ラジギール(王舎城)

ラジギールはお釈迦様の時代の二大国マガダ国の首都だった場所です。
当時の名はラージャグリハ(王舎城)、仏教伝道の拠点となりました。
お釈迦様や弟子たちの足跡が数多く残っています。
2012年12月訪問

写真は霊鷲山の日の出


ラジギールはブッダ・ガヤーの北、ビハール州のほぼ中央に位置します。ブッダ・ガヤーからは車で3〜4時間でしょうか。現在は小さな町ですが、お釈迦様の時代、ここは当時の二大国の一つであるマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)として栄えていました。

ラジギールは周囲を5つの山で囲まれた天然の要塞とも言える地で、当時の王はビンビサーラ。

ビンビサーラ王はお釈迦様と同年代だったと言われ、悟りを開く前のお釈迦様が王舎城で托鉢している姿を見て惚れ込み、軍と財の提供を申し出たと伝えられています。

もちろん悟りを求めるお釈迦様は王の申し入れを断るのですが、悟りを開いた時は必ず王に伝えると約束します。

ブッダ・ガヤーで悟りを開き、サールナートでの初転法輪の後、お釈迦様はバラナシでも布教を行い、教団の数は61人まで増えました。

更にブッダ・ガヤー周辺で当時名声の高かったバラモンのカッサパ三兄弟を説法で改心させ、カッサパ三兄弟は1000人の弟子と共にお釈迦様に帰依することとなります。

お釈迦様は、ビンビサーラ王との約束を果たすため、この多くの弟子と共に王舎城に入ります。高名なカッサパ三兄弟の弟子入りは、当時、大変なニュースだったに違いありません。

ブッダ・ガヤーからラージギルに入る際の山越えではマガダ王国時代の城壁跡を見ることができます(右)。

おそらくお釈迦様も、私たちと同じようなルートでラジギール・王舎城に入ったはずです。


城壁跡から少し進んだところで、道路脇に「古代の轍の跡」と「古代文字」が残っているという遺跡があったので急遽見学することとなりました。行ってびっくり、余りに見事な轍の跡。どうやったら、こんなに見事に地面を削れるんでしょうか。この遺跡、現在の道路とも場所が近いですし、かっては都に通じる幹線道路だったのかも。もしかしたら、お釈迦様も歩いた道かもしれません。

この遺跡の入口では、なぜか民間療法のお薬が売っていました。

 轍の跡
 古代文字(5〜6世紀?)
 民間療法のお薬


山を下って盆地のようになった場所がラジギール。かっての王舎城(ラージャグリハ)です。
かっての王都を訪れる外国人は今は仏教徒くらいでしょう。



王舎城に入ったお釈迦様をビンビサーラ王は食事に招待し、お釈迦様の説法の後は仏教に深く帰依することとなります。王は在家信者、仏教教団のパトロン・保護者であると同時にお釈迦様の友人とも言えるような存在だったようです。大国マガダ国の国王が帰依したというのは仏教が広がる上で大きな影響力があったに違いありません。ビンビサーラ王が寄進したのが竹林精舎です。


竹林精舎



竹林精舎はお釈迦様を始めとする仏教教団の僧達が暮らした世界最初の寺院です。王は、僧達が托鉢に行くのに街から遠すぎず、静かに瞑想するには街から近すぎないこの場所を選び、寄進したと言われています。ここはカランダという大金持ちが土地を寄進し、王が建物を寄進したと伝えられていますが、当時、建物があったかは疑問と言うことで、僧達は野外で生活をしていたのではないかと考えられています。



現在、竹林精舎は公園になっていて、入り口の門が竹で出来ていたり、竹を植えたり、と雰囲気作りに苦労しているのがうかがえます。カランダが寄進したという池が復元されていました。

   



