖人は自分が年老いていて、シッダールタ王子が至上の英知を得、法輪を転ずる(説法をする)ことを見届けられないとして涙したとされます。

成長したシッダールタ王子は、物思いにふけることが多い少年だったといいます。父が行った式典で、田から顔を出した小さな虫を小鳥が咥え、その小鳥を大きな鳥が捕まえるというのを見て、この世に生きる意味に疑問を持ち、瞑想することが増えたともいいます。
弱小国の王だった父は、シッダールタ王子に転輪聖王となることを期待したのでしょう。シッダールタ王子が出家することを恐れ、16歳で結婚させ、ヤショダラーを妃として迎えます。


しかし、結婚後もシッダールタ王子は相変わらず物思いにふけることが多く、父王は遊学を勧めます。
そして、王子が東西南北の城門で出会ったのが老病死です。すなわち、シッダールタ王子は東門を出て老人に会い、南門を出て病人に会い、西門を出て死人を見ます。老・病・死に苦しむ人々の姿を見たシッダールタ王子は北門を出て出家修行者に会い、迷いから解脱するためには出家するしかないと考えるようになります。いわゆる四門出遊です。おそらく後にできた伝承なのでしょうけれど、伝承によれば、この西門を出て、シッダールタ王子は死人を見たこととなります。


王宮跡

西門から少し歩くと「複合建築物」に出ます。




ここは王宮だったと考えられています。

   

王宮跡には、幾つもの大きさの部屋があり、井戸らしきものも残っていました。お釈迦様は後に、出家前の自分の生活について、「冬と夏(雨季)、春の3つの別邸があった」、「夏(雨季)の4か月の間、たえず伎楽をもって承事せられ、邸より出ることはなかった」と語っています。

この王宮は、どの季節のものなのでしょうか。

また、お釈迦様は王宮での生活について
「父の邸の庭には浴池が設けられていて、一処には青蓮が植えられ、一処には紅蓮が植えられ、また一処には白蓮があった」
「わたしの部屋にはいつもカーシー(バラナシを都とする国)産の栴檀香が焚かれていたし、わたしの被服(きもの)は下衣も上衣もみなカーシー産のものであった」
「わたしが外に出るときは、雨露や暑さ寒さを防ぐためにいつも白い傘蓋(かさ)がかざされていた」
・・・と述べています。

基礎しか残っていない王宮跡で、往時を偲ぶのは難しいことですが、ここで出家前のシッダールタ王子が暮らしていたかもしれないと思うと感慨深いものがあります。

もちろん、更に発掘・修復が進めば、ここは実は王宮ではなかったということもあるでしょうし、王宮だけれどシッダールタ王子の時代とは異なるということになるかもしれません。
しかし、それでも、かって、この周囲をシッダールタ王子としてのお釈迦様が歩いていた可能性は高いわけです。


出家を決意して出たという王宮はここだったのか、それとも別の王宮なのか・・・。その時、この近くを通ったんでしょうか・・・。ちょっと妄想が膨らみ過ぎてしまいます。遺跡巡りの醍醐味ですね。


この王宮跡にほど近い場所にヒンズー寺院がありました。

インドラ神とマーヤ夫人を祀る寺院だそうです。

小さな寺院ですが、寺院の前で女性が太鼓を叩いていました。
バラモンの女性なのでしょうか。

お釈迦様の故郷であるカピラヴァストゥですが、現在、この地に住む多くの人々はヒンズー教徒となっています。

新しい寺院のようにも見えましたが、いつからある寺院なのでしょうか。
王宮跡近くに寺院が建てられたということは、やはり、ここが聖なる場所と考えられたからだと思うのですが。


東門

王宮跡から東門までは少し歩きました。
ここは西門より保存状態が良いように思えます。



東門は当時最も大きな門だったと言われています。シッダールタ王子が病人に会った門であり、また、出家のため王宮を出た時に通ったのはこの門だったとも言われています。
出家を考えていたシッダールタ王子は宴会の後、酔いつぶれた女性たちの醜い姿を見て、ついに出家を決意します。王子は愛馬カンタカに乗り、従者チャンナを連れてカピラヴァストゥを出ます。この時、城内の誰にも気付かれなかったのは神々の助けがあったからとも言われています。

この門から城外に小高い丘が見えます。この小高い丘は愛馬カンタカのストゥーパとされているそうです。シッダールタ王子は遠くまで来た時、チャンナに王子としての装身具等を渡し、愛馬カンタカと共に城に帰るように告げますが、王子と別れた愛馬カンタカは悲しみの余り、まもなく死んでしまったのだとか。





東門からは城壁がずっと伸びています。

   


城壁に沿って北上したら、池がありました。
昔からある池だそうです。シッダールタ王子が暮らしたころにもあった池なのでしょうか・・・。




池のそばから城外に出て、のどかな村を歩きました。
10分くらいして見えていたのが2つのストゥーパ。
大きい方が父スッドーダナ王、小さい方が母マーヤー夫人のストゥーパと言われています。



もっとも、このストゥーパは紀元前4世紀に建てられ、前2世紀に修復されたというので時代的には合わないのだそうです。後にお釈迦様の両親のために造られたとしても良い気はしますが・・・・。

帰り道で見えたカピラヴァストゥ




クダン

ルンビニとティラウラコットの間にクダンという遺跡があります。
実際には、まず、ここから訪れました。朝の霧が深い。

   