温泉精舎

竹林精舎のすぐ近くに温泉精舎はあります。もっとも、ここは仏教とは何の関係もありません。

ここはインドでは珍しい温泉が出る場所で、ヒンズー寺院があって、温泉を浴びたり、温泉につかる人たちで賑わっています。

温泉ってヒンズー教と何か関係あるのかと思って聞いてみたら、別に何の関係もなく、ただ、楽しいから温泉に来ているのだそうです。

う〜〜ん。なんとも、分かりやすいというか、なんというか・・・。

ともかく大賑わいです。

     



ヒッパラの石の家

温泉精舎を抜けて丘を登って行くと、ヒッパラの石の家という変わった建造物があります。



上の写真で四角く写っているのがヒッパラの石の家。行ってみると、石を積み上げた基壇のような建造物?で、横に人が一人座るのがやっとの空間が窓のように開いており、頂上には何らかの建物の跡のような煉瓦を積んだ跡があります。
ここはお釈迦様が竹林精舎から好んで通った場所と伝えられているのですが、どうやら、お釈迦様が通ったのは横の窓のような場所らしく、本当に狭い空間で瞑想をされていたようです。それにしても不思議な建造物。お釈迦様の時代の石組みの建造物はほとんど残っていないので、極めて貴重なものらしいのですが・・・・。



霊鷲山

ラジギールのハイライトは霊鷲山(りょうじゅせん)でしょう。
私たちも早起きして山道を登り、頂上で日の出を待ちました。
写真は頂上の香室跡。お釈迦様がここで生活し、説法されたといいます。



霊鷲山(ギッジャクータ)は王舎城の東北に位置する山で、お釈迦様は晩年をここで過ごされました。お釈迦様が法華経を初めとする多くの説法を行った場所であり、また、多くの僧が修行しながら暮らしていたことから霊鷲精舎とも言われています。

山の名前の由来は、頂上付近にある鷲の頭の形をした岩にあります。写真に撮ってみましたが、確かに、くちばしを開いた鷲の頭に見えます(右)。

この鷲の頭の形の岩のすぐ先が頂上で、頂上は平たくなっており、そこにお釈迦様が暮らした香室の跡が残っています。
ビンビサーラ王はお釈迦様に会うために頂上に続く石畳の道を作り、その参道はビンビサーラ王の道と呼ばれています。
ビンビサーラ王は参道の途中で馬車を降り、お付きの人たちも途中で待たせて、一人でお釈迦様に会ったと言われています。

仏教が廃れた後、霊鷲山の場所も忘れ去られていましたが、1903年1月14日、日本の西本願寺の調査隊が朝日を浴びる姿が玄奘の記載と合致することから発見し、後に国際的にも認められました。
現在では修復・整備が進み、30分弱で頂上まで登ることができます。


私が行った2012年の年末、インドは45年振りの寒波ということで霧が濃い日々が続きました。
5つの山に囲まれたラージギルは霧の海に沈んでいるようです。霧の雲海の上に朝日が昇りました。
香堂の後ろの多宝山(ラトナギリ)の頂上には日本山妙法寺の建てた白い仏塔があるので狙ってみましたが、残念ながら、良く写りませんでした。しかし、この朝、日本山妙法寺で修行中の日本人青年が、ここでお経をよんでくれたんです。なんともいえない嬉しい出会いです。

   


香堂には金箔が貼られています。おそらくタイの仏教徒が捧げたのでしょう。

日が高くなったので山を下りることにしました。
頂上からはビンビサーラ王の道が良く見えます(左下)。
少し降りたところに7世紀の僧院跡がありました(右下)。
旗はチベットの仏教徒が捧げたもの。世界各地の仏教徒が訪れているようです。

   


暗い中登って来た時は気が付きませんでしたが、見どころが多い。
霊鷲山には岩穴が多く、ここで僧達が修行したと言われています。
左下は舎利弗石窟。右下は阿難石窟。中央は阿難石窟周辺の景色です。
舎利弗(サーリプッタ)は十大弟子の中でも智慧第一と言われる一番弟子。
阿難(アーナンダ)はお釈迦様の秘書役を長年務め、多聞第一と言われる弟子です。
石窟にも金箔が貼られていました。

舎利弗石窟
 
 阿難石窟周辺
 阿難石窟


更に降りたところに、頂上が見渡せる場所がありました。ここにはストゥーパの跡が残っています。

ここはビンビサーラ王がお付きの人達を待たせた場所。ビンビサーラ王は、ここからは一人で山を登り、お釈迦様と面会したわけです。

霊鷲山にはお釈迦様と弟子達のお話が数多く残っています。

先ほど、智慧第一の舎利弗(サーリプッタ)の石窟がありましたが、舎利弗の親友で神通第一と言われた目連(モッガラーナ)は、この山で餓鬼の姿を見たと言います。私達が絵巻物等で目にする餓鬼の姿は目連が見た姿が元になっているようです。
この目連が地獄に落ちた母を助ける方法をお釈迦様に尋ね、教えてもらった方法が、私達がお盆で行う盂蘭盆会の始まりです。

また、同じく石窟があった阿難(アーナンダ)はお釈迦様の年の離れたいとこで、長年に渡りお釈迦様の身の回りの世話をし、最もお釈迦様の説法を聞いたことから多聞第一と言われ、お釈迦様の最後の旅にも同行するほどお釈迦様の信任の厚い弟子でした。

この阿難の兄ともいわれるデーヴァダッタはキリスト教のユダ的存在。
彼はお釈迦様の晩年、教団を譲るようにお釈迦様に迫り、断られると逆恨みをして、お釈迦様の命を狙うようになり、大きな岩を落としたり、狂った象で襲わせたと伝えられています。


左下 ビンビサーラ王が馬車を降りたと言われる場所
下中央 デーヴァダッタが落とした岩で負傷したお釈迦様が運ばれた地に建つ僧院跡
右下 寄進されたマンゴー園。ここまで来ると、もう山の麓です。

     



ビンビサーラ王が囚われていた牢獄跡

お釈迦様の友人でもあったビンビサーラ王は、実は悲惨な最期を遂げます。自分の息子であるアジャセ王子に牢獄に閉じ込められ、餓死するのです。ここは、その牢獄だったと言われる場所。

王の悲劇は、お釈迦様の晩年、教団を譲れと迫って断られたデーヴァダッタの策略によるものだと伝えられています。
デーヴァダッタはビンビサーラ王の息子アジャセ王子に「世代交代の時期」であるとして「王を殺せ、自分が釈迦を殺す」とそそのかすのです。

アジャセ王子はビンビサーラ王を幽閉し、食事を与えずに餓死させようとします。しかし、王妃は王を助けようと麦の粉を蜂蜜で練って体に塗り、身を飾る瓔珞に葡萄の汁を隠して牢に通い、王に与え続けます。
しかし、何時までたっても王が餓死しないことから王妃の行為がばれてしまい、王妃も幽閉された結果、ついに王は餓死することとなります。

そのころ、お釈迦様を殺そうと狂象を放ったり、巨石を落としたりしたものの、ことごとく失敗したデーヴァダッタは自分の爪に毒を仕込みますが、その毒が体に廻って死んだとも、生きながら無間地獄に落ちたとも言われています。

王が閉じ込められていた牢獄というには、余りにも広々とした空間ですが、ここからは足枷が見つかっているばかりか、晴れていれば王が牢獄から見ていたという霊鷲山も良く見えるのだそうです。



ジーバカの果樹園

ビンビサーラ王が閉じ込められていたと言われる牢獄跡の近くにジーバカの果樹園はあります。

ジーバカは卑しい生まれながら名医となった人物で、ビンビサーラ王に仕えていました。
ここは彼が寄進した果樹園で、後に僧院となりました。霧が濃かったですが、霧に浮かぶ僧院跡も幻想的ということで・・・。

ビンビサーラ王が餓死し、デーヴァダッタも亡くなると、アジャセ王子は激しく後悔し、罪悪感からか重い病気になります。

そんなアジャセ王子にお釈迦様に会うことを勧めたのがジータカでした。
アジャセ王子はお釈迦様に会い、お釈迦様に救われ、父王同様に深く帰依することとなります。


実は、デーヴァダッタは厳しい戒律を主張して分派しただけだとの説が近時は有力です。
お釈迦様の神格化に併せて極悪人に仕立てられてしまったのではないかとのこと。
しかし、ビンビサーラ王がアジャセ王子に殺されたこと、
その後、アジャセ王がお釈迦様に帰依していたことは間違いないようです。