ここはお釈迦様の前に悟りを開いたという過去7仏の一人の故郷と言われる場所であると同時に、お釈迦様が悟りを開いてからカピラヴァストゥを訪れた時、常に滞在した場所なのだそうです。お釈迦様は故郷に戻った際も王宮には入らず、ここで生活をされたわけです。お釈迦様の息子であるラーフラが出家したのも、この場所なのだということでした。

4世紀から6世紀にかけてのグプタ朝の寺院が残っています。仏教が廃れてからはヒンズー教寺院とされたようで、本尊が置かれていただろう場所にはリンガが置かれていました。

寺院には所々、昔のレリーフが残っています(左下)。
隣接して建つ寺院(下中央)と、遺跡入口付近にある後に建てられたヒンズー寺院(右下)。
     



ニグリハワ

     

ニグリハワにはアショカ石柱が残っています。ここもお釈迦様の前に悟りを開いたという過去7仏の一人クナンゴンムニが生まれた場所なのだそうです。アショカ王は過去7仏に関係する柱も立てていたんですね。鳥のレリーフや文字が残っていました。2つの文字が書かれているそうです。



サガルハワ

川のようにも見えますが、ルングサガルという湖です。
のどかな風景ですが、実は、ここで釈迦族の大虐殺が行われました。



お釈迦様の晩年、カピラヴァストゥはコーサラ国に滅ぼされてしまいます。そのきっかけはコーサラ国の王パセーナディ王が釈迦族から妃を求めたことにあります。カピラヴァストゥの人々は、あろうことか大臣が使用人に産ませた卑しい娘を王族の娘と偽って嫁がせるのです。何も知らないパセーナディ王は彼女を第一夫人とし、瑠璃王子(ヴィドゥーダバ)も生まれます。

成長した瑠璃王子はカピラヴァストゥを訪れた際、偶然母の秘密を知り、大きなショックを受けます。パセーナディ王も妃と瑠璃王子の身分を一度は使用人に落とします。お釈迦様の取り成しで、身分は戻されるものの、瑠璃王子は釈迦族に激しい憎悪を抱き、ついにはクーデターを起こして父を追放し、カピラヴァストゥを攻めて大虐殺を行います。この湖では7万人が殺されたとも言われているそうです。かっては釈迦族を弔うための多くのストゥーパが建てられていたそうですが、今では何も残っていません。


それにしても、なぜ釈迦族は身分の卑しい娘をコーサラ国に嫁がせたのでしょう。
カーストの厳しい地で、卑しい身分の娘を嫁がせるというのは大国の血統を貶めるという意味合いもあったはず・・・。
姫様が嫌がっているから身代わりを出そう・・などという単純なものではなく、今では考えられないほどの悪意に満ちた行動だったはずです。

当時のコーサラ国はマガタ国と並ぶ2大国でした。弱小国である釈迦族出身の彼女を第一夫人としたのは破格の待遇だったはずです・・・。

パセーナディ王はお釈迦様と同年代で、お釈迦様の教えに帰依していたといいますから、釈迦族に妃を求めたというのは純粋に釈迦族と仲良くなりたかったからなのではないでしょうか・・・。

瑠璃王はお釈迦様の説得で出軍を3回中止したそうですが、お釈迦様が4回目は止めなかった(「仏の顔も3度」はここから来ているそうです)というのも、釈迦族の行為が庇い切れないものだったからのような気がします。
瑠璃王子にクーデターを起こされたパセーナディ王は妹の嫁ぎ先であるマガタ国に助けを求め、その城門前で亡くなったというのですから、哀れです。

また瑠璃王のコーサラ国も、結局はマガダ国に滅ぼされることとなります。

なんというか、はかないですね。
色々考えながらホテルに戻ったら、孔雀が出迎えてくれました。




ピプラハワ

インドでカピラヴァストゥとされるのがピプラハワです。
ルンビニから約15キロ。入り口には発見された舎利壺の写真がありました(左下)。
ここに「聖なる仏舎利。釈迦族の仏舎利」と刻まれていたわけです。
遺跡には大きなストゥーパとそれを囲む形での僧院跡が並びます。

   



ガンワリア

インド説で宮殿址とされるのが、ピプラハワの近くにあるガンワリア。しかし、どう見ても、宮殿ではなく、僧院です。やはり有力説の言うように、シッダールタ王子のころのカピラヴァストゥはネパールにあり、コーサラ国にカピラヴァストゥが滅ぼされた後、生き残った人たちが逃れてきたのが、インドのピプラハワとするのが自然のようです。

   



カピラヴァストゥの場所についてはネパール説に勝負があった印象。
ネパールのティラウラコットの周辺はお釈迦様に関連する見どころも多いです。



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釈尊最後の旅(ヴァイシャーリー〜クシナガラ)

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参考文献

「仏陀誕生の地 ルンビニは招く」(パサンダ・ビダリ著)
ルンビニの法華ホテルで買った本です。非常に参考になりました。

「ブッダの生涯」(新潮社とんぼの本 小林正典・三友量順著)
「ブッダの生涯」(創元社「知の再発見」双書 ジャン・ボワスリエ著)
「原始仏教」(NHKブックス 中村元著)
「原始仏典」(ちくま学芸文庫 中村元著)
「『ブッダの肉声』に生き方を問う」(小学館101新書 中野東禅著)


基本的には添乗員さんの説明を元にまとめています。