アジャセ王の仏塔

アジャセ王のお釈迦様への帰依を示す仏塔も残っています。
   

アジャセ王の仏塔はアジャセ王がお釈迦様の遺骨を祀ったストゥーパです。お釈迦様がクシナガルで亡くなってから8つの国・部族がお釈迦様の遺骨を分け、それぞれの国で祀りました。その8つのストゥーパを八分起塔と言うのですが、マガダ国の八分起塔がこれです。

大国の塔ですから、かっては、さぞ立派だったのでしょうけれど、今では荒れ果て、あろうことかイスラム教徒達のお墓として利用されていたようです。これこそ諸行無常というのでしょうか・・・。



七葉窟

お釈迦様が亡くなった後、二大弟子の舎利弗(サーリプッタ)と目連(モッガラーナ)が既に亡くなっていたため大迦葉(マハーカッサパ)が後継者となります。しかし、後継者といっても、仏教にはローマ法王のような教団の首長はいません。大事なのはお釈迦様の教えを各自が守ることです。そこで、大迦葉はお釈迦様の教えを間違いなく後世に伝えていくため、修行者の最高位に達した弟子達(阿羅漢)を集めて、お釈迦様の教えを整理・統一する会議、「結集(けっじゅう)」を開きます。

第一結集はお釈迦様が入滅してから3か月後にラジギール郊外の石窟である七葉窟で行われたとされますが、その場所と伝えられているのが写真の上の方、山肌に白く四角くなっている場所です。

お釈迦様の話を一番聞いていたのは長年身の回りの世話をしていた阿難(アーナンダ)ですが、彼は当時、まだ阿羅漢になっていませんでした。お釈迦様の世話に熱心すぎて、自分の修行が後回しになっていたのだと言います。

悟りを得ていない阿難は結集に参加することを大迦葉に許されず、泣きながら座禅を組んでいて、突然、悟ったのだとか・・・ここらへんの宗教的見地はよく分かりませんが、ともかく、阿難はぎりぎり間に合う形で悟りを開くことができ、大迦葉に出席を許され、お釈迦様から聞いた数々の教えを語ります。

大迦葉は頭陀第一と言われていました。頭陀とは分かりにくいですが、足るを知るという意味なのだとか。大迦葉はお釈迦様にもらった衣を一生大事に着ていたという清貧の人だったようです。
そして、大迦葉により後に三代目に指定されたのは、阿難でした。


ラジギールにはお釈迦様や弟子達そして王族の人々の足跡が本当に多く残されています。
舎利弗がお釈迦様に弟子入りするのも、王舎城を托鉢するアッサジの姿を見たのがきっかけですし、
舎利弗の親友、目連も王舎城で弟子入りし、そして王舎城で異教徒に殺されています。



生誕の地(ルンビニ)       故郷(カピラヴァストゥ)
成道の地(ブッダ・ガヤー)    初転法輪(サールナート)
大学(ナーランダ
伝道の地・祇園精舎・舎衛城(サヘート・マヘート)と奇跡の地(サンカーシャ)
釈尊最後の旅(ヴァイシャーリー〜クシナガラ)


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参考文献

「仏陀誕生の地 ルンビニは招く」(パサンダ・ビダリ著)
「ブッダの生涯」(新潮社とんぼの本 小林正典・三友量順著)
「釈迦と十大弟子」(新潮社とんぼの本 西村公朝著)
「ブッダの生涯」(創元社「知の再発見」双書 ジャン・ボワスリエ著)
「原始仏教」(NHKブックス 中村元著)
「原始仏典」(ちくま学芸文庫 中村元著)
「『ブッダの肉声』に生き方を問う」(小学館101新書 中野東禅著)

基本的には添乗員さんの説明を元にまとめています。